非日常と精霊王との邂逅 その5
マーカスは月明かりに照らされながら、グレイスと名付けた大猪に引かれた荷車の上でゆられている。
第三野営地と呼ばれる魔術学院所有の山小屋の近くを通り過ごそうとしたときのことだ。
草むらが動いた。文字通り草むらが、それ自体が動いていた。
マーカスが妙な気配を感じ身を起こす。
ここは第三野営地の近くで獣除けの呪いもされている。
獣ではないはずだ、とマーカスはあたりを見回す。
そして、殺気にも似たただならぬ気配を感じ取り、大猪のグレイスに命令を飛ばし荷車を止めさせる。
マーカスは周りを警戒する。
そうすると、草むらが動いているのにマーカスは気づけた。
しかも、ゆっくりとその草むらがマーカスの乗る荷車へと近づいてくる。
ついにはその草むらはマーカスに向かい問いかけてきた。
「何者? 狙いはなに?」
若い女の声だった。
マーカスは驚きつつも、少し悩んだ後、
「そちらこそ何者なんです? 人間、でいいんですよね?」
と聞いた。
マーカスは強気でそう聞いたものの、内心では戦々恐々としていた。
当たり前だ、真夜中の山中で、しかも精霊の領域でだ、いきなり動く草むらに話しかけられたのだ。誰だって怖がって当然だ。
草むらの化け物の正体を必死で考える。ここは精霊の領域なので外道は精霊達に排除されるので、外道種はあり得ない。
また草の古老樹など聞いたこともない。
そうやって一つ一つ可能性を潰していき、最終的に一番可能性がありそうなのは未確認種の一つと言われる幽霊という存在だ。が、その存在にマーカスは否定的だ。
霊魂の存在は知っているが、死んだら冥界の神の導きにより冥界に行く。なので地上に死んだ人間の霊魂が存在するわけもなく、幽霊という存在がいることなどあり得ないとマーカスは考えている。
人の情念がどれほどのものか、マーカスには図り切れないが、それでも神の力を超えることがないことだけは理解できている。
そうやって再度、色々と可能性を潰していった結果、実はただの人間なのでは? という結論に至った。
「聞いているのは私。あなたはただ答えればいい」
鋭い返事が返ってくる。それには有無を言わさない迫力がある。
マーカスはその言葉の鋭さに一瞬悩んだ後、その鋭さだけに、目の前の動く草むらが人間で、恐らくは師匠が言っていた件の巫女の付き添い連中の一人だと確信することができた。
だとすると、師匠が言うには黒次郎の死が決定づけられた原因となった奴か、とも一瞬思ったが声の主は若い女性だ。
騎士隊は基本、男ばかりの組織だし、自分が住んでいたのは男子寮ともいえる場所だ。少なくとも目の前の草むらもどきではない。そもそも当人だったとして、なにか変わるわけでもない。
ただ人と確信できれば、多少マーカスも落ち着くものだ。
草むらからは殺気にも似た物を向けられてはいるが、真夜中に猪に荷車を引かせる怪しい男相手では多少は仕方がないというものだ。
それでも、動いて喋る草むらよりは、怪しくはないとマーカスは思いたい。
「うーん、何者、という問いには今は答えを持ち合わせてないかな。しいて言えば無職。もしくは、元騎士隊の訓練生、ってところかな? それに、目的かぁ、目的はなぁ、まあ、言ってしまっても別にいいか。第四野営地にある食料の備蓄と葡萄酒だよ。それを持ち帰ることが目的だな」
と、素直に答える。
こんな辺鄙な場所を夜に荷車で通りかかっているだけで十分に怪しい。これ以上怪しまれないためにと思いそう隠し立てしないで言った言葉だが、それは野営地から備蓄を持ち出した泥棒だということを自白したことでもある。
もしくは、こんな草むらもどきの人間になら言っても構わない、とそう思ったのかもしれない。
「やっぱり…… あなたが備蓄を持ち去った犯人なのね?」
マーカスはやっぱりそうなりますよね、と内心思いつつ正直困っていた。
だが後先考えないこの場当たり的な自分の性格をめんどくさい、と考えつつもそれを治そうとも思っていないのだが、困るものは困る。
ただ、ここで捕まったら捕まったで、一度は魔術学院に連れてかれるので、それはそれでマーカス的には問題はない。
師匠はマーカスも魔術学院に戻れないようなことを言っていたが、そんなこともない。
師匠とは別れたくないことは事実だが、師匠というろくでもない人間の傍にいたら命がいくつあっても足りないこともまた事実だ。
魔術学院に連れていかれれば、最低限、命の保証だけはされる。こってりと怒られるだろうが。
自分が使っていた部屋の地下で外道が湧いたことも故意的にしたわけでもない。弁明の余地くらいはあるだろう。
知識欲と自分の命、マーカスは天秤にかけるまでもなく自分の命が大事だ。ただ師匠には人を惹きつける不思議な魅力があり逆らい難いのも事実だ。それにやはり師匠の持つ怪しげな知識は非常に甘美で魅力的だ。
なので、自分では選ばず成り行きに身を任せる。
「ええ、そうですよ。うーん、捕まえたりします?」
マーカスは少し困り顔で聞き返してみる。
相手の発する気配から相手がただものじゃないことはマーカスにもわかる。
おそらくは戦うのはもちろんの事、逃げることも不可能だと悟れるほどには、目の前の草むらもどきとは実力差があることが理解できている。
話しかけられた時点で、いや、相手に捕捉された時点で、マーカスには手の打ちようがないほどだ。
それを本能で悟ったからこそ、マーカスは素直に目的を話したのかもしれない。
「それが目的であるのならば別に構わない」
草むらもどきから殺気が消える。言葉にはしてないが、もうどことへでも好きに行け、と言っているかのようだ。
まさか素直に言ってそれを信じてもらえるとは、しかも、草むらもどきに、思っていなかったマーカスは少し拍子抜けする。
草むらもどきがその言葉を簡単に信じたのは、ミアの使い魔の荷物持ち君がマーカスに反応してなかったからだとは流石にわかりはしない。
ただマーカスは、そうやって油断を誘っておいて楽に倒そうとする腹なのでは? と考えて、草むらもどきをもう一度よく観察する。
「って、よくよく見ればあなたの装備している、その黒く塗られた全身装備の革鎧は、デミアス教のものですね?」
身につけられていた草にばかり目がいっていたが、その草の奥には何度か目にしたことのある装備が月明かりに見え隠れしている。
暗く見難いが間違いはない。師匠に会いに来ていた連中と同じ装備だ。
たしか、「耳」という名の連中で、デミアス教の連絡役達の名称なのをマーカスは知っている。
「だったら何?」
草むらもどきが少し苛立った声を放つ。
その声に微量だが本気の殺気にマーカスは背筋を冷やす。
耳の連中よりなどよりも、目の前の草むらもどきは随分と腕が立つようにも感じる。
何より発せられる殺気の質がまるで違う。だが、相手がデミアス教徒であるならば、対抗手段をマーカスは持っている。
「なら、これ、効きます?」
そう言ってマーカスは荷物袋から一枚の木札を取り出した。
そこには北方のとある地域の、今は失われたとても古い文字で「五」という数字が掘り込まれていた。
草むらもどきこと、スティフィがその木札を見て絶句する。
実はスティフィも同じような木札を二枚持っている。それには「四」の数字と、「六」の数字が同じく古い文字で彫り込まれている。
六の木札は、デミアス教の大神官、その第六位の位を持つダーウィックから使命と共に与えられたものだ。
今では読むことができる人間のほうが珍しいほどの古く失われた文字が刻まれているこの木札は、デミアス教の大神官たちがその位を刻み使命と共に授けるものだ。
この野営地荒しの犯人は第五位の大神官から、何かしらの使命を与えられてここにいるという事になる。
デミアス教では少ない数の位を持つほど高位の者としている。
マーカスに与えられた木札は、ダーウィック大神官よりも一つ高位の大神官から与えられたものということだ。
となると、スティフィのやることは一つに絞られる。
ダーウィックから与えられた木札はその位と同じ六だ。だがスティフィには隠し持つ四の木札がある。
ただその四の木札の存在はダーウィックにすら明かしてない。この場で見せていいものではない。
逆に六の木札なら見せることは可能だが、相手の木札が五であるならば見せる意味がそもそもない。
なので、結果的にはスティフィはその場に跪いた。
「申し訳ありません」
と頭を下げ、非礼を詫びる。
その様子を見てマーカスは息を吐き安堵する。
「おっ、ほんとに効いた。いやいや、そんな畏まらなくていいよ。俺、デミアス教徒でもないしね。ただ邪魔しないでね?」
なにか要求されるかとも思っていたスティフィが今度は拍子抜けする。
それ故に、疑わしくも思う。だが、目の前の怪しい男が持っている木札は本物だ。木札に塗られている希少な薬品の製法を知る者はデミアス教徒でもごく一部で外部に漏れることはない。
その薬品で透かしのようなものが実は木札に描かれている。一見して気づけるものでもないが、スティフィにはそれを判別できる。
「狩り手」という組織に所属していたスティフィの目には、五の数字の下に淡くきらめく透かしを見ることができる特別な眼を持たされている。
それ故にあの木札が本物だと判別できてしまう。
だが、四の木札と共に与えられた使命、そして、スティフィ自身の欲望のためにもダーウィック大神官に与えられた使命は完遂しなければならない、ともスティフィは考える。
「わ、私もダーウィック大神官様より使命を与えられています。場合によっては……」
本来なら言うべき言葉ではない。
が、スティフィが隠し持つ四の木札が、そう言えることを後押ししてくれる。
その言葉を聞いたマーカスは少し不審そうな表情を見せる。
「あれ? ダーウィック教授は確か第六位でしょう? 師匠は俺の方が偉いって言ってたけど?」
デミアス教の大神官。その第五位の位を持つ大神官の名を知る者は少ない。
それどころか、実際に見たことのあるデミアス教徒自体が少ない。狩り手に所属していたスティフィですら実際に会ったことすらない。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。いつどこにいるのかしらも不明だ。度々デミアス教徒の中でも語り継がれる、半ば伝説のような人物。
放浪の大神官と呼ばれる男で、その名の通りあちらこちらを放浪している。どんな風貌をしているかもまちまちで、噂の中には男ではなく絶世の美女だという噂すら立つほどだ。
ただその生存を示すかのように各地で、様々な問題を起こしてはその悪名ばかりを轟かせている。そんな人物である。
「それは…… そうですが……」
スティフィは言葉に詰まる。この場で四の木札を出せないのに言い返してしまったことは悪手だった。
相手の、自分はデミアス教徒ではない、という言葉で少し安心して気を抜いてしまっていたのかもしれない。
「んま、俺の目的というか、師匠、ああ、キミらの大神官ね。の、目的は、さっきも言った通り、食料と葡萄酒だから。できれば…… 邪魔しないでくれると助かるんだけど?」
それを聞いたスティフィは、本当に? と、疑問しか浮かべられない。
伝説のような大神官が備蓄用の食料と美味くもない葡萄酒を求めるものなのかと。
学院の購買部でそう高くない値段で買える物でしかない。そんな物のために木札をわざわざ渡すものなのか、とスティフィは疑問に思うが、目の前の怪しい男が手にしている木札はどう見ても本物だ。
ただ色々と変わった逸話を伝え聞く人物でもある大神官だ。そう言うこともあるかもしれない、とスティフィは自分を納得させた。
相手が五の木札を持っているし、スティフィも「四」の木札をこんなところで明らかにしたくない以上、スティフィには手出しができない。
「それなら問題ないです。私の使命ともかち合いません。今、あなたに会ったことも黙っておきます」
そう伝えつつも、このことはすべてダーウィック大神官様には秘密裏に伝えておかねばならない、とスティフィは心の中はそう判断する。
「そう? 助かるなぁ。帰りはこの道は使わないからさ。もう出会うこともないと思うから、よろしくね」
マーカスはそう言って大猪に前進再開の命令を飛ばす。
ゆっくりと、大猪のグレイスも草むらもどきのスティフィを警戒しつつ歩き出した。
不審すぎる荷車を見送った後、安堵からかスティフィは独り言を漏らしてしまう。
「第五位…… 放浪の大神官…… またの名を、歩く厄災…… はやくダーウィック大神官様に報告をしないと……」
スティフィは真夜中に外に出ていた本来の目的、ダーウィック大神官への定期連絡のための書状を開き、そこに第五位の木札を持った男のことを早急に書き加える。
書き終えたら小さな筒にそれを丸めて入れて、隠し持っている笛を吹き鳴らす。人間には聞こえない音が鳴り響く。
しばらくすると一匹の黒い大きな鳥が音もなく飛んできて、スティフィの左肩に止まる。
スティフィは右手だけで器用にその鳥の足に書状が入った小さな筒を括りつける。
この鳥には種としての名称がない。
しいて言えば、この鳥の先祖は夜鷹の一種だったので夜鷹なのかもしれない。ただ通常の夜鷹とは既にかけ離れた生態をしている。
デミアス教徒達が秘密裏に連絡を取るために、飼いならし長い年月をかけ改良して来た、言うならば人の手によって新しく人工的に進化した品種だ。
羽は鴉のように黒一色であり、その翼は夜空を素早く駆け、長距離も難なく飛び、夜目も利く。
何より鳥なのに主人に対して忠実である。
スティフィはその鳥に専用の餌を与えた後、
「ちゃんと耳達に届けるんだぞ」
と、小声で言い聞かせて暗い夜空へと鳥を羽ばたかせる。
真っ黒なその鳥はすぐに夜空へと溶け込んでいき見えなくなる。これでデミアス教の連絡役の耳達に情報が伝わることだろう。
その後、スティフィがひっそりと小屋へ戻って行くのを、サリー教授が困った表情を浮かべて物陰から隠れ見ていた。
そのことにマーカスはもちろん、スティフィすらも気が付いていない。
翌日、ミア達一行は何事もなく第四野営地につく。精霊たちが用意した道は本来は安全なはずなのだ。
第四野営地、ここは他の野営地と少し違い、山小屋ではなくかなり大きめの社のような建物が建てられている。
その敷地面積も他の野営地よりも大分広い。どこかの神殿といっても過言ではないようなほどだ。
それもそのはず、ここは第四野営地であると共に、精霊王である朽木の王と古老樹の朽木様を祭るための社なのだから。
ただ人が寝泊まりできるような作りになっていて地下には倉庫まであり、形だけの社ではある。
また数カ月に一度手入れに人が来ているため、それなりに綺麗だし地下の倉庫には備蓄や精霊王に捧げるための葡萄酒などが保管されているはずだった。
「インラム助教授! やっぱりここもやられてるよ! 目録にあった葡萄酒の樽なんて一個もないよー」
と、エリックから大きな声で報告が上がってくる。
それを聞きつつもスティフィは素知らぬ顔でいつも通りミアに付き添いつつ、ミアの仕事の手伝いをそつなくこなしている。
「なんでこんな場所に葡萄酒があるんですか?」
倉庫で作業をしていたミアがそんな事をスティフィに向かい聞いてくる。
「精霊王にはぐれ精霊を剥がしてもらうときの対価として捧げるのよ」
スティフィがぶっきらぼうに答える。
ぶっきらぼうに答えたのはめんどくさいからではなく、そういう雰囲気を出したかったからだ。
その理由はスティフィもそれ以上のことをあまりよく知らないからだ。これ以上何か聞かれてもスティフィには答えることができない。
ここ最近何かと忙しかったため、スティフィもミアに聞かれそうな知識を詰め込めずになってきている。
「へー、そうなんですね。精霊王って銀貨を欲しがったり葡萄酒を欲しがったりするものなんですね」
と、ミアが不思議そうな顔をしている。
そのミアの間抜けそうな顔を見て、スティフィは自分だけ物知り顔なのももう疲れた、とばかりにため息を漏らす。
「えっと、なんだっけかな。あー、思い出せない。理由があった気がするけど……」
しばし悩んだ後、スティフィも知らないことを隠しても仕方がないか、と割り切り何とか思い出そうとするが思い出せない。
ここ数日、本物の優等生であるジュリーと共に行動したせいで、スティフィの優等生としての仮面は完全にはがされてしまった。
それでもミアはスティフィに対して特に態度を変えていないので、スティフィも無理に何でも知っている優等生を演じるのをやめようかと検討しているところだ。
それにこれ以上講義を増やされては、それらを学ぶ時間も取れなくなってくるに違いない。
物知りな友人を演じることより、試験を落とさないほうが重要となってくる。
そもそもスティフィは一夜漬けでなにかを記憶することは得意だが、その記憶を保持することにはあまり長けてはいない。
いつ聞かれるかもわからない知識を詰め込み続けることは向いていない。
「銀貨のほうは、精霊が銀という鉱石が好きで、人間が大事にしているもので、王様の顔の刻印があるので信用になるから、でしたよね?」
「そうね、葡萄酒の方も同じような感じで理由があったはずよ。精霊王が葡萄酒を飲むわけじゃないと思うけど」
と、スティフィが適当にそう言うが、ちょうどそこのに新しい目録を持って地下の倉庫に降りて来たジュリーにその言葉を否定される。
「いいえ、精霊王は葡萄酒をお飲みになるわよ」
「あっ、ジュリー先輩」
ミアが尊敬の眼差しを向ける。
スティフィと違い付け焼刃ではない本物の知識を持っているジュリーに、ミアがここ数日でなついていくのをスティフィには止められなかった。
本物の優等生と優等生のフリを必死にしているだけの差が出てしまっている。
スティフィは面白くない表情を浮かべつつも、引くわけにも行かない。
「飲むの? あの葡萄酒、不味いって聞くけど?」
スティフィはそうは言ってみるものの、葡萄酒が不味い事だけは知っているスティフィと、その理由まで知っているジュリーである、勝負になるわけもない。
が、ジュリーとしても別にスティフィと今は敵対したいわけではないし、いがみ合いたいわけでもない。それにジュリーはスティフィの境遇を聞いて少なからず同情してしまっている。
それに加えスティフィにとって幸運なことは、ジュリーは必要以上にミアと仲良くしようとは考えていないことだ。
ただの知り合い、ただの友人にはなりえるが、親友というような関係にまでは踏み込んで来るようなことはない。
ジュリーはミアのことを嫌ってはいないが、やはり祟り神の巫女ということで一線を引いているのかもしれない。
そう言うことで言うならば、エリックの方がスティフィにとって真の強敵になりえる。
なにせエリックは祟り神を恐れていない。というか、珍しくどの神に対しても信仰心が低い人間だからだ。それ故に祟り神すら恐れもしないので、ミアに普通に接してくる。
まあ、エリックはミアにも呆れられているようなので当面は問題なさそうだが、何かきっかけがあれば、その評価が覆ることも十分にあり得る。
「味は、まあ、多分、どうでもいいのよ。精霊王に味覚があるのかもわからないし。それより、その葡萄酒を作るために、葡萄の収穫後、秋口くらいかな? 葡萄を踏みつぶす仕事が掲示板に張り出されるのよ。女子限定だけどね」
「え? なんですか、それやってみたいです!! 食べ物を踏むだなんて、すごく背徳的です……」
ミアが恍惚とした表情を浮かべている。貧しい村で育ってきたミアにとって食べ物はかなり貴重な物だ。
それを踏みつぶす、という行為に背徳的ななにかを感じているのだろうが、それを見たスティフィはやっぱりミアにはデミアス教が似合うと再認識しただけだ。
ジュリーの方は若干ミアの表情に引いている。
「やってみると良いわよ。ミアさんならかなり報酬がいいんじゃないかしらね」
「え? 私なら? 人によって違うですか? なら、スティフィとかジェリー先輩はいっぱい貰えるんです?」
ミアがなんの基準でそう答えたのか、ジュリーにはなんとなく理解できるが、そう言ったことではない。
「器量の良し悪しじゃなくて、神に好かれている巫女などは、報酬が良くなるんじゃなかったかしらね? この学院のはよく知らないけど、そんな話だったような?」
スティフィがおぼろげな知識を披露する。
ジュリーは若干苦笑いを見せつつもその言葉に同意する。
「ええ、そんな感じです。どれだけ神に愛されているか。それで報酬がかわるそうですよ、ただそれを判断するのは神ではなく、サリー教授とカール教授ですけどね」
ジュリーは目の前のミアという未知の神の巫女が、教授二人からどのくらいの評価を下されるのか気になる。
とはいえ、ミアは間違いなく優秀な生徒で、そして神に愛されている巫女である。話に聞く限りではその神もかなり神性が高いとのことだ。
かなりいい報酬が支払われるのでは、と考えてしまう。
ついでにその行事にはジュリーも参加予定だ。ただ優等生で真面目ではあるが、信仰心がそれほど高くないことが見抜かれているのか報酬は平均程度だ。
それでもジュリーにとっても割のいい稼ぎではある。
「葡萄を踏むだけでお給金が!」
と、ミアが目を輝かせている。
自分も同じ心境なのでジュリーはあまりミアのことを笑えはしない。
「その時にも精霊王に葡萄酒を捧げる意味をおしえてくれるでしょうから、それまで楽しみにしていたら?」
スティフィと独自に休戦協定を結んでいるからだろうか、ジュリーは精霊王に葡萄酒を捧げる意味までは説明しなかった。
今の話をした後、今回納品する目録をインラムに渡してジュリーは倉庫を後にした。
「実際、その葡萄酒を作るときに知る、それもいいですね!」
と、ミアはスティフィに笑顔を向けてくる。
スティフィも秋口に葡萄を踏む行事への参加が決まった瞬間でもある。
事前にある程度調べておかなければならないが、その時ミアと一緒に今思い出せなかった事を改めて聞くのもいいかもしれない、とスティフィも思った。
「あっ、そうそう忘れてた。ミアさん、サリー教授が明日の件で打ち合わせしたいそうです。上がって来てください」
ジュリーが地下倉庫の入口にある階段の上から、顔だけを覗かせ言い忘れていた事を告げて来た。
「はい、わかりました。今行きます!」
ミアがそう返事をしてすぐに地下室の倉庫から上がっていくのをスティフィは見送った。
スティフィがミアについて行かなかったのは、少し考える時間が欲しかったからだ。
ダーウィック大神官と名も知らぬ第五位の大神官、もし対立するようなこととなればどうすべきか、昨晩から考えていることだ。
スティフィ本人の意志はもちろんダーウィック大神官についていきたい、がデミアス教徒としては第五位の大神官の大神官につかなければならない。
ただスティフィは第四位の大神官クラウディオからも木札を受け取っている。これはクラウディオ大神官の命の元に動いているという証拠であり、この木札がありクラウディオ大神官の命に背かないのであれば、スティフィは自由に動くことができる。
そして、スティフィは物心つく前よりデミアス教にて育てられた信徒だ。
デミアス教の掟には本能的に逆らえない。本人がどうしたいか、どう思っているか、など些細なことで、より力を持つ者、より高位の者の命に背くことはできない、そういう風に育てられたのだ。
ただ、クラウディオ大神官からの命は、ダーウィック大神官の動向を定期的に知らせるだけと言うだけのものだ。
それ以外の命は一切ない。期限すらない。言い換えれば、ダーウィック大神官の動向さえ伝えていれば自由の身であり続けることができる。
それを考えると、スティフィはもし仮に、ダーウィック大神官と名も知らぬ第五位の大神官が争うことになってもダーウィック大神官につくべきだと、デミアス教徒の自分もそう判断できる。
そう判断できたことにスティフィ自身、安心を覚える。
同じ宗教内で揉めるのか、と思うかもしれないが、デミアス教はそもそも欲望に忠実であることを教義としている。
休戦中で外に大敵がいないのであれば、内輪もめしだすのがデミアス教でもある。ただそれでも第六位までの大神官が入れ替わるようなことは稀だ。
その代わりに第七位から末席の第十三位までの大神官は短い期間でよくかわる。
その着任期間は一分にも満たない記録が残っているほどだ。
そもそも第四位のクラウディオ大神官が、一線で使えなくなった「狩り手」に、他の大神官の動向を探らせるようなことをさせている。
スティフィも知らないところで、物事はなにか動いているのかもしれない。
結局、スティフィにできることは命に反さない範囲で己の欲望通りに動くことだけだ。
「明日は…… 早朝から、私と…… ミアさんと荷物持ち君で…… 精霊の御所へと…… 向かいます。特に…… 揉めなければ…… ですが、日暮れ前には…… ここに戻って…… 来れています。もし、揉めたら…… そもそも…… 戻ってはこれません…… ね」
そう言ってサリー教授は苦笑いをするが、戻ってこれないとは思っていないようだ。
「は、はい! でも大丈夫です! ロロカカ様のご友人であるジュダ神から頂いたのですから」
ミアもそう答える。
そもそも、古老樹の苗木、荷物持ち君一号の核は破壊神ジュダから薦められて授けられたものだ。
どういう経緯で、ジュダ神が朽木様の苗木を持っていたかまではわからないが、ミア達はそのジュダ神によって言われたことをしただけに過ぎない。
それに対して古老樹の朽木様がその子だからといって、なにか手出しできることはない。
「ええ、恐らく、ですが…… 朽木様も…… 把握なされていると思う、ので…… 大事にはならないかと…… 思います。無礼だけには気を付けて…… ください」
「どんなことが無礼にあたるんですか?」
相手は上位種で古老樹だ。そもそもの価値観が人とは違う。
何が無礼に当たるかなど、ミアには判断できるものではない。特に古老樹や精霊王などミアにとっては魔術学院で学ぶまでは想像上の存在でしかなかった。
「活力を取り戻した朽木様は…… 概、人に友好的…… です。暴れていた…… 時のことを悔いても…… おられます。また、精霊王の朽木の王も、非常に…… 友好的です…… ただ朽木様は、ご自身を助けた…… 朽木の王のことと、朽木様の子孫…… の事だけは…… 感情的になられるので……」
それが心配の種といえば、そうなのだ。
今の朽木様が怒りだすようなことは、自身を助けた精霊王である朽木の王の事、そして自身の子孫の事、その二点だけである。
言い換えれば、無礼などほぼないと言っていいほど、人間に対して友好的な上位種の二人でもある。
ただし、今回の件は朽木様の子という事になる苗木が焦点なのだ。
それでも朽木様がミア達に何かしてくるとは考えにくくはあるのだが、相手が上位種である以上、人間の考えなどそもそも及ばない相手なのだ。
サリー教授でもその不安を完全に拭い切れるものではない。
「大丈夫ですよ! 荷物持ち君は非常に優秀で協力的ですよ!!」
「あは…… はぁ……」
その名前が既に心配事の一つなのだが、ミアにはどうも伝わらない。
ただその名は既に荷物持ち君に刻み込まれているので今更変えることもできない。
「それは…… そうと、ミアさん…… は、この道中どう…… でした? 疲れました…… か?」
もしミアが疲労しているのであれば、ここで数日休養してから会いに行こうかとも考えていたが、聞くまでもなくミアは疲れている様子はない。
「いえ、特には。頂上を目指した登山というわけでもなかったので」
ミアは平然とそう言っているが、実際は道中それなりに険しい道のりではあったはずだ。
後半、精霊が作った道を行くため安全ではあったが、所詮は獣道とそう変わらない道でしかない。
そこを一日中歩き詰めるのだ。慣れない者からすれば、大変な道のりのはずだ。
「故郷…… でも、こういった…… 感じの山を?」
「もっと険しい感じの山でした。そもそも人を拒絶するような感じの山が多いですね、今思うと」
と、ミアは答えた。
ミアは故郷の村の環境が普通であったと思っていたがそうではなかった。
あの村は本当に過酷な環境にあり、外の世界の山はそこまで険しくはない、という事を今は思い知っている。
特にこの辺りの山中など、ミアにとってはとてもなだらかで歩きやすい。
「リッケルト村…… でしたっけ…… バルティノアス山脈がある…… ところ、よね?」
「はい!」
この世界の外周部、ほぼ極東に位置する場所で治めている領主すらいない辺境の地だ。
フーベルトが必死に調べたおかげで、リッケルト村の所在もその成り立ちも今ではそれなりにわかっている。
流浪の民が最後に行きついた場所。その流浪の民達は、恐らくは神代戦争の時代の罪人、孤児の集まりで、その村の名の人物、リッケルトという青年が率いて作った村であることが分かっている。
その一団が長い放浪の末にたどり着いた地に村を作ったとのことだ。
村自体は古来より存在しているが、非常に貧相な村で特産もなく月に一回行商が来れば幸運とされるような所だ。
中央の人間からすると、何もわからない暗黒大陸とさほど変わりない情報しかないような場所ですらある。
それにも一応地理的理由がある。
第一の理由がバルティノアス山脈だ。バルティノアス山脈は中央部と東外周部を分ける様に、中央の東側を取り囲んでいる。
なので、王都のある中央からリッケルト村まで行くとなると、まず一度西に出て、それから南下し外周部にでて、そこから東を目指さなくてはならない。
非常に辺鄙な場所である。
ついでに中央の人間からすると、このシュトゥルムルン魔術学院が外周部の東端だと思われているくらいだ。
実際にはシュトゥルムルン魔術学院の先にもいくつか別の魔術学院はあるのだが、あまり周知されていない。その程度の認識なのだ。
要するに辺境中の辺境にあるような村という事だ。
ただ自然魔術の教授であるサリーにとっては、興味深い場所でもある。
数々の険しい山脈により完全に中央部とは分断され、独自の生態系と環境を築き上げているような地域であもある。サリー教授からすると非常に興味深い。
「一度…… 私も行ってみたい…… ですね」
確かに中央にある王都からであれば、世界半周以上ほどの道のりを行かねばならない距離にあるような場所だ。
だが、シュトゥルムルン魔術学院があるこの地域からすれば、遠いには遠いがそこまでは遠くはない。
「私はこの学院に来るまで半年ほどかかりましたが…… それでもよければ機会があれば?」
「半年……? さすがにかかりすぎ…… では?」
旅に慣れていないミアだからかもしれないが、さすがに半年はかかりすぎだ。
旅に慣れていない者でも道さえ間違わなければ馬車で三ヶ月と言ったところのはずだ。
「収穫祭の後に託宣を得ましたので。そこから大急ぎで準備をして旅立ちました、それで四月の上旬になんとかたどり着けたので、やっぱり半年くらいですね。まあ、乗合馬車などなかったり、そもそも路銀がなくて山中を歩いてきたせいなのもあるとおもいますが」
そう言ってミアは照れ臭そうにはにかんでいる。
よく無事に辿り着けたものだとサリー教授も感心する。
「あー…… たしか、途中で…… 置き引きにあったって…… 話でした…… か」
フーベルトから聞いていた情報だ。
本当によく無事でたどり着けたものだ。
「はい、海というものが見え始めたころの街でした。でも、まあ、そもそも路銀がつきかけていたのと、着替えなどしか被害がなかったので…… そこからは街道には盗賊もでるという話だったので、人に会わなそうな山中を突っ切ってどうにか辿り着きました」
「海の近く…… ですか? それも見え始めとなると…… 結構な…… 距離があるかと…… 思うのですが、よく…… 無事にたどり着け…… ましたね?」
ミアは平然と言っているが、リッケルト村の方面から海が見え始める街にサリー教授は心当たりはないが、地理的にはかなりの距離があるはずだ。
しかも山中を突っ切って来たとなると、それこそ神の加護でもない限り無事では済まされない話だろうと思う。
そのことからも、ミアには間違いなく神の加護がある、サリー教授は確信できる。
そして、それはもう、いや、初めから自分にはなかったものだ。サリー教授はそのことを思い出す。
「そのそも私が辿りついたのは裏山の裏門でした」
ミアがどういう経路で裏門までたどり着けたか流石にサリー教授にもわからないが、そんな人間にとってならこの四日間の道のりなど楽な道でしかなかっただろう。
神の命、しかも破壊神の命なので、朽木様でも大きく出れるはずもない。
仮に朽木様が激怒していても、それを押し殺してでも認めるしかないような事だ。
わざわざミアの使い魔を見せに行き、認めてもらう事も後々朽木様との間に、遺恨を残さないための礼儀のようなものだ。
それほどこの世界では神は絶対的なのだ。
なので、心配はない。が、今は理性的で人に友好的な古老樹になっているとはいえ、過去に色々悲惨な伝承を数多く残している朽木様という古老樹相手に気が休まるわけはない。
サリー教授はカール教授と共に、朽木様に顔を覚えられている数少ない人間でもあるが、古老樹からすれば人間など取るに足らない存在であることも事実だ。
心配性なサリー教授だからということもある。その心労は絶えない。
問題はそれだけではない。
この辺りにはいないはずの大型の寄生虫の事やミアの使った使徒魔術、さらに野営地荒しのことを含めて昨晩の事もある。
たった四日、しかも人里離れた山中でこれだけの問題が既に発生してるのだ。
そして、その大半はミアと関わり合いがある事なのだ。
神を嫌うサリー教授でもミアには神々がかした何らかの因果があるように思えてしまう。
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