第2話

こんにちは。ぼくの近況を話すと、最近英会話教室が始まりました。といってもこれは有名な「駅前留学」とはまた色合いの違った教室です。市の国際交流協会が主催するもので、講師は町の公立の小中学校で教鞭を執る(と書くと大げさかもしれませんが)ネイティブ・スピーカーの先生方。彼女たちから、月並みな表現になりますが「生きた英語」を学ぶことになります。こないだ最初の講座があり、そこでは「6月」についていろいろ話が盛り上がりました。「6月」は父の日があり梅雨があり、夏至もあり……という話をしたのです。ぼくは決して雑談や会話全般が達者な方ではありません。これは英語だけではなく日本語の場合であっても同じことで、ぼくの会話能力は実にお粗末なものです。でも、「会話はヘタクソなのでしたくありません」と逃げ腰になっても始まらないので、なんとか会話を楽しみました。


ぼくが英語を勉強していると書くと、人は(もしかしたらハイコンテクストなイヤミも交えてかもしれませんが)「賢いねえ!」と言います。でも、英語をしゃべれることが賢いのかどうかぼくはわかりません。本音です。ぼくは日本語の読み書きができますが――そして後に述べるように、時折この「読み書きができる」ということのありがたみを忘れてしまうことがありますが――それはぼくが賢いからではありません。子どもの頃にそうした教育を受けるチャンスがあったからです。裏返せば国がそうしたサービスを施してくれたから、ぼくは本を読んだりこうしていろいろなことを書いたりすることができるようになったのです。成人しても満足に教育を受ける機会がなかったため簡単な言葉が書けず悩む人のことを学ぶと、そんな自分の境遇の不思議さについて考え込んでしまいます。


「親ガチャ」という言葉がぼくの住む国で流行りました。人は生まれてくる親を選べない、ということを「ガチャ」というゲーム的要素の高いことがらになぞらえて表現したものです。これをぼくは「たわごとだ」と一蹴することはできないのですが、ただこれはまた別の機会に書くかもしれません。話を戻すと、ならばそれにあやかって「言語ガチャ」「母語ガチャ」という言葉だって考案しようと思えば編み出せるのかもしれないなと思うのです。どうでしょうか。そして、そんな「言語ガチャ」「母語ガチャ」であぶれたと思わせてしまう劣等感がこの国に氾濫する和製英語の群れや、あるいはそうした「英語スピーカーがカッコいい」と思わせる傾向に拍車をかけているのかな、と思うのです。素人の浅い分析にとどまるものだとも思うのですが、率直な実感を記してみました。


人間の心理というのはなかなか面白くできているもので、「ならば英語を話そうよ。英語はカッコいいんでしょ?」とそうした人たちに(そしてもちろん、かつてのぼくも「そうした人たち」でしたが)誘いかけたとしてもその人たちは「だって、英語は難しいし……」と尻込みすると思います。ぼくはふと、ドゥニ・ヴィルヌーヴが撮った映画『メッセージ』を思い出しました。エイリアンの言語を学ぶことで世界認識のありようを変化させられてしまう言語学者の話だったと記憶しています。その言語学者ほどドラスティックにではないかもしれませんが、言語を学ぶことは多分そうして「自己刷新」「自己変革」を強いられることだと思います。簡単に言えば「自分がじぶんでなくなる」ということです。人が外国語に憧れ、同時に尻込みしてしまう原因はこんなところにあるのかもしれないなと思うのです。きみはどう思いますか?

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