日本を覗く

踊る猫

第1話

こんにちは、そちらの様子はどうですか。ぼくの住むこの国ジャパンではそろそろ雨季が始まります。ぼくたちの言葉を使えば「梅雨」ですね。うっとうしいじめじめした雨が降る蒸し暑い季節ですが、見方を変えればアジサイが咲く美しい季節の1つであるとも言えます。また、この時期を乗り越えれば夏が来て本格的に盛夏をエンジョイできます。だからそれまで辛抱するつもりでこの梅雨を乗り越えたいと思います。本題ですが、ぼくはこの国に生まれ育って今年のその夏で48年目を迎えます。ですが、未だにぼくはこの国に対していろいろな「発見」をしてしまいます。なぜこの国はこうなのか。もちろんこれは批判めいたことを言うための方便ではありません。ぼくはそこまでスマートではありません。ぼくはただ、この国が持ついろいろな側面に対して「驚異」を感じるということ、それをお伝えしたいと思うのです。


今日、ぼくは仕事は休みでした。午後に時間が空いたので、clubhouseというアプリを立ち上げてスマートフォン経由で英会話を楽しみました。そこではぼくのようなネイティブ日本人や海外からの日本語学習者が集い、英語を(日本語を混ぜながら)学びます。その後ふと、ぼくは「この国はほんとうに英語学習への関心が高いな」と、先述した「驚異」を感じたのです。もちろん、海外でだって英語を学ぶ人はたくさんいると聞きます。キャリアを磨くため、あるいは日々の生活で困らないため、旅行に行くため、などなど。ただ、「とりあえず日本語が話せれば困ることがない日本」と「英語が話せないと(異文化交流のシビアさに触れざるをえないせいで)困る海外」ではまた英語を学ぶ上での動機づけやプレッシャーが違ってくるのではないかと思ったのです。もちろんこれはどっちがいいとかいう問題ではないです。わかって下さい!


そんなことを考える背景にあるのは、ぼく自身が今まで48年になろうかという人生を生きてきて、英語だって(ブランクを挟むこともありましたが)少なくとも20年か30年は学んできたという来歴があります。そして、ここに力点を置きたいのですがそんな長時間を英語学習に費やしたにも関わらずぼくは自分の英語に自信を持てないでいます。「そこまで勉強したのならペラペラですね」と言われたりもしますが、とんでもないことです。未だにぼくはコミュニケーションは未だにドがつくほど下手です。もっとも、これは日本語のコミュニケーションにも言えることでぼくは日本語ネイティブとして生きてきたのに未だに堅苦しいというかカタコトというか、とうていスムーズとは言えない日本語を使っています。この文章が動かない証拠です。ぼくの脳はどうなっているのか……これもまたイヤミとかハイコンテクストなジョークとかではなく、端的な「驚異」から来る慨嘆です。


そんなぼくからでも、この国はほんとうに英語を面白く扱っているなと思います。人によっては食うためというか、生活するための手段として必死に学ぶ素材。ですが別の人にとってはTシャツやバッグなどに効果的に配される異国情緒あふれるデザインの一環、というように。いや、こうして異国の言葉をデザインとして取り入れる事例は海外にだって存在するのでただちに「だから日本はダメなんだ」と言うつもりもありません。ただ、例えばスパゲッティが和食の素材としてのたらこと合体して「たらこスパゲッティ」になってしまうように、英語という言葉/素材が日本の文脈において器用に日本社会を演出する素材になってしまう、そうした巧みさにぼくは(またこの言葉を使いますが)「驚異」を感じるのです。書けるようなら「続き」を書くかもしれません。

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