第3話  FIRST ATTACK


 あれこれ考えを巡らせながら、私は試験の疲れを癒すため、そして空腹を満たすために一階の広い学食へ向かった。券売所でチケットを購入し、ボリューム感のあるハンバーグ定食をトレーに載せて窓際に近い座席に座った。まだ正午まで半時間ほどあり、座席はまばらだった。初夏の木漏れ日が全身にシャワーのように降り注ぎ、眩しさが心地よい。カラ梅雨の7月はまるで南欧の真夏を思わせた。

 

 私は心地よい疲労感に満たされながら下を向き、ジューシーなハンバーグに齧りついた。その瞬間である。私の前に誰かがトレーを置いて座ろうとしているのに気づいた。私は思わず顔を上げた。そこには信じられない光景が広がっていた。トレーの上にナポリタンを載せて私に微笑んでいるのは他ならぬヒキマユだった。


「ご一緒させていただいていいですか、コウサカさん。」

彼女ははにかむように私を見つめた。


「あ、いいですよ。」

 

私は短く答えた。


「怒ってらっしゃいますか?」

「え? 別に怒ってませんよ。」


なるほど彼女の大きな瞳で見つめられると心拍数まで速くなる心地がした。


「よかった。」


 彼女は呼吸を整えるように言った。私は彼女を直視できずに下を向いてナイフでハンバーグを切ろうとしていた。


「それ、美味しそう。私もどっちにしようと迷ったんですよ。」

「あ、そう」


 私は関心がないことを示すかのように言った。ふと上を見ると彼女はナポリタンをフォークで綺麗に巻き付け上品に口へ運んでゆく。鮮やかでヌーディなキャンディピンクのリップがナポリタンの赤いケチャップで汚れてゆく。私は思わず我を忘れて凝視してしまった。次は一本だけ短いパスタをフォークに絡めて唇を窄め、吸うようにして食べる。彼女は二度、それを繰り返した。


「面白い食べ方するコだなあ。」


 私はハッと我に帰り、ヒキマユマジックに陥ちてゆく自分を嘲った。しかしそれに抗うことができなかった。二度目に一本だけパスタをちゅるちゅると吸い込み始めた時、ケチャップの微小な飛沫がひとつだけ彼女の頬に付いた。それは薄く塗られたピンクチークの曲面を汚すかのようだった。


「そこ、ケチャップつきましたよ。」


 私はテーブルの上に置いてあった紙ナプキンを数枚指で摘むと、それを手渡そうとした。するとヒキマユはあろうことか目を閉じて私の前に頬を突き出した。


「自分でやってくださいよ。」


 私は言いかけてやめた。こんなところで感情表現を表出するここそ、相手の術中に嵌まることだ。


孫子の兵法にもこうある。


 「彼を知り己れを知れば百戦危ふからず。

 彼を知らず己を知らざれば戦ふごとに必ず危ふし」と。


ここは逆に事務的な処理こそが防御としての最善策だ。


 こうもあるではないか。


「百戦百勝非善之善者也」ー 百戦百勝は善の善なるものにあらざる也、と。


 私は紙ナプキンを右手の親指と人差し指で摘み、彼女の頬上に載った小球体をゆっくり拭った。


「優しいんですね、コウサカさん。」


 ヒキマユの笑顔はまるで初夏の太陽のように輝いていた。これでオトコたちは悉く魔術に陥ちてゆくのだろう。私は出来るだけ事務的に済まそうとして出てくる言葉を探していた。


「いや、あなたがそう求めて来たから、事務的に処理しただけです。」

「うん、それは分かってるけど。事務的なこともやってくれない人も多いから。」


 自分の戦略を確認してるんだ、こいつは。私は湧き上がる熱い感情に背くように心の中で反芻していた。彼女はまた、同じ食べ方を始めた。それは見ている相手に問いを投げかけさせる姑息な戦法だ、私は考えた。この食事法を質問した瞬間から、ヒキマユの戦術に陥ち、彼女にとっての誘惑ゲームはネクストステージに展開する。決してそうはさせるものか、固く心に誓って私は再びハンバーグと格闘し始めた。


つづく




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