第31話 胸のあたりが、すーすーしますけど



「おまたせ、木葉くん。……と……」


「あ、紹介が遅れました。久野市 忍って子です」


「くのいちしのぶ……ふふ、なんだか忍者みたいな名前ね」


「あ、はは……そうですねぇ」


 部屋から出てきた桃井さんは、久野市さんの名前を聞いて笑みを浮かべている。さっきまで表情が読めなかったが、今は笑ってくれている。

 冗談みたいな名前が、こんなところで役立つとは。


 それから桃井さんは、久野市さんを見て……


「えっと、じゃあ……久野市ちゃん、でいいかな」


「……どうも」


 桃井さんはわりと歩み寄ろうとしてくれているのだが、久野市さんはさっきからぶすっとしたままだ。

 いや態度よ。


 だが桃井さんは、こんな態度を取られても嫌な顔ひとつしない。むしろ自分から歩み寄ろうとしてくれている。

 天使かな。


「私の服、貸してあげるから、部屋で着替えましょうか」


「えー、いいですよ別に。ある……木葉さんの服がありますし」


「だめよ! それ部屋着じゃない! いいから!」


「き、着替えるなら別に、ここでもー!」


 桃井さんは服を抱えたまま、逆の手で久野市さんの手首を掴む。もはや強制的に部屋に入れていく。

 ズルズルと引っ張られる久野市さんはここで着替えるーと言っているが、当然だめに決まっている。


 やがて、「ちょっと待っててね」と言う久野市さんは玄関の扉を閉め、二人は部屋の奥へと消えていった。


「やれやれ……」


 初対面の二人を二人きりにするのは少し怖いが、久野市さんには桃井さんのことをお世話になってる人だと言っておいたし、桃井さんは優しいから手荒なことにはならないだろう。


 俺は、ここで着替えが終わるまで待っておくとするか……


「ほら、服脱いで……って、久野市ちゃん、下着は!? え、これさらしってやつ? 初めて見た」


「下着? ないですけど……私はずっとこれですよ」


「ずっと!? 年頃の女の子が!? だめよそんなの!

 え、下着がないってことは……下は……」


「そんな驚くことですか? あぁ、下はふんど……」


 俺は、耳を押さえた。両耳を、両手で、これまで気合いを入れたことがないんじゃないかというほどの力強さで、押さえた。

 おかげで声は聞こえなくなったが、耳がすげー痛い。


 うそうそうそ、待ってくれよ。このアパート、部屋の壁がそこまで厚くはないことは知ってたが、玄関先で部屋の中の会話聞こえちゃうの?

 しかも扉越しに……うわぁ、マジか。


 これ、俺も気をつけないとな。お隣さんとか、うるさくしたらすげー迷惑だぞ。

 まあお隣さんには会ったことないんだけど。


 それから俺は、両耳を塞ぎつつ雲一つない青空を見上げ、素数を頭の中に思い描いていた。ただ、無心になるには素数が効果的だとルアに教えてもらったが、素数がよくわからない。


「おまたせ」


 ガチャ、と扉が開く。耳を塞いでいたので音は聞こえなかったが、扉が開く様子は見えたので、続いて出てくる桃井さんを見る。

 それから、部屋の中から引っ張り出すのは……


「じゃん。どう?」


「おぉ……」


 出てきたのは、当然久野市さん。ただ久野市さんはどういう感情なのか、その表情は無なのでよくわからなかったが。

 痴女のような黒服や、俺の部屋着とは違い、ちゃんとした服だ。シャツは両胸にポケットがついており、上に上着を羽織っている。

 下はデニムのズボン。ぱっと見、これといったおしゃれは見られない。


 だというのに……こうも着こなしているのは、素材がいいからだろうか。


「うん、すげー似合ってる」


「でしょでしょー」


 俺が素直な感想を口にすると、桃井さんはどこか誇らしげだ。

 一方で、久野市さんはというと……


「そ、そう……ですか……」


 いつもは俺の目をしっかり見て会話をするのに、今は目をそらしている。それに、ちょっと顔が赤いような気もする。

 もしや……照れて、いるのか? あの久野市さんが? 人前で脱ごうとしていた人が?


「とりあえず、私と背格好は似てるから、適当に見繕ってみたの。本当はおしゃれとかしてみたいんだけど、それは追々……

 まあ久野市ちゃんは、元が良いからちょっと身だしなみを整えるだけで、かなり様になるよ。どう、着心地は」


「はい、サイズも問題ありません。

 ただ、胸のあたりが、すーすーしますけど」


「! そ、そういうこと、言わなくていいから!」


 着心地を聞かれた久野市さんは満足そうにして、言わなくてもいいことを言ってしまう。

 慌てる桃井さん、そして俺はほとんど無意識に視線を、久野市さんの胸のあたりに移動させていた。


 久野市さんと桃井さんの背格好は同じだ。だから、桃井さんが着ているものでもサイズは問題ない。……一部を除いて。

 胸のあたりがすーすーするってことは……あれだよな、久野市さん的には余裕があるってこと。つまり、胸元部分だけ服の面積が大きい。


 と、いうことは……


「……木葉くん?」


「!」


 ふと、攻めるような口調で名前を呼ばれる。視線を移動させると、胸元を隠して俺を睨んでいる桃井さんの姿があった。

 ……胸元を隠して。


「いや、すみません! そういうつもりじゃ、なくてですね……!」


「そういうつもりって、どういうつもりなのかな」


「う……」


 まずい、墓穴を掘った……いや、墓穴もなにも。女の人の胸を見比べるとか、最低すぎるだろ俺。

 以前篠原さんが、桃井さんは背が低いのに出るとこは出てる、なんて言ってたな……あんときは、気にしないようにしてたのに。


 というか、大学生である桃井さん的に、久野市さんと一部以外のサイズが変わらないのはどういう気持ちなんだろうか。


「はぁ……いいよ、木葉くんがムッスリスケベなのは知ってるから」


「むっ……えぇ!?」


 なんか、桃井さんにあらぬ誤解を与えてる気がする! いや今回のは誤解ではないけどさ!

 なにか言わないと、と思っても言葉は出てこない。そんな俺を無視し、桃井さんは続ける。


「あと、私も一緒に行く。久野市ちゃんの服選び」


「え……」


「木葉くん、女の子の服のことわかる? 久野市ちゃんは服のことはどうでもよさそうだし……

 それに……服だけじゃなく、下着も、いくつか買っておかないと……」


 予想もしていなかった、桃井さんも着いてくるという言葉。ただ、正直助かる。

 桃井さんの言うように、俺も久野市さんも服のことはわからない。せっかく買いに行くなら、ちゃんとしたものを買いたい。


 後半、なにかぶつぶつ言っているようだったが。

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