第15話 そして夢は……

「えっ…あっ……」


 あっさりと…夢は潰えた。

 一瞬何が起きたのかわからなくなり目を逸らそうとしたが、訪れたのは敗北感、挫折感、そして喪失感…。

 湧き上がる黒い濁流がコウの心を飲み込んだ時、世界はモノクロのように色を失い、ついにコウは肩を落とした。


「終わった…のか……。」

 

 受け止めきれない現実を名残惜しむように吐きそうな頭で呟いた。

 この理不尽な世界は一体何なのか。

 たった一人の少年に対するこの仕打ち。待ってくれない時間に残酷さすら覚えてしまう。

 掴まれた足枷はいつしか消え、行き場を失った怒りと諦めきれない思いが、壊れたからくり人形のようにコウの足を動かした。

 

「なんだよ。こんなのって……。」


 噛み砕くように、口から零した自分への不甲斐なさ。受けきれない現実への不満。


「まだだ。まだ終わってない。」


 結界へとフラフラと近づくコウを、ザックは止めようとはしなかった。

 戦意は抜け落ち、魔力の狼煙は既に鎮火されている。当然、結界を抜けることなどできはしない。

 意味もなくコウが結界を殴りつける痛ましい姿を…ザックはただ茫然と眺めるだけだった。

 

「クソッ!! ふざけんなっ!! 開けよっ!」


 赤く染まりゆく拳。

 拳は魔力を纏っていない。素手で鉄の壁を殴ることに等しい無謀の所業。結界にこびりつく悔しさの血痕、そしてその狂相に皆は固まるのみだった。

 

「ろくに魔術も使えないで! 御母様の幸せすら奪って! 何なんだよ僕は‼」


 壁に付着した自身の血。押し叩かれた両手は力無く滑り落ちていく。


「もう嫌なんだよ。姉様の…リアの…誰の期待にも…答えられないのは。」


 嗚咽まみれの声は、泣きじゃくる子供の喘ぎ声のように。

 卑下の塊こそがコウの全て。今に至るまで、多くの失敗と挫折を味わい続けた。

 荒んだ言葉、積み重なる理不尽が自身を肯定できるものを覆い隠し、やがて見失う。

 しかし……。


「でもっ…。何の取柄もないんな僕にも……」


 殴り続けた拳と身体が震えだし、爆ぜる思いを口にするだけ涙がこぼれだした。


「背中を押してくれる人が……。ちゃんといてくれたんだよ!」


 橙色の結界は一面に赤く染まる。痛み、痺れ、流血…すでに拳の形すらもままならない腕を目一杯振り上げる。


「だから今度こそこんな自分を好きだって、胸を張って思えるように!」


 懸ける思いを乗せた木偶の左手。砕け散りそうになりながらも、コウは拳に再び魔力を纏った。


「やるんだよ。俺は‼」

 

 振り上げられた最後の拳は、結界には届かない。

 振り返らずとも分かる。この握力、そしてこの大きさ。

 無表情のザックが、ボロボロになる寸前のコウの手を掴んでいた。


「コウさん。」

 

 それが最後の一撃であるかのように、戦意の残り火は光を失う。ついには全身から力が抜け落ちて…。心のどこかで何かが崩れ落ちる音がした。

 ザックは少し腕を引っ張るもコウが動く気配はない。


「もうやめましょう。」


 コウの返事はなく、担いででも家に戻ってもよいが…。それは無粋であると何となくザックにも分かった。だからザックは戸惑いながらも言葉を選ぶことにした。


「家に、帰りましょう。」


 誰のせいでこんな……。いや今は怒る気力もない。それにこれは筋違いというやつだ。

 今自分はどんな顔をしているのだろうか…。想像したくもない。だが予測はできる。


「そっかぁ…。わかりました。」


 何がわかったのか、と言い返す事すら、今のコウには浮かばなかった。

 無表情ながらもザックは何か言いたげな様相で握る力を弱め、腕を優しく戻す。


「コウさん。おれぁ野良です。」


(……野良。)


 ある言葉がよぎり、コウは死に際の魚のような反応を見せた。

 獣人族のはぐれ者は野良と呼ばれる。

 大陸戦争から八十年、帝国・王国間での闘いにおいて獣人族は王国側へ就き、帝国と闘った。

 しかし、結果は帝国側の勝利。それ以来、亜人への差別意識に拍車がかかり、奴隷廃止宣言の影で、獣人は奴隷の対象として人間に狩られるようになる。

 野良は身寄りを失ったもの、集落から追い出されたもの。その理由は様々。

 群れからはぐれた一匹の獣に対する揶揄的表現であり、奴隷狩り寸前の身であったことを明かす事と同じだった。

 

「ちぃせぇ時のことなんで、あんま覚えてないんですけど…。でもまぁ…。死にかけたことは妙に覚えてるもんで…。」


 嘘をつくのが苦手なザックだ。決して嘘ではないのだろう。

 子供が死にかけたなどと、そんな状況が最悪なわけがない。

 それに比べて、自分はどうだろうか? 

 温かい布団、美味しいご飯、恵まれた家柄。望めば大抵の物は手に入る。

 傍から見れば、自分は恵まれている。そう考えてしまったら、ザックに何も言えなかった。


「おれぁコウさんみたく頭がねぇから。世の摂理やら…ルールなんてもん…わからなくて。物盗んで、逃げて、喧嘩して、バカやりました。」


 野良と聞いたときから想像はできた。手を引っ張る存在もいない一匹の獣は本能のままに生きる術を模索したのだろう。


「冬の日でした。」


 コウは虚になりながらも、神妙な声の変化に気づいた。

 しかし、それでいてザックが何を伝えたいのかコウは未だ理解できずにいた。


「動きの鈍る冬に襲ってきたんです。でもおれぁ…。体が恵まれてたもんで。なんとか逃げきりましたけど…。身体が言うこときかなくなって、雪の上で寝ころんだんです。」


 その結末が、容易に想像できた。寒い冬の日に、子供が横たわった先に待つのは…孤独な最後が待っているだろうと。


「なんてことないです。ただ自分の番が回ってきただけでしたから。野良は一人で…いつもみたいに寝るだけです。」


 半分上の空でも、その悲惨な状況が目に浮かんだ。当時のザックには、生きることと死ぬことは真に表裏一体でしかなかったのだ。


「でもあの夜だけは違いました。」


 かつて少年だったザックの今際の最後、そこに現れたのは…。

 その時、無表情なザックの声色が、少し色づくものへと変わった。


「アリエル様が抱えてくれたんです。」


(……御母様。)


 アリエル…その名を聞いた時、コウは揺れる赤髪を記憶を頭に映した。


「アリエル様はこんなきたねぇ野良犬でも拾い上げてくれました。だからおれぁ…。あの人との約束を守ります。この命はあの人のものだ。」


 野良という悲惨な過去。だがそんな過去すらもどこか誇らしげで。

 アリエルのために生きると誓った忠犬の瞳には、揺るがない覚悟が確かにあった。

 だからこそ、ザックを救った母の存在を奪った自分の業が何より許せず。コウは引き裂くばかりに自分の心臓を握りつぶした。


「…そうだよ。僕のせいなんだ。僕が皆から御母様を…奪ったんだ‼」


 そう思ってはいけないと何度も頭に言い聞かせてきた。でも蓋を開けてしまえば……こんなにも心は脆い。

 ダメなんだ……。あの日を思い出すだけでどうにかなりそうなんだ。謝る相手はそこにいないというのに……。

 コウは無力とばかりに頭を地にこすりつけた。


「ごめんなさい…。本当は僕なんかいなければよかったのに……。」

「……」

「代わりにっ…あの時、僕が死ねばよかったんだ。」


 無様に額をこすりつけ無惨に伏せ縮こむコウ。

 自分を否定し続けた人の末路に、ザックは何を思ったのか……。

 どんな時でもザックは無表情だった。人の気持ちを推し量ることが苦手で、どんな言葉をかければいいのかもわからない。

 だから、ザックはいつも通り己の道標に沿うことにした。ただ一つ、思ったことをそのまま言葉にするだけのこと。


「コウさん。その言葉を…あの人の前で言えますか。」


 もしこの言葉をアリエルが聞いたのならと、そんなこと言える訳もなく、考えただけでコウは鳥肌が立った。

 今まで目を背け押し殺してきたはずの奥底の本音。吐き出した言葉が心を潰してしまわぬようずっと秘めてきた。

 しかし今日、心の壁は決壊し溢れ出た感情は思いのままに流れ出した。

 涙でグチャグチャになる顔。嗚咽と共に流れ出る鼻水混じりの涎。

 いつしか揃った取り巻き達は声にならない十五歳の醜態をただ見つめるのみだった。

 ザックはしゃがみ込み、相変わらずの無表情でコウの肩に手をおく。


「アリエル様が泣いちまう。そんな言葉、吐いちゃいけねぇ。」

「…うっ。」

「大丈夫ですよ。おれがついてますから。」


 ふと想像したのは眠る母の前でその言葉を告げる自分の姿。

 絶望に染まった自分の顔にアリエルはどう思うだろうか。

 代わりに死ねばよかったと叫び、自分など存在しなければよかったと嘆く我が子。

 きっと頬を叩いて、息が苦しくなるほど抱きしめてくれるのだろう。そんな頬の熱すらも…今は名残惜しく感じてしまう。

 アリエルはコウが傷つく姿など望んでいない。それはミシェルから耳にタコができるほど言われ続けたことだ。

 なぜ気づかなかったのだろう。傷つこうとする自分を叩いて、強く抱きしめてくれる母を想像できるのに…。そんな母様の気持ちにすら……。

 きっと抱えてきた罪過のせいだ。ずっと許せずに認めたくない気持ちの皺寄せが、自分をまた陥れ続けたんだ。

 こんな死にそうな顔で、こんな言葉で自分を否定してどうする。これ以上、自分を殺したくない。それが自分の願いでもあったはずなのに……。

 ザックの言葉が否定まみれの心から大切な原点を引っ張ってくれた。

 だから、コウは前を向いた。泣いてもいい、でもそのたびにまた立ち上がらなければならない。否定と絶望で殺してしまう姿など、アリエルが悲しむだろうから。

 これ以上、泣いてしまわぬように、コウは顔を強張らせだらしない面を隠すように手で拭う。

 未だ戦いは終わってはいない。終わらせてはならない。

 コウは切り返すようにザックと目を合わせる。


「そうです。そっちの方がいい。男前…ですよ。」

「っ……。どこがっ、だよ。」


 しゃっくり混じりに必死で返すも、以前目は真っ赤に染まったままだが、その様をザックはそれを情けないとは思わない。


「コウさん。」

「なにっ、」

「おれぁこの家を守ります…。でも本当に守りたいのは此処じゃあない。」

「……?」

「コウさん。おれぁただずっと…アリエル様に。」


 よく見なければ気づかないザックの変化。コウは初めて眼に宿る確かな温もりと不器用に微笑んだザックの姿を目のあたりにした。


「笑っててほしかったんです。」


 それが不器用ななザックの、唯一の願いだった。


「だからコウさんが俯いたままじゃあ…。あの人の笑顔を守れねぇんですよ。」

「…えっ?」

「言ったでしょ。コウさん。」

 

 立ち上がったザックは立ち上がり、そしてコウへと手を伸ばす。


「おれがぁついてますから…。」


 ザックは忠誠のままに生き、アリエルが残した幸せに、忠義を尽くすことを選んだ。

 手を掴む選択をしたコウを、ザックは笑顔で迎えた。


「守りますよ…。俺が。」


 反撃の狼煙が今昇り始めた。

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