第1952話・年初めの動き

Side:足利晴氏


 関東を離れ近江で年を越した。あまり歓迎されておらぬかと案じておったが、上様は殊の外、上機嫌であられるな。


 わしはこの地で穏やかな日々を過ごしておる。


「関東が世を動かしておったのは、最早、遥か昔のことということか」


 関東を出て以降、驚かされることばかりじゃ。駿河より西は斯波の地となっており、政からして違う。


 さらに噂となっておる近江御所もある。聞いておった話と随分違うように思えるのは、気のせいではあるまい。


 病の静養のために滞在する御所と聞いておったが、確とした御所ではと思えるほど大がかりなものになる。


「なんでも上様は京の都にお戻りになるのを望んでおらぬとか……」


 奉行衆らが噂していたという話を聞き、少し思案する。かつてあれだけの権勢を誇った細川京兆が今では一介の守護として扱われ、若狭に籠ったままの管領は上様からはお許しが出ぬばかりか、今更戻られても困るとさえ聞き及ぶ。


「困ったら尾張を頼れば万事上手くいくとも……」


 さきの管領代の遺言か。奉行衆ですら清洲に伺いを立てておるというのは驚きよ。最早、政は近江と尾張でしていると言うても過言ではあるまい。


「氏康めは随分前から知っておったのであろうな。油断ならぬ男よ」


 己の城も守れぬ上杉の愚か者は未だに長尾を関東にけしかけておるが、一方、氏康は三好と婚姻を結び、尾張とも誼を深めておる。腹立たしいところもあるが、倅に家督を譲ったのも上杉があやつに勝てると思えなんだところが大きい。


 無論、隙あらばとは思うておったが……。


「今日の紅茶は少し深みがございますな」


「であろう。これもなかなか面白きものよ」


 思案しながら淹れた紅茶を家臣らに振る舞いつつ、わしも一息つく。


 頼んでもおらぬというのに、近江に着くと茶器と茶などが用意されておった。斯波からの贈り物だとか。こちらも要らぬ敵を増やしたくないので根回しをしたがな。薄く白い茶器を当然の如く寄越したことには、少し背筋が冷たくなる気がした。


 斯波、織田、久遠。この三家を怒らせた者の末路は聞き及んでおるからの。わざわざ頭を下げたのだが、その価値はあったということであろうな。


「久遠内匠頭か。よう分からぬ男とも聞くがの……」


 神仏の使いなどという戯言を信じる気はない。されど、敵には回したくないの。人の信を集める男というのはそれだけで厄介な者。


 さて、北条と三好の婚礼の祝いはなににするか。要らぬ懸念を抱えたくはないからの。祝いくらいくれてやらねば。




Side:佐久間盛重(大学)


 大評定を変えた影響はまずまずか。


 また新しきことかと不満げな者もおるようだが、形式ばかり整えたところで仕事はなくならぬ。もう少し言うと、形式を整えたところで守護様にも大殿にもなんの利もない。


 左様なことなどせずとも人を従えておるのだ。


「先の一件に関する具申案でございまする」


 まだ松の内も明けておらぬが、仕事は待ってくれぬ。朝から上がってくる報告をこなしておると、八郎殿がやってきた。


 持参したのは、世の動きを理解させるために文官武官共に賦役の現場を学ばせることなど、大評定後に上がっておった献策に対する久遠家の返事だ。これを基に大殿と若殿の許しを得て評定にて考えることになる。


「やはりやるべきか。わしも人のことを言えぬが、気にかけておらぬところはよう分からなくなるからな」


「左様でございますな。ひとつのことを懸命にすればするほど、周囲が見えておらぬ者も珍しゅうございませぬ」


 織田家において、わしの苦労を一番理解しておるのは八郎殿ではないか。ふと、そう思う時がある。こちらの様子をある程度察して動いてくれるのだ。


 あえて口にすることはないが、共に過ぎたる立身出世をしてしまった身として、似たような役職で苦労をしておる友のように思うこともある。


 わしとて、かつては田畑を耕して暮らしておったのだ。もう何年も田畑に入ることなどないがな。


「それと、他者の働きに対して口を出す者には気を付けねばならぬかと……」


「ああ、こちらで幾度も厳命しておるのだがな。人には得手不得手があり、働き場によってはなかなか評価されぬこともあると。難しきことよ」


 血筋、家柄、家禄。それらがある者に対して家中には厳しい目を向ける者が増えた。しかるべき身分ならば相応しい働きをしろとな。


 守護様や大殿が言われるなら分かるが、まさか下の者や同じような立場の者が左様なことを言い出すとは思わなんだ。


 誰もが内匠頭殿や奥方衆のように出来るわけではないのだぞ。厳しくし過ぎて困るのは己らだというのに。


「焦りもございましょうな。朝廷の内実が見えたことで」


「かもしれぬ」


 院と共に来た蔵人の振る舞いがこの一件の根底にある。過ぎたことに文句を付けるつもりなどないが、あれで地位や権威がある者に対する目が厳しくなった。


 脅威と思える敵が見えたことで、己自身と家中に対して厳しい目を向ける者が増えたのは良いことでもあるのだがな。


 内匠頭殿は人が増えると仕方ないことだとも言うておったがな。とはいえ、こちらとしてはそれで済ませるわけにいかぬ。


 なんとも難しきことよ。




Side:久遠一馬


 清洲では仕事も始まっているが、オレはまだ妻たちが揃っていることもあり急ぎでない仕事はしていない。資清さんたちが代わりに仕事をしてくれているんだ。


「ちーち!」


 今日は蟹江の屋敷でゆっくりと温泉に入っているんだけど、子供たちがお風呂場でもはしゃいでいる。


「ほら、危ないわよ」


「大丈夫? のぼせる前に上がろうね」


「あい!」


 一緒に入っている季代子と春のふたりが子供たちに振り回されるようにしているのが、なんか見ていて微笑ましい。


 早々に上がった子は脱衣所にいる妻たちが面倒を見てくれる。見事な連携プレーだ。


「ところで季代子。そっち大変そうね?」


「楽じゃないわよ。ただ、大殿が人を増やしてくれたから、平時なら私たちが留守にしても大丈夫ね。代官職を変えるのはしばらく無理だろうけど」


 妻たちの中でも日頃は離れていることの多いふたり。年末年始はこうして顔を合わせることでいろいろと話すことも多い。


 特に季代子たちはこのままだと子供を作る時間がないんじゃないかってことで、他の妻同様に定期的に尾張に戻るようにと調整している。


 実はこれ、信秀さんと土田御前が気にしてくれている。今は年一で尾張に戻っているが、最低でも年に三回は戻れるようにと調整を命じた。


 幸いなことに森可成さんとか、神戸さん、赤堀さん、楠木さんたちのおかげでなんとかなりそうなんだよね。


 可成さんはもともと評価が高かったが、あとの皆さんは奥羽で評価が激変したと言ってもいい。今年は楠木さんか。家禄と役職手当も含まれる個人への俸禄、一時金の褒美が合わさると本人も驚くこと間違いないくらいに増えた。


 季代子たちが奥羽に戻り次第、本人に与えられるんだけど。どんな顔をするのか見られないのが残念だ。


「楠木殿、いいわね。こっちにくれない? 伊勢と近江にいてくれると助かるんだけど」


「駄目よ。彼がいないと奥羽の抑えが利かなくなるわ。地縁もない地で名実ともに将となれる人。案外少ないのよ」


 温泉に浸かりつつ春が楠木さんを欲しがったものの、季代子に即拒否されている。春も半ば冗談だろうけど、人材として欲しいのは事実だろうね。


「真面目に学んでいたものね。もう隠居してもおかしくない歳なのに」


「政治センスも悪くないわ。私たちの考えを察して分からないなら聞いてくれるし。場合によっては自分の責任と覚悟で動ける。血筋や名門のお手本のようだわ」


 正直、今の織田家にとって楠木さんの存在は大きいからなぁ。俸禄や褒美とは別にオレからも贈り物をするつもりだ。


 今だから話せるが、もともと評価は相応にされていたものの、ここまで名を上げるような功績を上げるとは思っていなかった。


 タイミングとか偶然とかいろいろあるんだろうけどね。チャンスを掴んだ楠木さんの凄さというのが一番だろう。


 おかげで奥羽の先行きがいい意味で見通しが立ちつつあるんだよね。






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