第6話 郷野の証言
スマートフォンで印刷会社のホームページを調べながら、私は部室へ向かう足を止めた。
部室は三階の古典資料室を使用していて、放課後には人の気配が希薄になる。私は廊下に佇み、暫く考えていた。さて、どのように話を切り出そう。
昨日、様々な印刷所のウェブサイトを覗いていると、原稿の入稿を二週間早めれば印刷代が六割程度の金額で済むという。部を任されている長として、これは見逃すわけにいかない。でも、通常の〆切よりも二週間予定を早めるというのは、他の部員にとっては大変な負担になるだろう。すんなりと了承してくれるか知らん。
溜息を何度となく零すが、答えなんて出ない。私は腹を括り、部室の戸を開けた。
「おはよう。」
市ノ瀬さんが、明るく声を掛けてくれた。彼女は部内の経理を担当していてくれて、責任感の強いその性格から私は部内で一番信頼を寄せている。
「おはよう。」
「おう。」
もう一人、部室にはひょろりとした体型の男子生徒がいた。黒川鉄夫という嫌な性格をした男で、この部員のことはあまり信用していない。
「どうかしたの、雅美?」
「何が?」
「何か顔が強張っているけれども、」
市ノ瀬さんに指摘され、私は顔の筋肉が固まっていることに気が付いた。
「実はね、」昨日から延々と考えていた、部誌の〆切を二週間早めたいという案を話す。
「なるほどね。私は悪い話ではないと思う。」
「俺も、悪いとは思わないが、〆切が二週間早まるのは大変じゃあないか?」
「でも、出費を減らすことが出来るのよ?」
私は思わず声を上げてしまった。
「いや、だから、そこは分かる。ただ……、」
「分かっているって言っても、結局部の財政よりも自分の執筆が楽なほうを選びたいんでしょ。」
「そういう言い方は身も蓋もないだろう。」
「なんで、事実でしょう。じゃあ、二週間早めて良いのね?」
「ふざけんなよ。独善的だろう、それは。」
「ちょっと二人とも、そんな言い争いしないでよ。」私と黒川の争いに、市ノ瀬さんが割って入る。「二人とも言っていることは正しいのだから、山下くんにも意見を聞いてみれば良いでしょう。」
まったくもって彼女の言う通りで、私たちは一時休戦をして一年生の山下くんが来るのを待った。
待っている間、私たちは一切口を聞かず、外から聞こえてくる運動部の掛け声と、吹奏楽部の演奏の音だけを耳にしていた。
暫くして、山下くんが部室にやってきた。部屋に入るなり、黒川は彼を仲間に引き入れようと声を掛ける。
「ちょうど良いところに来た。お前、部誌に寄稿する原稿の枚数は決まっているか?」
今の時期に原稿枚数が決まっているわけなんてないのに、黒川は卑怯な聞き方をして、山下くんから否定的な返事を引き出す。
「いえ、まだ決まってませんけど、締め切りって十月の頭でしたよね。」
「本来ならそうだったんだけれども、」
批難するような視線を向け、黒川は話を私に振る。癪に障るが、山下くんに事の内容を話さなければ可哀想なので、私は先ほど他のみんなに話した内容をもう一度伝える。しかし、山下くんを交えた話し合いでも結論は出ず、私は机に項垂れた。
「やっぱり、入稿を早めるのは難しいのかな?」
「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ。」
人が悩んでいるのを余所に、黒川は呑気に喉の渇きを訴え、財布片手に廊下に出る。
「お手洗い行ってくるわ。」
「あ、私も、」
市ノ瀬さんも席を立ったので、私は同行させてもらうことにして、一緒に部室を出た。廊下にはまだまだ長い日中の陽射しが窓から射し込み、夏の終わりは当分訪れそうもないことを教える。
私たちは廊下脇にある御手洗に向かいながら、部誌についての話を続けた。市ノ瀬さんは私の意見を尊重してくれていたが、あくまで慎重な姿勢を崩さない。
「一週間猶予を作って、みんなが〆切を二週間早められそうか試してみたらいいんじゃあない。駄目なら、例年通りの日程にすれば良いし、可能なら早めれば良い。どうかな?」
「それは良いアイデアね。それで行きましょう。」
「ふふ、ありがとう。」薄い色の唇を僅かに緩めて、彼女は笑う。しかし、横顔は血の気が薄く、視線はどこかぼんやりとしていて遠くを見ている。何か考え事でもしているのか知らん、と思っていると、
「あっ、」
女子トイレを前にして、市ノ瀬さんは不意に声を漏らす。何かに気が付いたように、空の両手を見遣り、「忘れ物しちゃった。」と短く舌を出し、踵を返す。
「私、ちょっと部室に戻るね。」
急ぎ足で彼女は元来た廊下を戻っていく。一体何を忘れたのか分からなかったが、私は階段の踊り場に佇み、彼女が戻ってくるのを待った。しかし、存外早く彼女は戻ってきた。手にはピンク色の小物入れを持ち、よくよく見れば金物のロゴが取り付けられており、ブランド物であることが分かる。
「どうしたの、そのポーチ?」
「この間、気に入ったから買っちゃった。」
恥ずかしそうに笑うと彼女は手にしたポーチを背に隠し、そそくさと御手洗の中に入っていく。私も後を追い、それぞれの個室に入った。
少しして個室を出ると、彼女は洗面の鏡に向かい合い、ピンクの小物入れから出した道具でお化粧を直していた。血の気がなかった頬はほんのりと赤みが差し、唇にも艶のあるリップが塗られる。化粧っ毛のない私には、その手捌きはスムーズで惚れ惚れとするものだった。
「お待たせ。」
化粧直しを終え、彼女は柔らかく微笑む。その表情を見詰め、私も化粧をすれば彼女のように少しは可愛げが生まれるのだろうか、と考えながら部室に戻った。
部室に入ると、黒川が床に這い蹲っていた。
「何やっているの?」
不可解な物体を見るように、市ノ瀬さんは足許を見遣りながらポーチを仕舞いに荷物が置いてある机へ向かう。「あれ?」と、息を呑むような小さな声が、彼女の喉から漏れた。
「ない、ない、ない。」
堰を切ったように彼女は声を張り上げ、手元の荷物を掻き回す。
「どうしたんだよ?」
「ないのよ。」
黒川の問いに、市ノ瀬さんは珍しくヒステリックな声を上げる。
「何がだよ。」
「部費が、」
「え?」一瞬、彼女が言っている言葉の意味が分からなかった。「市ノ瀬さん、それどういうこと?」
「分からない。さっきまでは、ここに有ったんだよ。」髪の毛を振り乱しながら、彼女は頭を激しく振る。「みんなも見たでしょう。ここに部費を入れてある巾着が置いてあったのを、」
「本当にないのね?」
「ええ。」
「誰も心当たりはないのか?」
私たち一人一人の顔を黒川は見回す。私も同じように全員の表情を窺っていたが、誰一人として声を上げる者はいない。
「誰も心当たりがないんなら、結論は一つだな。」
「結論って何よ、黒川?」
「簡単だよ。盗まれたんだよ、部費は。」
溜息を大きく吐きながら黒川は結論付けたが、私にはそれが俄かに信じられなかった。
「でも、部室には誰かしらがいたはずだし、盗みに入るなんて難しいはずよ。」
「余所から盗みに入るとは限らないだろう。」
「どういうこと?」
私の問いに、黒川はまるで哀れむような色の視線を向けながら、わざとらしく息を吐く。
「分からないのか。盗人は身内にいるって言っているんだよ、オレは。」
「何、馬鹿なこと言ってるの、」
「だって、そうだろう。よくよく考えてみろよ。」
本来ならば、言われるまでもない話だ。部室には部員の誰かがいて、文芸部以外の生徒が侵入したとは考えづらい。ならば、当然部費を盗んだのは文芸部員の中にいると推測するのが妥当。
そして、黒川が飲み物を買いに出て、私と市ノ瀬さんが御手洗に向かった。部室には、山下くんだけが残っていた。然らば、盗みを働けたのは彼だけではないだろうか。
私は自然と下級生の顔を凝視していた。
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