第30話 では、木葉、さん?



 もはや何度、そんな呼び方をされただろう。

 俺を「主様」と呼ぶ、底抜けに明るい声。俺も桃井さんも、声のした方向へと視線を向ける。


 すると、彼女はそこにいて、こっちに向かって歩いてきていた。笑顔で手を振って。

 もちろん、例の痴女服で……と、言いたかったのだが……


「ちょっ、く、久野市さん!? な、なんて恰好で出てきてんの!?」


「へぇ?」


 俺は戸惑うも、なぜか久野市さんはきょとんとしている。

 いや、なんで当の本人がきょとん顔なんだよ!?


 今久野市さんが着ているのは、俺の服だ。しかも、というか当然、と言うべきか……寝る際に着ていたもの。

 つまりは、サイズの合っていない部屋着で、なんの躊躇もなく外に出てきたのだ。


「い、いくらアパート内だからって、もうちょっと恥じらいをだな! そんな恰好で出てきていいもんじゃないから!」


「? 主様の服の、なにが問題が?」


「ああもうそうじゃなくて!」


 なんでこの子は、こういろいろズレているんだ!? 誰も服が変だって話していないだろう!

 思わず頭を抱えるが……隣から、なんだかとても、重々しい迫力を感じた。


 隣、ということは、そこにいるのはもちろん……


「さ、桃井さん……?」


「……」


 先ほどから黙ってしまっている桃井さんに、恐る恐る目を向ける。

 桃井さんは、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。


 目を細め、まるで久野市さんを睨みつけるような様子かと思えば、顔を赤らめ口を一直線に閉じている。

 これは……どういう感情なのだろう。


「主様、この女は……?」


「! ちょ、なんて言い方を……!

 俺がお世話になっている人だよ!」


 初対面である相手に、それも桃井さんに対して乱暴な言葉遣いに、俺は少しむっとする。久野市さんが、俺以外の人に容赦なさそうなのは火車さんの件でなんとなくわかってはいたが……

 それでも、桃井さんに乱暴な言葉遣いは許さない。


 そんな俺の気持ちが通じたのかは、わからないが……久野市さんは、しゅんとして黙ってしまった。


「え、えっと……木葉くん……?」


「あ、すみません、なんか置いてく感じにしちゃって。この子が、さっき言っていた……」


「この子が着ているの、木葉くんの服だよね」


「……へ? ま、まあ、はい」


「ふぅぅぅん」


 なんだろう、いきなり現れた謎の女の子について、説明しようと思ったのに。というか、桃井さんも気になっているだろうに。

 まず気にするとこ、そこ!?


 そりゃ、久野市さんの服が他にないことは話しているし、そんな彼女が別の服を着ていれば、予想はつくと思うが。サイズも違うしな。

 桃井さんが久野市さんの顔を覚えているかはわからないが、会話の内容からこの子が、話の子だと判断することはできるだろうし。


 ただ、久野市さんが着ているのが俺の服だと聞いてから、心なしか桃井さんの目が鋭くなったような気がする。


「あの、桃井さん?」


「待ってて、すぐに服持ってくるから」


 俺がなにを言うよりも先に、桃井さんは部屋の中に戻ってしまった。残されたqのは、俺と久野市さん。

 どうしたんだろう、桃井さん。なんか妙な感じだったけど。


 まあ、服を貸してくれるというのだから、おとなしく待っていようか。

 それよりも……


「久野市さん、部屋で待ってるって言ってなかった?」


 最初は、久野市さんも一緒に来させようとしたのだが。服なんか必要ないと、拗ねて部屋に残っていたのだ。

 そんな彼女が、なんでここにいるのか。


「だって、主様遅いんですもん」


「……ま、結果オーライかもしれないな」


 久野市さんを見たとたん、桃井さんの目の色が変わり、部屋の中に服を撮りに戻った。それはきっと、久野市さんの体型を見たからだろう。

 俺は、服を貸してくれとしか言わなかったが……桃井さんにとっては、服を貸す相手の体型がわからない。自分の持っている服が小さいかもしれないし、大きいかもしれない。


 二人を知っている俺は、似た背格好だと知ってはいたが、桃井さんはそうではない。

 服を貸す相手の体型を見て、自分と似た体型だと確信して、部屋に服を取りに戻ったのだろう。


 服を用意するまで、それほど時間はかからないと思うが……今のうちに、久野市さんに注意しておくか。


「あとね、久野市さん。外では俺のこと、主様なんて呼ばないで。できれば二人のときでもやめてほしいんだけどね」


「え、どうしてです? 主様は主様ですよ」


 俺のお願い……のようなものだ。だが、それを受けてまたも久野市さんはきょとん顔を浮かべる。

 どうしてって……説明が、必要なのかなこれ。


「恥ずかしいから以外にないでしょ」


 そう、恥ずかしいからだ。年の近い女の子に、外で主様と呼ばせるとか、どんな羞恥プレイだよ。

 本当なら家の中でも二人きりでも、俺のことを主様呼びするのはやめてほしい。


 それに……絶対、変に思われる。運がいいと言っていいのかわからないけど、桃井さんは主様呼びに気付いていないようだった。

 俺が恥ずかしいし、どうして主様なんだって聞かれたら……説明が、ややこしすぎる!


「でも……」


「俺を主だと思ってるなら、言うこと聞いてほしいな」


「……わかりました」


 あんまり、こういう言い方はしたくはない……けど。久野市さんに自分の意見を押し通すには、この方法が一番だ。

 この子、主様主様言うだけあって、俺の言うことは聞く。も、もちろんそれを利用して、変なことしようなんて考えたことはないよ。えぇないですとも。


 とにかく、これで主様はやめてくれるだろう。少なくとも外では。


「では、なんとお呼びすれば……」


「主様じゃなきゃ、なんでもいいよ」


「うーむ……では、木葉、さん?」


 もっと早くに、呼び方について話し合っておくべきだったかもしれない。

 その後、呼び方が決定したのとほぼ同じタイミングで、部屋の扉が開いた。

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