4,タナトスの誘惑
「……お邪魔します」
テントの中まではっきり聞こえるように、トオルは声をあげた。しかし、返事はなかった。
「入る……よ?」
改めて声を掛けてから、ゆっくりテントの入口をかきわける。
「だれ?」
青い瞳の輝きが、テントの中には浮かんでいた。
人ひとり入るのがやっとの空間に、身をすくめるようにして少女が座っている。痩せぎすの体つき。伸びっぱなしの髪の奥の、愁いを帯びた瞳だけが、暗いテントの中ではっきり分かる。
(腕に包帯を巻いている。ケガしてるのか?)
少女の腕は、掴むと折れてしまいそうなほどに細い。その腕に、使い古して灰色になった包帯が巻き付けられていた。
「僕はトオル。《基礎》には今日来たところ」
「それは……運がよかった」
少女の言葉は素っ気ない。注意して聞いていないと、自分に向けられた言葉だと気づけないんじゃないかと思うくらいだ。
「君はチエ、だよね。村の占い師だって聞いた」
腕に包帯を巻いた少女が頷いた。
(占い師だってことにして、労働を免除してあげてるんだろう)
十三歳のトオルより、さらに年下だろう。力仕事はとても無理だ。
それに、彼女のテントを訪ねる前にツルネがこう言っていた……「チエは一人ずつとしか喋れない」
(心が不安定なんだ。無理もない)
注目を浴びていると感じると、不安になるのだろう。今も、できるだけトオルと目を合わせないようにしているのが分かった。
「その……ランタン」
不意に、チエが言った。ランタンは、彼女を驚かせないように明かりを切ってある。
「見せて」
端的な言葉に、トオルはすこし迷ったが、ランタンをさしだした。
チエは黒い瞳で、じっとランタンを見ていた。すでに表面の血は拭ってある。硬質ガラスに覆われた表面には、何も映ってなかった。
「水晶の代わりになるかも」
「水晶?」
「占い師が使うから」
「ああ……」
チエは目の前に無造作にランタンを置いて、じっと見つめはじめた。
「本当は、水晶に何かが映るわけじゃない。水晶を通じて、自分の内面を見つめてる。心の中には、宇宙と同じ広さがあるから、心を見つめることは外の世界を見つめることと同じ。だから、自分の心に向き合うことができれば、外の世界に立ち向かうことができるはず……」
痩せぎすの少女がつぶやく。
(止めた方がいいかな?)
トオルに向かって話していた時とは様子が違う。まるで彼のことなど見えていないかのように、ランタンだけをじっと見つめている。
「恐怖は何よりも強い感情。恐怖が心を支配しているときは、他のものが入り込む余地はない。でも、どうやって支配を脱するの? 恐怖の根源は未知だから、未知を未知のままにしないで……恐怖の正体を知る必要がある。恐怖を後ろにやり過ごすのではなく、自分の中に取り込まないといけない……」
トオルはただじっとチエの様子を見ていた。小鳥を思わせる細い指が、ランタンの表面に触れ、歪んだ陰影を落としていた。
「でも、もしも克服できない恐怖だったら? 立ち向かうことさえできえなかったら……」
チエの手がぶるぶると震える。彼女は自分の手を髪にのばして、ぎゅっと掴んで引っ張った。
「やめるんだ」
「いや!」
自分で自分の髪を引きちぎろうとするチエを抑える。チエは体を揺すって逃れようとしたが、その力は驚くほど弱々しかった。
チエの手首と肩を押さえて、自分の方へ引き寄せる。骨張った体は、刺さってしまうんじゃないかと思えた。
「私、怖い」
トオルの肩にしがみつきながら、チエは泣いていた。
「死ぬことが怖い。でも、死んでみたい」
トオルに話しているのではない。うわごとのように、同じ言葉を繰り返していた。
「どうして?」
できるだけ優しく問いかける。チエの涙が胸にしみこんでくる。
「ここでたくさんのザイニンが死んだ。死ぬ時にどんな気持ちになるのか、心臓が止まるときにしか分からない」
チエが暴れないように強く体を抱きながら、トオルは死に惹かれるチエの意識を引き戻そうと考えた。
「ザイニンって、ツルネも言ってたけど」
「この《基礎》へ落とされる人のこと。人狩りがそう読んでた」
「人狩り?」
「時々、下層部に来る人たち。人間をつかまえて、地下に送る……私たちはみんな、それでここに」
「そうか……」
チエがぽつぽつと語る言葉を聞きながら、トオルは考えていた。
(《都市》には何か秘密があるんだ。上層部と下層部が分断されているのをいいことに、下級市民を地下に送り、上級市民にはそのことを黙っている……でも、なんのためにそんなことを?)
しばらく黙っているあいだ、チエが落ち着きなく体を動かしていた。
「チエは優しいね」
少女はトオルの胸に額を押しつけながら、ぶんぶんと首を振った。
「優しいよ。人の気持ちを考えてる。僕は自分のことで精一杯だ」
ザイニンたち。
何も知らずに地下へ落とされ、暗闇の中で生きる人々。
上級市民として生きていながら、彼らのことを知りもしなかったのは、とてつもない過ちに思えた。知らなければ。自分がどういう世界で生きていたのか。
(そして……母さんが何のために死んだのか)
『父さんが、危険から守ってくれる』
母の言葉が胸に浮かんだ。
(ザイニンたちは『人狩り』に遭った下級市民だ。ボクだけが、上級市民でありながらこの《基礎》へ来た)
そのことには、重要な意味が――あるいは、運命のようなものが――あると思えた。
「落ち着いた?」
チエが頷く。伸びっぱなしの髪を撫でて整えてから、そっと離した。
「すこし休んで。また来るから」
狭いテントの中で、チエは赤ん坊のように膝を丸めた。
🔦
テントのすぐそばで、ドスが心配そうに立っていた。
「だいじょうぶ、落ち着いたから」
「ン……」
チエが叫ぶのを聞いて駆けつけてくれたのも優しさなら、中を覗かないでいたのも優しさだ。信頼できる相手だと思った。
「僕も、探索チームに入るよ。ここが何なのか、知りたいから」
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