第8話 リア・マードックの罪滅ぼし

 外が怖い。

 ある日を境にリアは一人で外へ出ることに恐怖を覚えた。

 門から出ようとすれば足は立ちすくみ、体に刻まれた恐怖が全身を這いずり回る。

 水底に落ちた石が泥を巻き上げるように、外の孤独が心の奥底にしまった恐怖が沸きあがらせ、体の自由を奪う。

 攫われるかもしれない、襲われるかもしれない。多くの人間はそんな非日常的な恐怖を想定したりはしない。理由? そんなのは簡単な事だ。自分には無縁なことだと勘違いしているから。

 恐怖とは未知なるもの。ある日突然、日常に潜んだ魔物は私達を狂わせる。

 リアはその魔物を知っている。そいつはどこかに潜んでいて、もしかするとまた自分に襲い掛かるかもしれないということも。

 あの屋台のおじさんが、いやこのお喋りなおばさんたちが。

 隣が、後ろが、右が、左が、正面が、周囲が、孤独が怖い。

 また襲って、痛みつけて、暗闇に閉じ込めてくるかもしれない。あの初夏の、コウを敬わず反発して、一人外へ出たあの日のように。

 馬鹿だった、浅はかだった。その行いの結果、名も知らぬ男たちに攫われた。

 リアは鷹を括っていた。一人だろうと私の魔術ならどうにかなると。

 固有魔術を持つことに過信し、そつなくこなせるリアを皆が褒め称えた。だから魔術はリアの誇りだった。

 しかし、その驕りは容易く砕かれる。

 貴族、それもマードック本家筋を狙った義賊達。当然弱いはずがない。練れ揃いの相手に、リアはなす術もなく地に伏せられた。

 初めて頭から血が出た。初めてあれほどの痛いと感じた。

 泣き叫べば、次は頬を殴られた。口から飛び出した奥歯を見た時、リアは助けを乞うことをやめた。

 恐怖と絶望で体は萎縮し、ただ虚ろな目で揺れる地面を見つめる。救いの光など、とうに諦めかけたその時。

 忘れもしない。あの日、無能だと罵り、見下していた兄が……敵を全滅させた。

 足手まといとなった私を庇い、兄は肩の流血で意識が朦朧としてたが、心配させまいと必死に笑顔を作ってくれた。青染めに腫らした頬をあげて、頭を撫でてくれた。

 ひどい言葉を浴びせ続けたはずなのに、兄は大切な妹だからと。コウは命懸けで戦った。

 いつしかリアにとってコウは特別となった。

 誰かが守ってくれないと、手を引っ張ってくれる存在がいないと、リアの足は未だ外を拒む。

 要するに引きこもりとなったのだ。

 しかし、まったく外へ出ないわけではない。リアを外へ連れ出してくれる時、隣にはいつも大好きな兄がいてくれた。

 コウがいれば、何も怖くはない。知らぬ誰かに手を引っ張られても、大好きなコウがまた助けてくれる。何より、兄の隣を歩けることがたまらなく嬉しい。

 だが時間を共にするほど、罪悪感が心が苦しめた。

 事件から、リアはずっと後悔している。コウにひどい言葉をかけ続けた自分を殺してやりたい。今日という今日まで、恩返しもできず、兄に手を引いてもらうことしかできない不甲斐ない自分をぶん殴ってやりたい。

 コウが家出を決意した時、リアには直感的な確信があった。きっと尊敬する兄なら、この障壁すらも越えて夢を掴んでしまうのだろう。

 ならば、と。リアは考える。

 今まで助けてくれた兄へ、せめてもの恩返しがしたい。これ以上、兄が泣く姿を遠目で見ているのは嫌だった。

 しかし、リアの心は自分を否定する。

 ………いや、違う。私はひどい女だ、綺麗事を並べるだけの下劣な人間だ。

 私はあれほど侮蔑し続けた兄に許してほしいと願っている。

 兄が魔術を行使する時、構築された術式は無意味とばかりに崩れ落ちる。

 何故? 理由は未だ分かぬまま。

 魔力の残滓が兄を囲い、舞い散る星屑に佇むだけの背中に、いつも自分が吐き散らした辛辣な言葉が重なるのだ。

 後悔しても、拭いきれない。

 リアは消えない罪の意識に苛まれながらも、その背中に手を伸ばす。

 身勝手で、都合がよすぎると言われても。いつか、この罪が許された時、堂々と兄の隣を歩きたい。

 兄を助けよう。たとえそれが、カリウスと対立し、自分の立場が危うくなろうとも。

 親愛なるコウ兄様へ。

 これは、私があなたに捧げるせめてもの罪滅ぼしです。



ーーーーーー



「コウ兄…。」


 リアは自室のベットで横たわり、意味もなく天蓋の影に兄の名を呼んだ。当然、そこにコウがいるわけでもなく、リアは名残惜しむように自分の手を伸ばし、ただ漠然と月明かりに不安を泳がせていた。


「……リア、起きてるかしら。」


 それは扉を叩く音の後から聞こえた。


(誰? こんな夜更けに…。)


 リアは眠れそうにない身体を起こし、ベッド縁に腰をかける。


「ええ、起きてますよ。」

「そう。では失礼するわ。」


 貴賓溢れる姿を容易に想像させるソプラノ音。やはりそこにはミシェルの姿が。


「こんばんわ。今夜は月が綺麗ね。」

「くぅぅ…!!」


 ミシェルの髪を退かす一仕草が、引きこもりの目を潰す。

 夜の帳がその妖艶な笑みを際立たせ、月光を帯びた純白の髪が星のように輝いている。 

 風呂上がりの薄手のカーディガンを羽織った生粋の美女。容姿もさることながら、魔術師としての実力も一級品となると、もはや血がつながっているのか本気で疑ってしまう。

 それに加え、性格も穏やかで優しい。

 正真正銘、自慢の姉だ。

 こんな姉を放っておくなんて、世界中の男性は一体なにをしているのか。

 それに比べて……。

 リアは姉と自分の身体を往復させる。

 発展途上の胸部に、大人とは程遠いパジャマ着。不本意にも姉に敗北を感じずにはいられない。


「胸ばかり見ても膨らまないわよ?」


 穴が開くほど凝視していたリアはハッとこちらに意識を戻す。


「み、見てませんから!」

「嘘はダメ。でも心配ないと思うわよ?」


 ミシェルに妹の心を見透かすことなど朝飯前だ。驚いて硬直するリアをさておき、ミシェルはステップを踏むように妹の元へ。

 そして、姉妹はベッドの縁に揃った。


「隣、いいかしら?」

「それを座りながら言われても…。」

「ふふっ、お姉ちゃんは絶対なのです。」


 ミシェルは姉の特権を存分に振りかざす。

 妹の隣に座るために許可などいらない。すでに自室のようにラフな姿勢だ。

 

「それで何か御用ですか? ミシェル姉様。」

「あら? 用がなければ可愛い妹の部屋にお邪魔してはいけないの?」


(何かあるんですね。)


 これはミシェルの毎度同じテンプレートだ。

 そんな決まり文句をリアは冷たくあしらった。

 

「……で、何の用ですか。」

「あらあら。ノリのよろしくないこと。お姉ちゃん悲しいなー。」


 わざとらしく泣き真似を始めた姉に同情の余地はない。

 いつもなら戯れに興じたいところだが、生憎今のリアにその余裕はなかった。


「その、今はなるべく接触を控えるべきかと。ただでさえ監視の目が厳しいのに。」

「確かにその意見には賛成です。では早速…。」


 そう言って、ミシェルは細い指を高らかに鳴らした。

 音と同時に広がる魔力の波動が部屋全体に広がる。


「御姉様!?」

「簡潔に、今監視の目を殺しました。もちろん、話も聞かれることはありません。」

「でもそんなことをすれば、お父様が黙っていないのでは…」

「コウ君ならともかく、リアとなら少しぐらい…妹との悪戯だと甘んじてくれますよ。……おそらくですが…。」


 そんな確証もない精神論的な答えでは到底納得がいかないが…。

 稀に出るミシェルのゴリ押しにリアは顔を引き攣らせた。

 微かにだが、部屋の空気が振動する音が聞こえる。おそらく、超微細に温度をコントロールし、波長を遮ったのだろう。相変わらずの神業だ。

 魔法に関心している暇もなく、ミシェルはリアの手を重ね、目の色を変えた。


「リアにやってほしいことがあります。」


 やってほしいこと、それを聞いてリアが最初に思い浮かべたのは自分の役目だった。

 ミシェルがコウの後を追うであろうカリウスを止め、リアは神出鬼没なアランを警戒する。アランが動くようであればリアが説得し、コウをサポートする。

 両名どちらかが欠けても、コウの脱出はありえない。

 故に、リアの役目は責任重大であり、兄弟での交渉もやぶさかではないと考えていた。

 おそらく、ミシェルはこの大役をやり遂げるだろう。しかし、リアは…、今にも不安で押し潰れそうだった。

 コウの手を離さない引きこもりがアランを止めれるだろうか。強気な交渉に出れるだろうか。最悪、実力でアランと渡り合えるか。

 答えは、否。あの日、無力だった自分が心を覆いかくす。

 失敗すれば、コウの夢はここで途絶える。それはリアにとって、自分がコウの未来を潰すことにも思えた。

 そんな重圧に潰れそうなリアに、ミシェルは更なる重荷をかせようと口を開いた。


「あなたは囮となり、コウの代わりに街を駆け回ってほしいのです。」

「はい…?」


 思考が追い付かず言葉にできない。

 前提として、どうやってコウの代わりとなる? 身長も性別も違う。下手な変装ではすぐにばれてしまう。

 戸惑うリアに、ミシェルは質問する隙すら与えられない。


「場所はの地下水路。コウ君にメッセージを残しています。あの子ならきっと気づいてくれるはずです。リアはそこでコウ君と落ち会い、花園へ来るよう伝え、交代してください。」

「そんな事私に出来るわけ…」


 未だ戸惑うリアを置いて、ミシェルはある一冊の使いこまれたノートを差し出した。


「ここを見てください。」


 ページに真新しい付箋がさしてあり、徐にリアはページを開けると、そこには……。


(すごい…。こんなことって。)


 リアの嘆声がノートに落ちる。

 ノートに空白はほとんどない。そこには魔術師ならば誰もが見惚れてしまうほどの、精巧に描かれた魔術式で一面は埋まっていた。

 時すら忘れて、リアはその術式を丁寧に、一つ一つ読み取っていく。

 真剣にノートを見つめるリアの傍らで、ミシェルは続ける。


「このノートはコウ君の物です。」


 持ち主を聴いて、リアはピクリと肩を震わせた。


「これを……コウにいが?」


 それは至極まっとうな質問だ。基礎的な魔術すら使えない兄がこれほどまでの術式を書いて見せたのだから。


「はい。全てコウ君が描いたものですよ。それは変身魔術の術式です。」

「!? 変身魔術ですか…。」

「あなたにとっては苦い思い出かもしれませんが。」


 ミシェルから告げられた魔術をきいて、リアは歯をかみしめた。

 変身魔術は名前の通り、身長や体重、容姿まで全てを思いのままにする幻術系統の魔法だ。リアは一度だけ、その魔術と対面したことがある。

 しかし、この魔術との出会いは最悪と言っていいほどのもので。

 いつかの人攫いが使っていた魔術こそが、この変身魔術であった。

 幼いころのリアはまんまと騙され、危うく戻らぬ人となりかけた。因縁の魔術と言ってもいい。

 しかし、今ここでミシェルがこのノートを渡した意味。少ししてリアは悟る。

 それはあまりにも配慮のないものだった。


「これを使えって言うんですか……」

「そうです。これを使って、あなたはコウとなって一人で街を走るの。」


 腹の中で溶岩のようにドロドロの感情が這い上がってくるのがわかる。それが燃え滾る憤怒なのか、それとも蘇る過去の記憶か。

 過去の記憶を呼び起こす魔術を使い、その上一人で外へ出なければならない。当然、隣には手を引いてくれる兄はいない。

 湧き上がる感情など、今のリアにはどっちでもいいことだった。

 額から不自然な汗が滲み出す。どちらにせよ、小刻みに震え出した身体は孤独を拒絶していた。


「む、無理ですっ。私には…。」


 恐れる様にリアはノートを手放した。

 不安、重圧、喪失。乱心し挙動するリアにミシェルはすぐさま手を伸ばす。


「リア。」

「いやだ。やめて。」

「リア、こっちを見て。」

「怖い…。助けっ」

「こっちを見なさい。」

「嫌です! 離してください!」


 手を振り払おうとリアは必死に暴れるなか、ミシェルは子をあやす様に抱きしめる。


「ごめんなさい。あなたの気持ちはわかります。ひどいことを言っているのも承知の上です。」


(姉様に私の気持ちなんか…。)


 王国一の魔術師と称され、母譲りの優しさを持ち、何でもできてしまうミシェルは、リアにとって憧れであり自慢の姉だ。

 外にも出ることが出来ない引きこもり。いつになったら外へ出るのだろうか。ミシェル様とは大違いだ、とそんなヒソヒソ話が聞こえた時もあった。

 こんな弱い自分を見透かさないでほしい。そんな心を知られたくない一心でリアは抱き寄せられた腕で押し返したが、ミシェルはそれでも離すまいと強く抱きしめる。

 そんなミシェルの優しさに抱かれて、リアは心の内を叫んだ。


「嘘です!! 完璧なミシェル姉様に私の気持なんてわかるわけありません!」


 ひどい矛盾だと分かっていながらもリアは叫ばずにはいられなかった。

 リアの知る姉は完璧な存在だ。そんな完璧な姉が、完璧でない者の気持ちを読み取れないわけがない。なぜなら、ミシェルもきっと多くの克服を経て今に至るのだから。

 苦しいから助けてほしい。それは人の当たり前の心理。

 知ってほしくないが、知ってほしい。

 誰だって知られたくない心の内がある。しかし、誰かがその心を理解してくれたなら…と。

 リアは完璧な人にそんな期待を重ねた。


「いいえ分かります。外が怖くてどうしようもないことも。誰にも理解されないことに苦しんでいることも。」


(やっぱり姉様は……。)

 どこか安堵にも似た表情で、リアは遊び疲れた子供のようにこときれた。

 

「大好きな兄の助けたいのに、身体が上手く動かないことも。そんな不甲斐なさを憂いていることも、全部知っています。」


(そうなんです。助けたいのに……、でも上手く身体が動いてくれないんです。)


 どうすればよいか教えてほしい。私を助けてほしい。そんな言葉を吐き散らしたかったが、リアはグッと堪える。いつしか体重を人肌に委ね、抵抗する力を失う。代わりに止めどない涙を流しながら。

 

「全部知ってるんですよ。私は。」


 ミシェルはくすりなく声が聞こえ、妹の肩を抱いてはそっと目元を親指でなぞる。

 その言葉がリアをどれほど救ったか。

 不安で押し潰されそうな気持ちに気づいてくれる誰かがいるだけで、心は軽くなる。

 少なくとも、リアの心に余裕が戻ったのは確かだ。


「お姉ちゃん、だからですか。」


 少し生意気な返答に、ミシェルは安心して手を離す。

 そこには目元を腫らしたいつも通りのリアがいた。

 

「ええそうです。お姉ちゃんだからですよ。」


 そう言って、ミシェルは嬉しそうに笑みを浮かべた。

 もう抱き寄せる必要はない。

 ミシェルは隣に落ちたノートへ手を伸ばし、無作為にページを開く。


「もう一度、しっかり見てください。あなたならきっとこのノートに込められた意味がわかるはずです。」


 何かを伝えんとするミシェルは再びノートをリアへ渡した。

 リアは赤くなった目をこれでもかと擦り、ノートに集中する。

 見れば見るほど、その繊細な作り込みに感服してしまうところだ。

 実際のところ、リアはこの構築式を本当にコウが描いたとは思えなかった。なにせコウは魔術が使えない。彼が書いたとしても、ノートは意味をなさないだろう。それに加え、現代の魔術師にこれほどの立式を組み立てるのは難しい。一回きりの魔法紙スクロール化が関の山だろう。

 

「素晴らしい出来でしょう。これほどの構築式を描ける者など数える程度。本棚に埋もれてはもったいないと、コウ君の部屋から……拝借してきたのです。」


 式に釘付けになりながらも、リアは疑わしいジト目を向ける。


「…さては盗みました?」

「……いいえ。許可なく借りただけです。弟の物は姉である私の物というやつです。」


 自覚があるなら尚質の悪いことだ。そして、まったく理解できない謎理論。

 これでもかと姉弟間での特権を振りかざすわりに、ミシェルは視線から逃れようと必死なあたり背徳はあるらしい。

 それだけマシかと、リアは再び美しいノートの世界に没頭する。会話もそっちのけなあたりはさすがマードックの血筋といえる。


(これは魔法壁の応用式で…こっちは五大元素の増幅式?)


 読まば読むほど興味深い。このノートは金貸数枚はくだらないと言われても差し支えないほどの代物だ。

 あの『銀氷』と謳われたミシェルが感嘆している時点で素人であろうとも一目瞭然である。

 それほどのノートが評価されず本棚にしまったままと考えると…。不遇な扱いを惜しまずにはいられない。


「そんな…。もったいない。」

「同感です。しかし、世に出たとしても流行らないでしょう。これは現代の魔術師では再現不可の魔術。即ち理想の魔術式でしかありませんから。」


 ミシェルの言う通り。おそらく、この魔術が世に出ることはない。

 いくら凄いものだとしても、それを扱えなければ意味がない。この構築式は術式に相当する、即ち固有魔術に属することだろう。先ほどの変身魔術も然り、人攫いの賊が持つ固有魔術であった。

 現状、魔術師が他者の固有魔術を完全に再現することは不可能だ。世に出回っているのは自己構築の劣化版のみである。

 故に、リアはこの魔術を発動できる者はいないと思っていたが……。一人だけこの魔術を使える者がいることに気づく。

 直後、ミシェルはその嬉しくも気持ちが溢れんばかりのリアを見逃さなかった。


「やっと気づきましたか。このノートが誰のためにあるのか。」


 誰かのために…、その誰かに甘い期待を抱いてしまう。リアは気恥ずかしく、甘酸っぱい気持ちで心は満たされていた。


「次のページを開いて見てください。きっと驚きますよ。」


 そうして、ゆっくりとリアはページをめくった。


「コウ兄…。」


 リアは込められた意思をしっかりと受け取った。

 そこに書かれていたのは…。リア・マードックの魔法戦術の組み立てであった。

 魔力総量に応じた場合分けのスタイル、発動可能な魔法に合わせた固有魔法との連携、弱点の近距離戦時における有効打。

 全てコウが考案し、リアに託そうとしていたもの。つまりこれはリアだけの魔導書なのだ。

 

「正直嫉妬しましたよ。だってコウ君はこんなにもあなたのことを思っているのですから。」


 そう、コウは一人で外にすら出られない妹であろうとも、いつか立派な魔術師になれると信じてこのノートを残したのだ。

 しかし、それはミシェルも同じこと。リアならば変身魔術を使いこなせると信じて作戦を組み立てていた。


「あなたの術式、『魔女の晩餐会ワルプルギス』なら、どれほど複雑な魔法式であろうとも関係ない。どんな理想式であろうと現実にできるはずです。」


 ミシェルの言う通り、リアの術式であれば可能だ。

魔女の晩餐会ワルプルギス』は多重式、構成の難度の縛りを受けることなく魔術式を構築することが出来る。そのために対象となる魔術の解釈と発動に際しての魔力練度が必要であるが、条件を満たせば固有魔術であろうと行使できてしまう。いわば、模倣と創造に特化した術式なのだ。

 そして、ミシェルは最後を飾り付けるようにそのノートに込められた意志を言葉にかえる。

 

「これは魔術師になりたいと願う少年が、一人の少女へ託すために描いた夢。あなただけが紡ぐことのできる唯一の魔導書です。」


 リアは年期の入った一冊を宝物のように抱く。開いたページをこれ以上、涙で濡らさないために。


「リアはいつまでコウ君に支えてもらうのですか。」


 記憶を遡れば、あの日から六年。リアは兄から片時も離れたことはない。

 いつも頭を撫でて褒めてくれた。いつもそばで手をひいてくれた。

 ひどいを言葉をかけた時、コウはいつも愛おしむような目をする。最初は気味が悪かった。罵倒されているのに、どうしてそんな顔ができるのかとリアは不思議で仕方なかった。しかし、今なら分かる。

 兄に反抗していた時。手を引っ張ってくれた時。ふと顔を覗かせた時。コウはいつも同じ目をしていた。

 六年間ではない。コウはリアが嫌っていた時からずっと、妹を見守り続け、陰ながら支えてきた。

 ミシェルがそうであるように、コウもまた妹を愛していたのだ。

 そんな淡い記憶の海のなかで、強い意志が固まり始める。


「今度はリアの番です。立ち向かう時が来たんですよ。」


 リアが手を伸ばし続けたその背中が陽炎の如く心に投影される。憧れは不安を、恐れを、過去を薪にかえて、猛々しく燃え上がった。


「あなたが恐るべきは過去ではありません。これ以上、大切な人を泣かせないように。私と一緒に戦いましょう。」


 戦おう。これ以上、大切な人が泣かなくて済むように。


「力を貸してもらえますか?」


 差し伸べられた手をリアは強く握った。


「こんな引きこもりでも。できますか?」

「勿論、だってあなたは私の妹ですから。」


 引きこもりの天才は静かに本気を出す。

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