2,リーパー

 トオルは闇の底で目を覚ました。

 昇降機の床には、べったりと血が溜まっていた。トオルのパンツの裾にも、シャツの袖にも。

 母の姿はなかった。


「母さん?」

 その声は箱の中にわずかに響いた。そして、トオルの鋭敏な感覚は、昇降機の扉が開いていることに気づいた。

 公判官に殴打された母と共に、押し込められた扉だ。昇降機は、目的地に着いたらしい……降下も止まっていた。


「母さんは……」

 床に広がった血が、扉の方に続いていた。闇の中にはわずかな明かりがあった。まるで映画館の非常灯のような、足元だけを照らすような弱々しい光が途切れ途切れと先へ向かっていた。


「母さんは僕を置いていったのか?」

(いや、あのケガで動き回れるはずがない)

 不安とその反動が同時に浮かんでくる。

 答えはない。

 ただ、母がいないという現実があるだけだ。


 壁に手を着いて、体を起こしていく。座りっぱなしだったせいで、うまく力が入らない。

 そのとき、

 がちゃん。

 トオルの腰のあたりから、血だまりの中へ何かが落ちた。


「うわ……!」

 静かな空間にとつぜん響いた音に驚いて跳びはねる。壁に肩を思い切り打ち付けてしまった。

「痛ったぁ……なんだ、これ?」

 ようやく両足を床に着けてから、床に落ちた何かに手を伸ばした。


 暗闇の中で探ったそれは、円筒形で、上部に取っ手がついていた。取っ手の下にはスイッチらしきものがあった。

(母さんが残したものだろうか?)

 血のついた手でそのスイッチを探ると、かち、と手応えがあった。

 スイッチに反応して、円筒が光を放った。暗闇にすっかり慣れて収縮していた瞳孔を思わずそらす。


「これって……懐中電灯ランタンか?」

 手の中の明かりを持ち上げると、ようやくまわりを見渡すことができた。

 昇降機の扉が開き、そこから通路が延びている。通路は《都市》の広々とした空間と違って、手を広げれば両側の壁に触れられそうなほど狭い。しかもまっすぐではなく、わずかにうねっている。生物の授業で見た、アリの巣に似ている気がした。


 母がここに戻ってくるとは考えにくい。むしろ、この場所を離れたどこかで苦しんでいるかもしれない。

(だとしたら、助けにいかないと)

 ランタンの取っ手をぎゅっとにぎって、胸の前に掲げながら最初の一歩を踏み出した。昇降機と通路の境目を踏み越える。


 靴の底に粘った感触が伝わってくる。そこにも血がついているのだ。

 通路は壁も天井も真っ黒だった。金属とも繊維ともつかない、でこぼこした表面材に覆われている。この黒い壁が光を吸収するためにより暗く感じるのだ。そのせいで、ランタンの光をかざしても、はっきり見通せるのはせいぜい十歩先までだ。


 母の血痕は、徐々に薄く、点々としたものになっていった。

(出血が治まってるのか。いや、それとも……)

 昇降機の中に溜まっていた血でさえ、かなりの量だった。考えたくはなかったが、暗闇の中でひとり、考えるしかない。

(誰かが母さんの体を持ち去っていったんだ。どこに? なぜ? なんのために?)

 トオルは疑問に集中しようとしていた。考えようとしている限り、母の死を見つめようとする誘惑に抗うことができるからだ。


「ここだ」

 いくつにも枝分かれする通路を進んだ先で、通路の四角い箱のようなものが置かれている場所に行き着いた。血痕は、その箱のそばで終わっていた。

 箱は横に切れ目が入っていて、開けることができそうだったが、掴んで引っ張っても開けることはできなかった。


「なんなんだ、この箱は……」

 壁と同じ素材でできた無愛想な箱は、いかにも人がひとり収まりそうな大きさだった。この箱の中に、母が――あるいは、母の遺体が――入っているのかもしれない。

(母さんは、ここで死んだのか……?)

 誰よりも大切なひとを失った。実感がわきあがりそうになったとき……


 かちゃり。


 かすかな音が背後に聞こえた。かすかでも、暗闇の中でははっきりと響く。

「……っ!」

 はっとして振り返る。そこには、異形のものが立っていた。


 狭い通路をふさいでしまいそうな大きさだ。全身を黒い襤褸ぼろで覆っている。その隙間から、いびつな機械がはみ出している。灰色の骨格に、黒々とした繊維が絡みついて手足のようなものを形作っていた。その形は、骨格標本の悪質な諧謔パロディのように思えた。

 左右の手の長さはちぐはぐだ。大きなほうの腕は肘から先がふたつに分かれ、それぞれに鎌のようなかぎ爪が生えていた。脚は蝗虫バッタのように後ろ向きについて、先端に向かうに従って細くなっている。


 かちゃり。

 その音は、異形が細い脚を床に当てるときに鳴っているのだった。巨体なのに、せいぜい軽く擦った程度の音しか鳴らないのが、ますます不気味だった。


 襤褸の奥……人間なら頭がある場所に、ちかちかとランタンの光を反射するものがあった。そこに、光検知器センサーのようなものがあるとすれば……すでに、トオルを検知しているはずだ。

 かちゃり。かちゃり。

 異形は通路を塞ぎながら、トオルの方へ近づいてきていた。いびつだが鋭利なかぎ爪が、ランタンの光を浴びてぎらぎらと光っていた。それは、トオルの肌に触れただけで骨まで切り裂き、赤い血を迸らせるだろう。


「な……なんなんだ……」

 振り返った姿勢のまま動けなかった。恐怖に身がすくんでいた。自分よりも大きなものが向かってきている。明らかに、命を奪うに十分な機能を備えていた。


(これって、現実なのか?)

 トオルの脳裏にいくつもの光景が浮かんだ。《都市》での暮らし。母との生活。学校の授業。悪態をつきながらゴミ出しに従事したこと。今いる暗い隘路あいろが、明るい《都市》と同じ世界に存在しているとはとても思えなかった。


 かちゃり。かちゃり。かちゃり。

 異形はもはや、数メートルの距離にまで近づいていた。

(こんなに急に終わるのか?)

 何が終わったのかは分からない。だが、何かが終わったのだ。


 かちゃり。かちゃり。かちゃり。かちゃり。

 ランタンの光が届く距離まで近づくと、異形の襤褸に真新しい血痕があった。

(母さんも、こいつに……)


「そいつの顔を見るな! こっちに走れ!」

 通路に声が響いた。異形とは反対側、トオルの背からだ。

 聞いたことのない声だった。生命力に満ちあふれた、少女の声。


 異形の機械が、ぐっと身を伸ばした。腕を振り下ろせば、トオルにかぎ爪が触れる距離……

「走れ! 死にたくなかったら!」

 その時、トオルは、

(誰か知らないけど、もし僕が死んだら、彼女は悲しむだろう)

 ――と、思った。


 その時には駆け出していた。しゃがんだ姿勢から前のめりに転がるように走る。背後で、硬いものがぶつかる音が響いた。異形のかぎ爪が、床を叩いた音だ。

 ランタンを振り回すように走る。通路の先で、誰かが腕を振っていた。

(僕はまだ、死にたくないと思ってる)

 無我夢中で走りながら、どこかで他人事のように考えていた。

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