第3話

こんにちは。最近ぼくは施光恒『英語化は愚民化』という本を読みました。2015年の本だからトピックはやや古いのですがそこで書かれている論述は未だに色褪せておらず、唸らされました。きみも知るように、ぼくの住むこの国の英語教育に関する情熱は「すさまじい」ものがあります。あるいはそれを通り越して「おそろしい」と言えるかもしれません。すでに大学や企業でよりいっそう公用語としての英語を採用しようとする動きも見られているそうで、その動きをにらんで施光恒はそれが「愚策」でしかありえないことをわかりやすく指摘していきます。ぼくも彼の論に賛同します。英語がグローバル化することは歴史の趨勢であり不可逆なものかもしれません。でも、ぼくは施光恒が「土着語」と呼ぶ日本語の力を信じたいと思うのです。


施光恒はこの本の中で、そうしたグローバル言語に拮抗する力を秘めた「土着語」、つまり世界的には使われないけれどもマイナーな力を秘めた言葉のポテンシャルについて触れています。日本に的を絞って書くと、日本人は明治維新の時代に海外から多彩な言葉を翻訳して日本語の中に取り込んだことで、今のように抽象的な思考に耐えうる言葉を磨き上げたのだと本書では整理されます。これは「if」の次元の話になりますが、もしぼくたちが英語が公用語で暮らしていたとしたらぼくたちはノイズなくエドワード・サイード『オリエンタリズム』を読みこなしていたのかもしれません。ですが、ぼくたちはそうして言葉の溝が生み出す文化の深刻な相違について感じる感受性を失っていたかもしれません(もちろん、そんなものなくてもいいんだという人もいるかもしれませんが)。


難しい話になってしまいました。ぼくが言いたいのは、日本語でも抽象的な思考を養うことやすぐれた文学を書くことは十二分に可能だということであり、そしてすでにそうした作品は書かれているということです(だからぼくは、「文学は終わった」式の思考がまったく理解できません。イヤミではなくほんとうにわからないです)。あとはぼくたちが自信を持って翻訳するなり、その哲学や文学やアートの素晴らしさを日本語などで堂々と語ることです。つまり、自分の文化を誇ることだと思うのです。ぼくは自分はナショナリストではないと思っているのですが、このことに関してはナショナリストと呼ばれても仕方がないかと思う。アニメやマンガももちろんすばらしいですが、それだけが日本文化ではないとも思います。


もちろん、こうしたことは相互理解がなければいけません。互いの文化への畏敬/リスペクトを以て、ギブ・アンド・テイクの精神で挑まないと敬遠されるだけでしょう。相手の文化からも必ず何かを学べると思い、そんな興味や好奇心を以て接すること。それが国際化の要諦なのだと思うのです。そうした姿勢があれば自ずとこのグローバル化の時代、「勝ち抜く」道も見えてくるとぼくは信じます。きみはどう思いますか? ぼくが英語を学ぶ理由もそうした理由から整理できるのかなと思います。ぼくにとっては英語は「優れた言葉」だから学ぶのではなく、「面白い言葉」だから学ぶのかなと思います。語弊があるかもしれませんが、この外部に自分を開く姿勢、端的に「面白がる」姿勢をなくしたくないと思います。

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日本を覗く 踊る猫 @throbbingdiscocat

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