第19話 皇帝、驚き感激する

——皇帝グリーゼル・ジーサリス視点——


「今、スプラニールと言ったか!? あの幻想馬スプラニールの馬刺しと言ったか!?」


 俺はマルセルの言葉に思わず驚いてしまう。

 スプラニールの馬刺し。

 それは稀代の美食家ガイラムが一度だけ自伝で触れていた。


『大勇者アカネによると、スプラニールの馬刺しというものがあるらしい。あれはエンシェント・オークの肉よりも、よっぽど美味しいものだと彼女は言っていた。私は一生に一度でいい、それを食べてみたいと思っていた』


 しかし結局ガイラムはそのスプラニールの馬刺しを食べられなかったらしい。

 それ以降、一度もスプラニールについて触れることはなかった。


「ほ、本当に【幻想馬スプラニール】の馬刺しなのか……?」


 震える声で尋ねると、マルセルはなんてことないように言った。


「ええ、そうですよ。間違い無いです」

「そ、そうか……。よし、わかった。まずはそれを頂こう」


 必死に冷静を保ちながら俺は言った。

 するとマルセルは背中に背負っていた麻袋の中から肉塊を取り出した。


「あっ、獲ったばかりですし、ちゃんと冷やしてあるので鮮度は大丈夫ですよ」


 彼はそう言いながら、その肉塊を手際良く切り分けていく。


「ちなみに今回は持ちきれなくてトロの部分しかないですが、まあここが一番美味しいのでいいですよね?」

「トロ? トロとはなんだ?」


 初めて聞く単語に俺は首を傾げる。

 するとマルセルは丁寧に説明してくれた。


「トロとは腹部の脂身が多い部位ですね。ここはとろけるような食感で美味しいんですよ」

「普通は脂身のある部位は美味しくなくて捨てるもの、なのではないか……?」


 俺の問いに、マルセルは納得したように頷いて言った。


「ああ、普通ならそうですね。でも保存状態や調理法などでは一番輝く部位なんですよ」

「そ、そうなのか……。そんなこと、うちの料理長も知らないだろう」


 俺が言うと、マルセルは不思議そうに首を傾げた。

 どうやらこの村は常識がずれているというのは間違いではないようだ。


 しかし、問題は本当に美味しいのかどうか、と言うところである。

 結局美味しくなければ、その常識のズレもただの間抜けと変わらない。


 そして切り分けられた馬刺しというものが俺とユーフェリアの前に並べられる。


「……焼かなくていいのか?」

「ああ、焼く必要はないですね。このまま食べるのが美味しいのですよ」


 普通、肉とは焼くものではないのか?

 生で肉を食べるなんて、聞いたことがない。


 俺は恐る恐るフォークをその馬刺しとやらに突き刺す。

 どうやらこの醤油というものにつけて食べるらしい。

 醤油にたっぷりと漬けると、俺は口元まで運んで——。


「うっ、美味い!! なんだこれはッ! 美味すぎるぞ!!」


 思わず叫んでしまった。

 口の中でとろけていく感触。

 醤油のちょっぴり甘しょっぱい味付けが最高である。


 ああ……神よ……。

 本当に生きていてよかった。

 こんなに美味しい食べ物を食べられるなんて……!


 これが今まで皇帝として頑張ってきた俺に対するご褒美というわけですね……!


「父上、これ美味しいですね……って、泣いてます!?」


 ユーフェリアが嬉しそうにこちらを向いて、驚愕の表情を浮かべた。

 ああ……そうか、俺は泣いてしまっているのか……。


 美味しすぎて気がつかなかった。

 食べること、味わうことで必死で気がつかなかった。


「うう……っ、ありがとう、マルセル。今までの人生が全て報われた気分だ」


 俺が涙しながらそう感謝を伝えると、困ったようにマルセルは頬を掻いた。


「ええと……どうしたしまして?」


 もうドン引かれようが、構わない。

 俺はこの世の全てに感謝する。

 生きてきたこと、生まれてきたことに感謝する。


 人生が、世界が一瞬にして色付いたようだった。


「俺、もう死んでもいいかも……」

「ダメですよ、父上! 何を言っているんですか!」


 俺がぽつりとそう言うと、慌てたようにユーフェリアが言った。


「しかし、これがあのガイラムが探し求めた究極の食材か……。脱帽、以外の言葉が浮かばないな」


 心からの感謝を込めて。

 俺は深々とマルセルの方に頭を下げると、こう言うのだった。


「ありがとう、マルセル。俺は生きる意味を、目標を、そして希望を貰ったよ。本当に……感謝する」


 そんな俺の態度を見てマルセルはポツリと——。


「ええと……俺、そんなすごいことしましたかね?」

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