第2話ワンルームを後に
田舎の、山奥にある、六畳一間の狭い部屋。そこに、冷蔵庫とスチールラックとコタツと布団。荷物や家電に覆い尽くされ、畳の見える部分はほぼなくて。狭い、狭い、狭い部屋。会社の木造社員寮の狭い部屋。
此処に引っ越して来た当初、卒業アルバムに衣類に本、それらを詰めた5箱程のダンボール、それが僕の所有物の全てだった。それらを持って、18年過ごした、過ごす事を強要された、大嫌いな実家を後にして、就職した高校3年生の年明け。18歳になったばかりのあの日。
見送る人もいないまま、2月の湿った雪の降る冷たい朝、遠い遠い実家を出たその時、悲壮な覚悟を胸に秘め、僕は一度だって振り返らなかった。
会社の求める資格を取得するために、3年間学校に通いながら、合間に安い時間給で仕事をする日々。学校を留年したり、資格が取得できなかった日には即刻退寮を迫られると再々脅され。
そんな背水の陣の生活は、当然、楽じゃ、なかった。休みなんて1ヶ月に1日あるかないか。収入も当然低く、ギリギリで営まれる生計。それでも、僕が、大嫌いな実家を捨てて、自分一人で生きる為に、選んだ道。どうして僕だけこんな目に、と、泣きながら、挫けそうになりながら、それでも、帰る場所はこの部屋だけなんだ、と、自分に言い聞かせながら歩んだ泥だらけの道。
学校の同級生のお祖父さんが建てたらしい木造の、築数十年のこの建物の、この部屋は、外から見れば廃墟と区別がつかないくらい、ボロく、中に至っては文句しかない重度の文句なしで言える欠陥住宅だった。
雨が降れば雨漏りし、雪が降れば雪の重みで断線してテレビは番組を映さなくなり。壁は薄く、一時いた隣人の生活音は寝息の音まで丸聞こえ。お風呂はないし、キッチンもない。年中四季折々の害虫は侵入するし、天井からも降ってくる。季節が冬になれば、びゅうびゅうと音を立てて、隙間風が吹き荒び。
「よくあんなところに住んでいる。」とは、挨拶の様によく言われ。その度に、僕自身でも「よくあんなところに住んでいる。」と、自分自身に感心して。「なんであんな所に住まなきゃいけない。」と、世の不条理さを恨んでみた。
本当に、本当に、嫌な部屋だった。
押入れの襖は破れてて、前住民が酔った勢いで壁に穴を開け。畳は何代前の住民の時に入れ替えたのか、黒いカビが生え、家具のあった形にベコリと凹み、部屋の鍵は錆び付いて信頼性に欠けていて。ケータイの電波は入らない時すらあって。
そう言えば、酔っ払って転びそうになり、窓に手をついた時には、あまりにも簡単にガラスが割れてしまったっけ。
あぁ、考えれば考えるほど、残念な事ばかりが思い出される。「快適」と言う言葉が程遠くて、それでもその言葉にたどり着きたくて、掃除をして、修理をして。その度に「快適」と言う言葉の距離が、太陽と冥王星ほど離れている事を実感した。
それでも、僕は満足だった。この欠陥に満ちた部屋が、満足だった。四六時中、身内と言う名の厄介な存在と共存する事を強制される事のない、僕だけの空間。
そんなこの部屋にだって、好き好んで来訪して来る変人達がいた。
酒に酔って、早朝にドアを打ち破って入ってくる一回り年上の同僚。共にこの部屋で幾夜を語り明かした。
寂しがりだった親子ほど歳の離れた一時の隣人は、語り相手欲しさに、此方の都合にお構い無く、酒を片手に頻繁に来訪し。
無口で高齢な無愛想の寮の管理人は、痩せ型体型の私を心配して、時折食料を持ってきて。
学校の友人も、時折やって来ては、この狭い部屋に集合し、「狭い。」「汚い。」等と文句を吐きつつ、下らない学校の話を肴に酒盛りをした。
けれど、僕の部屋に訪れた友人知人同僚たちは、もう二度と、会う事はないだろう。一人去り。二人去り。そして、誰もいなくなった。皆、それぞれ、自分の道を行ったのだ。寂しいけれど、誰とも同じ道を選ばなかった、選べなかった、それが僕の選んだ道だ。
あぁ、何故だろう、此処で過ごした3年間は、辛い事が多かった筈なのに、思い返すと笑顔が溢れてしまう。同じく辛い事が多かった筈の実家の事を考えた所で、一滴の笑みも溢れないと言うのに。不思議な事だ。
数日間かけて行なっていた荷造りの、最後の荷物を段ボールに詰めた頃には、部屋の段ボールは35箱になっていた。読書が趣味の私は、せっせ、せっせと古本屋に通い詰め、この3年間で蔵書を思いの儘に増やしていった。よくもまぁ、部屋の隙間と言う隙間に、これだけの本を収納していたものだと、我ながら呆れてしまう。そして、その大半は未読なことにも更に呆れてしまう。
僕の荷物が6畳一間では納まりつかなくなった、それが今回僕が引っ越す事を決めた原因。しかし、思い出の方も漁ってみると、30増えて35箱となった段ボールの荷物以上に、僕は多くを手に入れていた様だ。
次の引越し先は、1LDK。今の荷物は間違いなく収まるだろう。しかし、あまり物を処分する事が苦手な僕は、またその部屋も手狭にする日が来るのだ。
果たしてその頃の僕は、何を手に入れ、何を失っているのか。
まだ見えぬ未来をぼんやりと想いつつ、ハンドサイズの小型の掃除機で積もりに積もったホコリを集めながら、僕は引越し業者の到来を待つのだった。
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