6,言葉たち

 すべては一瞬のうちだった。

 トオルが母の顔を見て崩れ落ちたとき、リーパーはかぎ爪を振り上げていた。断頭台のような正確さで、その刃はトオルの首筋を狙っていた。

 ただ見上げていることしかできなかった。一度に噴出する感情が脳を占領し、とても肉体を動かすことなどできなかった。


 だが、刃がとどく直前、トオルの体は動いた。いや、動かされた。

 襟を捕まれ、体ごと引き倒される。振り下ろされたかぎ爪は、すんでのところでトオルの首筋を外れた。


「ドス!」

 ツルネの声が遠くから聞こえた。トオルは床を転がって肩をしたたかに打った。その痛みが、頭の中をぐるぐるまわっていた感情たちを追い出してくれた。

(母さんは死んだ。殺されたんだ!)

 ショックが実感となっていた。拳を床について、体を起こす。


 大きく息を吸った。

 血のにおいがした。


(まさか……)

 ランタンを右手に持ち替えて、掲げた。ようやく何が起きたのかを、トオルは知った。

 リーパーのかぎ爪が、ドスの胸を貫いていた。赤黒い刃が背中から突き立てられ、胸から飛び出していた。

「っぐ……」

 気道からあふれる血が、ドスのマスクを汚した。呼吸すらままならないなか、少年はトオルを見ていた。


「ドス!」

「よせ!」

 思わず駆け寄りそうになるトオルの袖をつかんでツルネが引き留める。

 もう助けられない。巨体のリーパーを倒すこともできやしない。

 死の権化が目の前にいる。一度その刃に触れたものを、救うことなどできない。


「……ン……」

 最後の力を振り絞り、ドスは自分のポケットに手を突っ込んだ。そして、そこから取り出したものを放り、床に滑らせた。

 それは一冊の帳面ノートだった。床の上を滑ったノートは、トオルの足下まで滑ってぴたりと止まった。


 かちゃり。

 ドスの体を抱え上げて、リーパーが身じろぎした。襤褸の奥のチカチカした反射が、トオルとツルネを見据えていた。


(託されたんだ)

 もはや決断の余地はない。トオルは帳面をひっつかみ、駆けだした。ツルネは壁を一度強く殴ってから、同じように走り出していた。



 🔦



 帰ってきた探索チームが二人だけだったのを見て、村のザイニンたちは何が起きたのかをすぐに察した。

「誰かのせいじゃない」

 帽子のつばで顔を隠して、ツルネはそう言った。

「脱出する道を見つけない限り、誰もがいつかああなる」

 そして、チエのテントの中に入っていった。


 テントは音を遮ってくれない。トオルは背中を向けて、嗚咽を聞かないように努めた。

(僕を守るために、ドスは死んだ)

 ランタンに反射される自分の顔を見ながら、トオルはつぶやいた。

「これと同じだ。僕に残したんだ。ドスが何かを……」

 ランタンの明かりの下で、帳面を開く。その中には、異国の言葉が綴られていた。


(壁に書かれていたのと同じだ。別の国の言葉……)

 その言葉は、すでに滅んだはずの国の言葉だった。《都市》の外には、もはや文明と呼べるものは残っていない――そう教えられてきた。

「でも」

(だったら、もうない国の言葉を教えるはずがない)

 トオルは、その言葉を知っていた。上級市民の教育プログラムに含まれていたのだ。


 すべての言葉をスムーズに読めるわけではない。ドスの書き残した文字の中には、複雑な単語や、筆跡が読み取れないものもあった。

 時々は想像力で補いながら、トオルは書かれている文章を解読していた。

 夢中になって読んでいるうちに、背中から声をかけられた。


「ドスはそれを誰にも読ませなかった」

 ツルネだ。まぶたが厚ぼったく腫れているのを見て、トオルはランタンの灯りを消した。

「あいつは、他のザイニンとは違う感じがしてた。しゃべることができなかったけど、頭がよくて……それに、いつか抜け出せるって信じてくれた」

 消えたランタンを見つめながら、ツルネは帽子のつばをいじっていた。


「ドスは……たぶん、《都市》の外から来たんだ」

 トオルがそう告げると、ツルネははっとして顔を上げた。表情には、困惑と納得が同時に浮かんでいた。

「《都市》の外って、荒野から?」

「ううん。たぶん、別の国から……《都市》の情報を探りに来たんだ。彼は諜報員スパイだった」

 はっきりとしたことがノートに書かれていたわけではない。

 だが、断片的な情報を継ぎ合わせると、そう考えるのが自然だった。


「ドスはどうやってか、《都市》に侵入した。下級市民なら、IDがなくたって誰も気にしない。でも、上層部から目をつけられて、《人狩り》に遭って……」

「あたしたちと一緒に《基礎》へ追放された?」

 トオルが頷く。ツルネが首を振った。

「そんなこと、一言も……」

「いつか《基礎》を脱出したら、祖国へ帰るつもりだったんだ」

「あたしたちのこと、騙してたの?」

「むしろ、逆かな……ツルネと脱出できることを信じてた」

 でも、できなくなった。だからノートを託したんだ。とは、言うことができなかった。


「ドスは《人狩り》の目的も見当をつけていたみたいだ」

 ランタンを消すと、はじめはひどく暗く感じる。だが、慣れてくると暗闇の中にも形が浮かび始める。見えていなかったものが見え始めるのだ。

「《都市》は完全な循環システムを備えてる。廃棄されたゴミを再生リサイクルして、また《都市》を成長させる材料にするんだ」

「でも、捨てられたゴミはあっちに溜まりっぱなしだよ」

「何か、不具合が起きてるんだと思う。だから、上層部は緊急手段を取った」

「緊急手段って?」

「《都市》の建材としてもっとも優れたものを《基礎》に送って、《都市》の材料にすることにした」

「建材って……まさか」

材人ザイニンだよ」

「じゃあ……あたしたちは、ゴミの代わりに《都市》に食わせるために狩られてるのか!」

 ツルネの叫びがホールに響いた。「静かに」というジェスチャーで落ち着かせる。


「《都市》は半分、生き物みたいなものだ。《基礎》はその材料を消化して吸収する内臓なんだ」

 考えてみれば、リーパーですら人間の体を自分の一部として取り込んでいるのだ。

 同じことが、《基礎》のあらゆる場所でおこなわれているに違いない。巨大な《都市》を維持するために、今までどれほどのザイニンが捧げられてきたのか……

(僕は何も知らずにその恩恵を受けてきた)

 下級市民を見下しながら。その実、彼らの命を糧にして生きていたのだ。


「終わりにしないと」

 トオルはランタンを見つめながらつぶやいた。

「全体が生き長らえるために、一部を犠牲にし続けるなんて」

「終わりにするって言っても、どうやって?」

「それは……」

 その時。


「リーパーだ!」

 先ほどのツルネ以上の声量で、悲鳴があがった。

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