第3話 家出計画 ②
「ミシェル姉様。どうしてこちらに?」
扉の側から覗かせる美しき赤髪の存在。長くしなやかで、母譲りの光沢のある赤髪を持つ女性など、このマードック邸に一人しかいない。
リアは一歩たじろぎながらも、姉であるミシェルに要件を問う。
「あら? 何も用がなければ可愛い弟の部屋に来てはいけないの?」
「べ、別に…そういうわけでは……。」
相変わらず余裕の姿勢だ。いつものようにミシェルは妹を上手取り、苦そうな顔でしどろもどろしている様を、楽しげにいじっている。
リアは助けてくれ、と訴えかけてくるが、側から見れば仲睦まじい姉妹でしかない。終わらせるのは少し惜しい気もしたが、コウはそろそろリアの要望を聞くことにした。
「それで姉様。何か用があるんですよね?」
戯れが済むのを待たずして、コウは話を切り出した。
自室にあの多忙な姉がやってきた。本人はああ言っているが、用がないわけがないのだ。
そもそも父との揉め事があったというのに、お節介やきの姉が何も言ってこないはずがない。何にせよ、肯定であれ否定であれ、コウは姉との会話をひそかに期待していたのは間違いない。
弟に見透かされていたことに気づいたミシェルだが、どこか満足げで…。近くにあった椅子を寄せ、コウの化粧台のゴムを手に取った。
「コウ君ここに座りなさい。久しぶりに髪を結ってあげます。悪いけどリアは少し席を外してくれる?」
それは合図のようなものだった。
姉に髪を結ってもらう時、いつも決まってお悩み相談の流れが始まる。
言われるがままに、コウは鏡の前へと座り少し頭を下ろす。鏡越しに不満げなリアの顔がチラついたが、何かを察したのかミシェルに従い部屋を後にする。
「久しぶりですね。こうしてコウ君の髪に触るのは。」
そうして、ミシェルはコウの艶やかな黒髪に手櫛を通した。
夕暮れ時の赤い陽が鏡に差し込み、気持ちのいい静けさが部屋を包み込み始めた頃、優しい声と笑みがこぼれた。
「何で笑ってるんですか?」
「ごめんなさい。コウ君が喧嘩してるとこ思い出してしまって。」
「なっ……笑わないでくださいよ…。」
「そんなの無理よ。だって可愛かったんですもの。」
可愛い……とは言われ慣れないもので、いっそ顔をどこかに埋めたい気持ちになった。
前の鏡が公開処刑のように真っ赤に染まった自分の耳先まで映している。
「からかわないでください。」
「はいはい。それにしても、あのコウ君がお父様と喧嘩するだなんてね。」
「別に喧嘩ぐらいしますよ。僕にだって曲げたくない事があるんです。」
そうして、再び静けさがやってきた。
ミシェルは言葉に詰まったのか。手櫛で不必要に何度も同じ所を流し、右手で意味もなく小さな束を捻り作っている。
鏡に映る姉はどこか言葉の準備をしているかのように思えたコウは、待つことしか出来ずにいた。
ミシェルが口を開くまでの時間。それは長くも短くも体を縛りつける。しかしそこに緊張はなく、いつしか姉弟は会話を望み、鏡越しに目を合わせた。
「コウ君。家を出てまで魔術師になりたいの?」
コウにとってそれは期待通りというより、予想通りの質問だった。
しかし、いざ声にしようとすると上手く喋れない。
何せミシェルに相談事など、子供の頃以来だ。
だがそれはミシェルも同じこと。いつしか芽生えた大人の自覚のせいだろうか。正直なところ、ミシェルも素直になるのが恥ずかくもあった。
いつしかできあがったギクシャクとした空気に二人は困惑する。しかし、徐に目に映った姉の変化をコウは見逃さなかった。
今まで見たこともないミシェルの表情。それは少し怯えげで不安さを感じさせるもので、まるで鏡に映っているもう一人の自分を見ているかのようにも思えた。
(そうだ……姉様は僕の答えを待ってくれているのだ。)
コウは深く息を吸い落ち着かせる。
徐々に吐き出されていく空気と共に抜けなかった言葉の栓に手をかけた。
「はい。なりたいです。」
その言葉はやっと噴き出す。
ミシェルは嬉しげな笑みを浮かべ、ただ一言「そう。」とだけ告げてくれた。
「どうしてそこまで魔術師にこだわるの?」
「…カ、カッコいいからですよ…。」
「ふーーん。」
返ってきたのは素っ気ない返事。
ミシェルはコウの後ろ髪をゴムで手際よくまとめる。髪は引っ張られるも痛みはなく、優しく丁寧に括ってくれる。
顕になる頸に手が添えられ、順に顎まで落ちる。直後、ゆっくりと両の手でコウは顎を持ち上げられた
そうして二人の目は真に合わさったのだ。
「お姉ちゃんに嘘はダメです。」
「えっと。やっぱりわかります?」
嘘つきは目を逸らそうとするも、氷の眼光からは逃れることができない。
思い返せば、コウがミシェルに嘘をついたのは初めての事なのだ。あんな素っ頓狂な態度でバレないわけがない。
同じ体制のまま、逃がさないようにミシェルはいつもの真面目な顔つきへと変わる。
「貴方はまだ御母様の背を追っているわね?」
唐突に告げられたのは母の事だった。
コウにとってそれは触れてほしくない拒絶の側面。だがミシェルはそこに踏み込んできた。もちろん事情を知りながら。
いつしか固定されていた手は解け、コウは逃げるように視線を落とした。
「…まだじゃないです。これからもですよ。」
「…コウ。」
背中に柔らかい熱が伝わってくる。
俯くコウに人肌の温もりが伝わり、ミシェルは冷たくなっていくコウの心に寄り添った。
「御母様は貴方が身を削ってまで魔術師になってほしいだなんて思っていないわ。」
「何でそんなこと、姉様に分かるんですか。」
「決まってるわ。あの誰よりも優しい御母様がコウに傷ついてまで魔術師になれだなんて、言うはずがないもの。」
「そんなの……わかんないじゃないですか。」
慰めの声に素直になれず、駄々っ子のようにコウは否定する。
心の内では理解している。それでもコウは魔術師にならなくてもいいと認めてしまうのが怖かった。
「ねぇ。お母様の言葉を覚えている?」
忘れるはずがない。その言葉はコウにとって志であり、眠る母が残した遺志でもあった。
一言として間違えることなく、息をおとすようにコウは口にする。
「人のための魔術師になれって、魔法を教えてくれる時、ずっと励ましてくれました。」
「そうね。人を助けろと何度も言ってくれた。コウ君。私はね。今もあの頃と変わってない。」
ミシェルは心は雪解けのように。
いつも気品と振る舞いを重んじる姉が見せることのない素の姿。心が緩まるにつれ、有り体を忘れ、心のままに溶かされていく。
首筋に息がかかるほどの距離。
肩を包む雪のように白い腕が絡まる。その姿は別れを惜しむ恋人のように…。
告白のような時は流れ出した。
「魔法を学んで、力を磨いて、皆んなを守れるぐらいにってずっと頑張ってきた。」
「はい…。」
「私はね。この街もエルレリアの民も皆好き。」
「うん。」
「でも何より、」
ミシェルは物語を語る詩人のように想い馳せる。それはさも平和を愛する乙女のようにさえみえて…。
そして最後に、彼女が最も大切に思うものを謳った。
「家族を愛してる。だってお姉さんですもの。生意気なアランも、可愛がいのあるリアも、支えてくれる御父様も、優しさに満ちた御母様も……。そして、」
離れていく背中の熱を感じた直後、再び顔を優しくあげられる。
そこには、愛しいものを覗き込む綺麗な顔立ち。夕焼けに染められた白銀の髪を垂らす、赤リンゴの美女の姿だった。
「コウ君。貴方を愛している。頑張り屋さんな貴方が。」
今自分はどんな顔をしているのだろう。鏡を見てしまえばすぐにわかるはずが、ミシェルはそれをさせてくれようとはしない。
ただ薄氷のような瞳の先に、赤く頬を染める男が一人いることだけはわかった。
「ねぇ。魔術師ではなく騎士ではダメなの?」
それは魔術師とは違った方向で、人々を救う未来の形。
ミシェルはコウの気持ちを十分理解している。だがそれでも、魔術師ではない選択を迫らずにはいられなかった。
確かにコウの特異体質を考えれば、騎士の道は遥か理にかなったものであり、あのアランですらも溜飲を下すほどのものだったが、コウは未だ魔術師という無謀な道を捨てきれない。
「御母様は人をために尽くせとそう言ったわ。確かに魔法は人を豊かにするし、守ることも助けることも出来る。でもそれは騎士も同じこと。国を守ることは人を守ると同じ。コウ君ならきっと騎士の英雄にだってなれる。」
英雄、それは誰しもが憧れる偉業を成した者。マードックの名に恥じぬ栄誉あることだ。
あのミシェルから行く末は騎士の英雄になれると評価されたのだ。
コウも嬉しくないはずがない、はずがないのだが…。
「それでも僕は……」
その思いには応えられなかった。恋の魔法が解けるように、情の波がひいていく。
それは赤裸々に語ってくれたミシェルへの裏切りにも似た感触。
それでも、コウは自分の夢を追うと決めたのだ。
「きっと、苦労するわよ。」
「かもしれませんね。」
「帝都魔法学院は知っての通り王国と並ぶ名門。魔法の使えない貴方では入ることも、その先の未来も危ういわ。」
「知ってます。」
「きっと後悔する。辛い思いもする。帝都は遠い。私は助けてあげられない。」
「はい。覚悟の上です。」
「貴方が魔術を使えるようになるかも分からない。最悪、取り返しのつかないことになるかもしれない。」
「……うん。」
「私はコウ君を愛してる。だから傷ついてほしくないし、泣かないでほしい。それでも…行ってしまうの?」
姉の言葉を返さずして立ち上がったコウ。振り返った先には涙袋を濡らした美少女がいる。
そんなミシェルの両手を拾いあげて、コウは微笑んだ。
「ありがとう姉様。でもごめんなさい。その願いは聞けません。」
選択を揺らいでいた自分が覚めて、魔術師になるという夢がまた膨らんでいくのを感じる。
ミシェルの願い前にしても、やはりコウは自分が立ち止まることが許せなかった。夢を追いかけるのを止め、挑戦もしないまま終わり、母の遺志から逃げる事などできない。
当然、学院に入ってやっていけるか分からない。そもそも魔法を使えないものが入学が叶うことすらもわからない。それでも挑戦せずにはいられないのだ。
たとえ結果、姓を捨てることになったとしても。
「僕は帝都へ行く。姓を捨てる覚悟は既にできてます。」
「本気なのね。止めても無駄なのよね。」
「はい。だって僕は姉様の弟ですから。」
悲しげだった少女はやっと笑ってくれた。つられてコウも頬を吊り上げる。
「分かりました。そこまで言うなら、私はもうコウ君を止めません。」
ミシェルは説得を半ばあきらめた。だがそれでもまだ問題は残っている。
今度は姉としてではなくミシェル・マードックとして、無理を通そうとするコウと向き合わなければならない。それがマードックの血を引く者の責務であり、コウもまた紛れもないその一人であるのだから。
「ですが貴方には、三つの約束をしてもらいます。」
そうして告げられた次期当主の言葉。
どうやらまだ、コウへの難題は終わっていないらしい。だが心が乱されることはなく、至って冷静にコウは行動に移した。
すぐ側からもう一つの椅子を用意するなか、ミシェルもまたコウへと相対したのだった。
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