第25話 引きこもりでも兄を救いたい。 ①

「嘘だ……そんなはずっ」


 ついにコウは水蛇の地下水路へたどり着いたが、そこに達成感などなく、ただ漠然とした期待はずれの光景に、不安ばかりが押し寄せる。

 地下水路入り口に聳える水蛇のかしら蔵は観光用の仕切りで遮られており、いつもこの場所は有名なスポットとして、人混みができるほどだが、先ほどの騒ぎのせいか誰もいない。

 ………そう。誰もいないのだ。

 コウにとってそれは最悪の予想外。決して外してはいけない、運命の二択といっていい。

 積もり積もった不安を譫言にしなければ、頭がどうにかなりそうだった。


「何か。あるはずなんだ。きっと。」


 そう何度も頭に反芻させ、再度周囲を希望もなく探しだす。

 もうこうするのも、何度目なのかすら忘れた。そうしなければ、焦燥に駆られた心がどうにかなりそうだった。

 ミシェルはこの場所に来いと、コウに伝えんとした。その前提で動く以上、予想を外したではもう済まされない。


(リア……ミシェル姉様……誰でもいいから……頼む。)


 コウは折れそうな心に鞭を打ち、魔力をかき集め研魔領域を広域に展開したその時。


「えっ。……りあ?」


 いるはずのない可愛らしい妹が、正面でコウの鼻を突いた。


「こっちですよ。コウ兄。」


 その聞き慣れた妹の声に、反射レベルで涙がこぼれそうになったが……。

 そんな間もなく、手を引かれるがままに二人は水蛇の地下水路へと降ったのだった。



ーーーーーー


 

 二人の荒い吐息が薄暗い地下水道に反響している。流れる水音が耳に馴染み始めた頃、頭の整理がつかないままに、コウ兄様は私と目を合わせた。


「リア。どうしてここに…? それにさっきの魔術って。」

「ふふっ、なんですかその顔。まるでお化けでも見てるようですよ。」


 どうやらコウ兄様は再会の感動を置き去りにするほど、驚いていらっしゃるようだ。

 光の屈折率をいじった透明化の魔術のお披露目か。

 それとも引きこもりの私が一人で外にいることに言葉を詰まらせているのか。

 正直、どっちでも嬉しい自分がいる。

 こうしてコウ兄様に会って、力になれるのだから。

 でも、我儘を言っていいのなら……。この不安を少しだけ溶かす時間が欲しい。


「ほらほら折角の妹との再会なんですよ! もっと有意義な時間を過ごしましょう!!」


 時間がないことは分かっている。でも少しぐらいなら……甘えていいですよね?

 そうと決めたら行動は早い。私は勢いまかせにコウ兄様の胸に頭を擦り付けていた。

 兄様は少し後ろへたじろぐも抵抗はない。

 恐らく私は今、とても震えている。

 何年振りだろう。一人で外へ出たのは。

 やはり心の奥底では不安なのだろう。小時間の外出でも引きこもりには冒険に近い。

 でもそれ以上に……私は痛々しい兄様の姿を見ていられなかった。

 所々、肌が赤く流血している。きっとここに来るまで、多くの襲撃に見舞われたんですよね。

 当然、軽傷ではない部類ですが、その左腕と比較してしまえば見劣りしてしまう。

 怪我なんて生易しいものじゃない。褐色のない異様さから、それは明らかだ。

 昔、コウ兄様が大怪我をされた時はもっと悲惨でしたけど……。

 今度ばかりは、ここにいないミシェル姉様に代わって、私が説教をしなければいけない。いくらなんでも無茶がすぎる。

 でも今だけは。自分を優先させてほしい。

 私は兄の優しさに存分に甘えることにした。


「ほら。撫でてください。」

「あっうん。」

「もっとです。」

「分かったよ。」


 やはり落ち着く。こうしているだけで、身体は火照ってしまう。


「ごめんなさい、コウ兄様。時間がないことは分かってます。でもあと少しだけ。」

「お安い御用だよ。ありがとうねリア。ここまでさ、頑張ったんだよね。」

「ほんとですよ。……怖かったです。だからチャージさせてください。」

「チャージ?」

「兄様をです。」

「そっか。僕なんかでよければ好きなだけどうぞ。」


 そう言って、コウ兄様は私の頭を存分に撫でてくれた。

 …………はっ! 危うく優しさに溺れて、怒りを忘れてしまっていた。

 言わなければ。ちゃんと。 

 私はコウ兄様の微かに血の匂いに、緩んだ頬を引き締め直して、声を強くした。


「何ですかこの腕。また無茶ばかりして。」

「ごめん。なんか気持ち悪いよね。また無茶しちゃった。」


 心配させまいとしてか、コウ兄様は苦笑ながらも平然を装っていた。

 無理をしていることなど、小刻みに震えているその腕を見れば一目瞭然だというのに。

 この言葉をかけるのは、おそらく筋違いだろう。でも、言わなければ。

 胸がチクリと痛んだのを感じながら、先ほどのまでの威勢が消し飛んだ小さな小声で私は呟いた。


「わかってます。でももっと御自身を大事にしてください。コウ兄様が傷つく姿なんて見たくありません。」

「うん。リアは優しいね。」


 コウ兄様がくれた言葉に、私はただ歯を食いしばることしかできなかった。

 ……違いますよ、コウ兄様。私は優しくなんてない。

 ねぇコウ兄様。どうしてそんなに他者に優しくなれるんですか。

 よくもまあ私はそんな綺麗ごとをぬかせたものだ。今までコウ兄様を傷つけたてきたのは、紛れもない私だと言うのに。

 不安を消化できないまま胸から放れて、私は前を向いた。


「だからその。私もコウにいが傷つかなくていいように……力になっていいですか?」


 コウ兄様が言葉を詰まらせたことで、水路特有の静けさがやってきた。

 どうやら私がここに来た理由に気づかれたようだ。悟られたようなお顔のまま、コウ兄様は固まっていらっしゃる。

 浅ましいと思われてもいい。でも私はあなたの言葉が欲しいんです。足手まといになるかもしれない私でも、あなたの背中を支える一人であっていいと。


「正直不安なんです。私如きが兄様の力になれるでしょうか。」

「……。」

「引きこもりの私に、コウ兄様の背中を押す権利があるのでしょうか。根暗でこれっぽっちも才能がない私でも……兄様の……力になっていいのかって……。」


 不安を地面に吐き出した私の眼は、いつしかコウ兄様から離れていた。


「コウ兄様はどうしてそんなに優しいんですか。どうして私に優しくするんですか。私は貴方に沢山ひどいことを言ってきた一人なんですよ。」


 そうして、私の二度目の懺悔は零れだした。地下の空洞に隠すことなく広がって。

 コウ兄様は今どんな顔をされているのだろうか。

 憎しみ、怒り、嫌悪? どれを向けられてもおかしくない。それだけのことを私はしてきたのだから。

 心の中で一番汚い罪悪感があふれ出してくる。醜くて、浅ましい。本当に私はお前が嫌いだ。

 コウ兄様からの返答はない。一秒一秒とその静寂が私の黒い部分を広げて、身体全体を包んでいく。

 消えてしまいたい。私はコウ兄様の前にいていいのだろうか。私は貴方から離れるべきなのだ。本当に家を出ないといけないのは、私だ。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 

 熱を失っていく頬、死にゆくように落ちた瞼。

 しかし、そんな闇に呑まれた私に光は訪れる。

 頭に撫でられる手の重みを感じて、私はふと目をあげた。

 そこにはやっぱり……。あの日、大怪我で顔を腫らしながらも、それでも笑いかけてくれたコウ兄様の……私の王子様ヒーローの顔が、そこにはあった。


「優しいのかなぁ僕?」

「……へ?」

「ちょっと考えたんだ。そのさっき初めてマジ切れしちゃってさ。今になってクレアさんに結構ひどいことしたかなぁ~って思ってさ。」

「……コウ兄、怒ったんですか?」

「うん。まあその。柄じゃないんだけどさ。リアがあの日も、今日と同じ事を言ってたなって思い出したんだ。だから僕ももしかしたら、リアに怒ってた事があるのかなーて考えちゃった。ごめんね?」

「そんなの当然ですよ。私はコウ兄の優しさに甘えてきただけなんです。」

「そんなことないよ。というかね、妹が甘えてくれるなんて、兄としては贅沢なことだよ。」

「違うんですよ。そうじゃない。もっと……怒ってくださいよ。つき離してください。そうじゃないと私は、コウ兄を……好きに。」


 ……何を言っているんだ私は。恥ずかしげもなく、こんな告白をして。

 あの日からだ。これは抱いてはいけない感情なんだと、そう思っていた。

 血のつながり? そんなことじゃない。

 この感情は間違っている。たとえ私が、貴方が、マードックでなかったとしても。

 私が犯したこの罪が、その意識が、全てを否定する。

 それなのに私は貴方から離れられなかった。

 背徳を宿して一緒の時間を共にしても、忌まわしいこの身を寄せて袖を掴んでも、異常なこの心を貴方の熱で震わせた時も。

 貴方が優しく、私に微笑んでくれたから。


「本当に気持ち悪い。なんでこんなにキモいんだろ。」


 栓をしていたはずなのに、ついに溢れ出てしまった。よりにもよって、貴方の目の前で。

 もう……貴方の顔を、私は見れない。

 そして、最後の本音が口から零れた。


「……最低だっ。私。」


 これが……リア・マードックが抱えてきた罪滅ぼしという名の、醜悪な正体だった。

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