車窓から見えた異世界

九段燕(くだん つばめ)

車窓から見えた異世界

 金曜の夕暮れ、俺はつり革に両手を預けながら、目まぐるしく移り変わる景色をぼんやりと眺めていた。

 左へ、右へ、列車が身体を引っ張ってくるのを、なすがまま、受け入れて、ゆらゆらと揺れていた。


 別に今の会社が不満な訳ではない。残業が多いと言われるIT業界で働いているにも関わらず、こうして夕日を見ながら帰宅していること自体、恵まれているのだろう。

 部下も何だかんだいっていい奴だし、収入も独身の俺には十分な金額だ。結婚したいとも思わない。


 だけど、何だろう


 何かが違う気がする


 違う? 足りない? 分からない


 お腹は満たされているのに、何か食べ忘れているような、つかみどころの無い不満が、俺の体内を漂っていた。




 ガタンガタン、ガタンガタン


 列車が川を渡る。大きな川だ。列車の速度をもってしても、渡るのに1分ほどかかるのだから、自然の規模の大きさには驚かされる。


 川は、まるでここが自宅であるかのように、くつろぐように蛇行している。

 水面は穏やかな波を立て、メロンパンを連想させるひし形を敷き詰めた模様を形成していた。そのひし形一つ一つが夕日を反射し、ダイヤモンド色に輝いていた。


 両岸には川幅と同じ幅を持つ草原が広がっており、子供が野球に興じている。




「この川を上った先には何があるのだろう」


 ふと、この台詞が頭に浮かび、一滴の雫が静かな池に作る波紋のように、全身に響いた。


 もちろん、そんなことは知っている。ここは川の下流で、100キロ上ったところに森があり、川の水はそこから流れている。


「見て確かめた事はあるのか?」


 見なくてもわかる


「もしかしたら、何か別のものがあるかもしれないじゃん」


 別のものって?


「異世界とか、秘密基地とか、魔法とか」


 そんなもの、あるわけない


「行ってみなくちゃ分からないだろ」


 ──そうだな


 俺は馬鹿なのだろう。

 幼稚なのだろう。


 ひとたび、心から溢れた好奇心は、もう止まらない。

 常識という留め具は既に外れていた。




 翌朝、俺は財布と鍵だけ持って、家を出た。

 そして、河川敷の堤防の上を、上流に向けて、ひたすらに歩いた。


 青空のキャンバスにまばらに雲が広がり、柔らかなタッチで空模様が描かれてゆく。

 爽やかな風が肌をくすぐり、汗を拭き取ってくれる。


 河川敷には、野球場だの、テニスコートだの、ゴルフの練習場だの、そういったものが姿を変えながら永遠に続いていた。


 喉が乾いたので、堤防から住宅地に降りて自動販売機を探した。

 10分探し回って見つけた自動販売機は、塗装が所どころ剥げていたが、出てきた水は冷たかった。




 辺りが薄暗くなると、川から少し離れたところに繫華街の灯りが見えた。

 駅があったので、改札付近の壁に書かれた地図を頼りにホテルを探し、1泊した。


「こんなところまで歩いたのか!」


 部屋で一息ついた俺は、先ほど見た駅名を思い出すと50キロ歩いた事に気づいた。

 電車でも1時間以上かかる距離だ。

 それにしても、一日中歩いてもずっと住宅地が続いているって、東京広すぎでしょ。


 夕食と風呂を適当に済ませ、ベッドに吸い込まれるように寝た。

 安宿の硬いベッドだが、寝心地は最高だった。




 翌朝、早々にチェックアウトを済ませた俺は、川の上流を目指して進んでいた。


 昨日は住宅地がずっと続いていると思ったが、改めて見ると、家がまばらになっていて、少しずつ田舎になっている事が感じられた。

 田んぼや畑も点在するようになり、普段は見られない景色に、非日常感を覚えた。




 日差しは徐々に強くなり、青空の主張が強くなる。

 喉が乾いたが、近くに自動販売機はなさそうだ。

 もう少し歩けば見つかるかな?




 何時間歩いたのだろうか。

 途中から記憶がぼやけてはっきりしない。




 俺は、どこにいるのだろうか。

 木々に囲まれており、人工物が見当たらない。

 川沿いを歩いていたはずなのに、いつの間にか川を見失っていた。




 ついに俺は、歩く気力を失って、近くの木の根本に座り込んだ。






「お兄ちゃん、どうしたの?」


 可愛らしい声に目を覚ます。


 見上げると、木の枝に座って足をぷらぷらと揺らす少女がいた。

 10歳くらいだろうか。幼さの残る顔立ちに茶髪のショートヘア。

 タヌキのような、丸いケモ耳がぴょこんと生えていた。

 襟付きの白いシャツにオレンジ色のスカートが良く似合う。


「そんな木の上にいると危ないよ」


 そう指摘すると、「大丈夫」とはにかみながら、軽快に飛び降りる。

 スカートが翻っていたが、見なかったふりをするのが礼儀だろう。


「お兄ちゃんのすけべ」


 どうやら見抜かれていたようだ。

 しかし、その声は非難というより、いたずらの色だった。


「ごめんって」

「んも~ しょうがないな~。特別に許してあげる」


「はは、ありがとな」

「そういえば、お兄ちゃんはどこに住んでるの?」


「ここから結構離れてるよ、東京の都心の方」

「東京? 聞いた事ないね」


「え? 東京知らないの?」

「うん。村の名前?」


「えっと…、まあ、そうだね」


 東京を知らないとは驚いた。

 田舎の子供でも聞いた事くらいはあると思っていたが、案外そうでもないらしい。


 お腹が空いたので、食事を摂れる店が無いか聞いてみることにした。


「この辺にレストラン、というかご飯食べられるお店ある?」

「あるよ」


「あるの⁉」

「うん。こっちおいで」


 どうやら、この木の生い茂るうっそうとした森にレストランがあるらしい。

 半信半疑ではあるものの、少女についていくことにした。


 後ろ姿を見て初めて気づいたが、彼女のお尻には短くてふさふさした尻尾がついており、リズミカルに左右に揺れている。


 頭のケモ耳もそうだが、普通の人間ではなさそうだな。

 人気のない森に子供一人でいるのも、おかしいと言えばおかしい。

 何らかの事情があるのだろうか。




 案内されたのは、家と言うには余りにも簡素な作りの建物だった。

 子供が作る秘密基地よりかはしっかりしており、雨をしのぐくらいなら出来そうだが、壁には隙間が多く、冬の寒さを乗り切るのは厳しそうだ。


「ここに住んでいるのか?」

「うん。そうだよ。ちょっと待っててね」


 5分ほど待つと、料理を乗せた皿が運ばれてきた


・小魚(生)

・木の実(枝つき)

・野菜(というより葉っぱ)


 食べるのに躊躇する料理(?)だが、彼女が上目づかいで俺の顔を見てきたので、観念して食べることにした。


 意外にも美味しかった。




 いつの間にか、外は真っ暗になっていた。


「お兄ちゃん泊まってく?」

「いや、明日は仕事があるから、帰らなきゃいけないんだ」


「本当に帰っちゃうの?」

「うん」


 彼女の笑顔は、まるで愛の告白を振られてしまったかのように、暗くなった。


「最後に渡したいものがあるの」


 悲しみを隠し切れない笑顔で、彼女はそう言った。

 彼女に渡されたのは、細い草を編み込んで作られたブレスレットだった。


「これ、大切にしてね」

「わかった」


「遊んでくれてありがとう。楽しかったよ」

「あぁ、料理ありがとな」


「さよなら、元気でね」

「おう、またな」


 こうして俺は、彼女の家を後にし、暗い森へと入っていった。




 ジリリリリ…


 耳障りな音に目を覚ます。

 午前7時。

 いつの間にか、俺は自宅の寝室で寝ていた。


「って急がなきゃ。会社遅れる」


 筋肉痛に苦しみながらも起き上がると、ふと右腕に視線が止まった。


「こんなブレスレット、持ってたっけ?」


 流石に会社に着けていく訳にはいかないので、外して机の引き出しにしまった。




 月曜日が始まり、一人の男が都会の喧騒に溶けていった。

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車窓から見えた異世界 九段燕(くだん つばめ) @Kudan_Tsubame

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