もう、思い出せない昨日

白都アロ

第1話残光

 僕を覆う世界は暗く、左右に揺れる振動と共に、ガサガサと音がする。

 僕が誰で、僕が何なのか。今の僕には分からない。虚な意識の中で、僕は僕を考える。手は動かない。足も動かない。声を出せない。あぁ、そう言うことか。僕は、生き物じゃぁ、ないのか。

 虚な意識で、虚ろな解を得る。自己で外にできる自己表現は何もない。側から見たら命の無いもの。命がないのに意識がある。僕の終わりは、いつなのだろうか。いや、未だ始まってもいないのに、もう終わりを考えている。なんて、変な、話。

 大きな振動とともに、揺れが終わり、一際大きなガサガサが聞こえる。しかし、それも間も無く終わり、眩しい光が僕を射す。

 細身で眼鏡をかけた、白髪混じりの壮年の男性に、僕は抱えられていた。

「メイカちゃん、これから君の友達になる、クマさんのビャクエイ君だ。仲良くするんだよ。」

 名前を付けられ、自己をクマのぬいぐるみだと自覚し、僕ーーーービャクエイが生まれた。誕生と共に、友達と定められた人物は、メイカと名付いた幼い女の子だった。


 メイカは、泣いていた。

「あ、あっ。あ、あ。」

 僕の方に興味を示す事もなく、ただ泣いていた。

 泣かれたところで、僕に出来る事は見る事だけで。だから僕は、薄汚れた衣類を纏ったメイカを見た。

 身長は僕と同じぐらいの、髪の長い、女の子。眼は大きいが、頬が痩けている。いや、頬が痩けているから目が大きく見えるのだろう。手足は衝撃を与えれば直ぐに折れてしまいそうなほど細く、白い肌は、所々青い色が浮いている。

 メイカを見た僕は、続けて周囲を観察する。あまり物の無い、ワンルーム。テーブル、テレビ、電話、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、布団、その程度の最低限の家具家電。しかし、これだけの家具家電をワンルームに置けば、窮屈になりそうな物ではあるが、そうではなく。割と広めの部屋なのだろう。

 時間がどれだけ経ったのだろう、僕には分からないが、短くは無いはずだ。涙のストックが尽きたのか、メイカは泣き止み、それでも暗い顔をしながら、座っている。程なく僕に気がつくと、僕の方に這って来て、抱きつく。

 その抱きつき方は、荒々しく。安心を求めた本能の行動。僕じゃなくても、きっと、良いのだ。

 そんな様子を、床に座った僕の名付け親たる壮年の男性は暗い表情で、眺めていた。


「ご飯が、できた。」

 背の低い机に器とスプーンを並べた壮年の男性は、メイカにそう声をかける。しかし、メイカは僕を抱いたまま首を傾げ、しかし、意味が分かると、僕の頭を掴み、引き摺りながら其方に這っていく。

 机の前に座ったメイカは、僕を手放すと、食物の入った皿に、そのまま手を入れ、食べだす。

 その様子に、壮年の男性は驚き、立ち上がり止めようとするが、それ自体も途中で止める。

「お腹が空いていたんだね。念の為に、冷まして置いて良かった。」

 そう言って、メイカの様子を見守る。

「それはね、シチュー、と言うんだ、メイカちゃん。」

 食べることに夢中なメイカは、その声を聞いている様子はなかった。

 暫く時間が経ち、シチューを平らげ、床に転がるメイカの口や手を手拭いで拭きながら、男は喋る。

「僕の名前はタカツキと言うんだ。」

「た・・き?」

 満腹になり、落ち着いたメイカは、タカツキの名を復唱しようとし、失敗する。

「あぁ、そうだ。それで良い。」

 中途半端に呼ばれた名前を、修正させる事もせず、タカツキは微笑みながらメイカを抱き上げる。

「恐らく、僕は余り長い間、君の側には居られない。でも、それでも。少しでもこれがきっかけで、君の人生が開ける事に、僕は賭けるよ。」

 半分どころか、少しもメイカに理解されないであろう言葉を言いながら、彼は寂しげな目をして、微笑んでいた。


 タカツキは、来る日も来る日もメイカの世話をしていた。メイカは、何も、出来なかった。着替えも、入浴も、食事も、排泄も、一人で歩く事も、そして、話す事も。それでも、タカツキはただの一度も怒ることなく、メイカの世話を続けた。

 当初、メイカはタカツキの世話を拒んでいた。しかし、回を重ねる事で、タカツキに敵意が無い事を理解すると、素直にタカツキに従い、身を委ねる様になった。

 一週間が経つ頃には、メイカはスプーンで食事を食べることができる様になった。その様子を見て、タカツキは非常に喜んで、メイカを褒めた。メイカ自身は、何が褒められているのか分かっていない様だが、褒められたこと自体に喜び、笑った。

 一週間と、数日が過ぎ、タカツキはメイカに僕を抱かせながら、語りかけた。

「ビャクエイは、君の友達だから、大切にしなさい。」

 メイカは惚けた表情でタカツキを眺める。それでも、タカツキは続ける。

「大切にする事を、覚えなさい。何かを大切にする事が出来たら、いつか、君が、君を大切にする事が出来るはずだから。」

 その言葉を、タカツキは毎日続けた。意味のわかっていない、分かることのできないメイカに、刻み付ける様に。


 メイカは、僕に対しても興味を持つ様になった。タカツキの言葉の何かは引っかかっているのだろう。常に僕を抱き、僕を連れ回した。しかし、僕を風呂まで連れていき浴槽に沈めようとしたり、スープを飲まそうと食器に僕の頭を突っ込んだり、大切にしようとしているのかもしれないが、なかなか大切には扱えなかった。きっと、大切にする、と言う意味が分からないのだ。それでもタカツキはその様子を見守り、メイカが僕を抱いて寝静まった頃、僕をドラム式洗濯機に入れ、洗ってくれた。タカツキはメイカだけでなく、命の無い僕にさえ優しくしてくれる。しかし、洗濯機は三半規管が無い僕でも気分的に目も回るし辛いものはあったのだが。


 朝起きて、着替えをし、朝食を食べ、歯を磨き、絵本を読み、テレビを見せ、昼食を食べ、歯を磨き、お昼寝をし、テレビを見せ、夕食を食べ、入浴し、パジャマを着せ、テレビを見せ、眠る。

 そんな、毎日を繰り返す。一般的に言うならありふれた日々なのだろうが、メイカもタカツキも笑い、幸せな日々を過ごしていた。けれど、日にちが進めば、進むほど、タカツキの笑顔に憂いの色が滲んだ。僕にも、メイカにも、その意味はわからなかった。


 ある日の、お昼過ぎ。僕を抱いてテレビのニュースを訳もわからず見る、メイカ。

 タカツキは、僕らに背を向けて、メイカの大好きであろうシチューを作っていた。

 シチューを作り終え、テーブルに食器を並べた頃。

 ピンポーン

 高音のチャイムが鳴る。いつもの宅急便のお兄さんの来訪を告げる音。しかし、今日のタカツキは、インターホンを取らない。来訪者の姿を写すモニターの前で、立ち尽くす。

 ピンポーン

 再度、音が、鳴る。

 タカツキは、インターホンは取らず、僕を抱いたメイカを抱き上げ、トツトツと、言う。

「お別れの時が、来たみたいだ、メイカちゃん。でも、大丈夫。君は、もう、食事も一人で食べれるし、立ち上がって、歩く事もできる。」

 ピンポーン

 ピンポーン 

 ガチャガチャガチャ

 騒がしい音が、鳴る。その音に恐怖し、メイカが泣く。

 それでも、タカツキは続ける。

「大丈夫。大丈夫だから。大切にする事は、教えただろう?だから、大丈夫。これから先も、君が歩む人生は、辛く、厳しいものには違いないけど、安心して、生まれなさい。大切にされた記憶があって、自分さえ大切にできれば、いつか、きっと、報われるから。」

 そう言い残し、最後にメイカの頭を撫でて、もう、振り返る事なく、タカツキはドアを開ける。

 そこには、青い服を来た男が、数人いた。

「タカツキ レイセン、だな。」

「あぁ。分かっているさ。連れて行ってくれ。」

 そう言って、タカツキは、メイカが来てから、ただの一度も出なかったワンルームから出て行く。

「あっ‼︎た、き‼︎」

 その様子を見て、メイカはさらに泣く。

「た、かっ、つ、き‼︎」

 泣きながら、初めて彼の名前を、正しく呼ぶ。

 タカツキは驚いて、一度、メイカの方を向いて、笑顔を見せ、それでも青い服の男に連れられて、去っていく。

 間も無く、女の青服も入ってきて、嫌がるメイカを抱き上げる。僕は、メイカの手を離れ、床に落とされる。

「あ‼︎あぁ‼︎や‼︎やぁっ‼︎エイ‼︎エイ‼︎」

 結局メイカは、僕の名前はちゃんと言えないようだ。複雑な音の名を授けたタカツキが悪い。

 叫ぶメイカは、僕のたった一人の友人は、連れて行かれ、部屋には僕だけが残される。

 青服達が出入りをし、荒らす様な調査が終わり、時間が経ち、シチューがすっかり冷製になった頃。暗い部屋の中、つけっぱなしだったテレビから音が聞こえる。

「速報です。先月から埼玉県で行方不明となっていた5歳の女児、李 明花ちゃんが本日昼ごろ、市内の児童相談所職員の男性宅で発見されました。」

「明花ちゃんは、先月、自宅前でお母さんが2時間ほど目を離した際に、行方不明となり、捜索願が出されていました。発見された明花ちゃんは保護され、病院に搬送されましたが、外傷はなく、元気な様子でした。なぜ、児童相談所職員の自宅にいたのかなど、詳しい事情は現在調査中の様です。」


 テレビがつけっぱなしのまま、父と、友人の去った空虚な部屋で、数日経つ。

「容疑者である男性職員は、『明花ちゃんが虐待されているのを早くから知っており、職員として動いていたが、なかなか明花ちゃんを助ける事が出来ず、もどかしかった。自分のした事を正当化するつもりはない。』と、述べている様です。」

 もう、きっと。この部屋には誰も帰ってこない。あの、短くて長い、僕らにとって暖かな日は、帰ってこない。タカツキは、最初からこうなる事はわかっていたのだろう。それでも、罪を負ってでも、彼はメイカを救う事を選んだ。

 なんだ、アイツだって、アイツを大事に出来ていないじゃないか。その結果が、コレなのだろう。自分に出来ないことを、メイカにさせようとするなんて、タカツキも無茶苦茶だ。

 ニュースの最後に言っていた。虐待をしていた事が世にさらされ、メイカは施設に引き取られる事になったそうだ。どうやら虐待をしていた母と離れる事が出来るらしい。

 コレが、タカツキが狙った着地点。自身の未来を対価に、彼女に遺した道標。

 一週間後には、新しいニュースに流され、忘却される話。けれど、当事者の僕らには永遠の話。

 メイカだって、覚えてないけど、憶えているだろう。この、数週間の、多分、生涯で、最も暖かな日々を。

 彼女には、始まりを。

 彼には、終わりを。

 僕には、始まりと終わりを。

 あぁ、どうか、彼女が自分を大切にできます様に。

 

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