ザイニンの灯

五十貝ボタン

1,《都市》と《基礎》

 昇降機エレベーターは、トオルと彼の母を乗せたまま、暗闇の中へ降り続けていた。

 降るごとに、光が薄れていく。暗闇がこんなに恐ろしいものだと、トオルは知らなかった。


「トオル、聞いて」

 母の瞳に宿る光もまた、弱まっていく。無機質な床へ、温かい血がこぼれ落ちていた。

「母さん、しゃべらないで」

 トオルは必死に彼女の傷口を押さえていた。胸の下にとても深い傷があった。いくら押さえても、血は止まらなかった。


「伝えることがあるの」

 母は十三歳のトオルを抱いていた。まるで、その時が来る最後の瞬間まで、守ろうとしているかのように。

「あなたのお父さんは、技術者エンジニアだった。この《都市ハイライズ》の《基礎ファウンデーション》を作った人」

「いまは、父さんのことなんか……」

「基礎は恐ろしいところになってしまったけど、あなたなら大丈夫。父さんが、危険から守ってくれる」

 母の声はか細くなっていく。だが、断固として話し続けていた。声の中に確信があった。


「あなたが生きている限り、私たちは負けていない」



   🔦



「全体のために、違反は罰されなければならない」

 開廷と同時に、議長は決まり文句を告げた。


 トオルと母は、《都市ハイライズ》の中に暮らしていた。毒ガスと放射線に満ちた世界のなかで、《都市》は唯一、人類が生きられる場所だった。

 地上三〇〇〇メートルの高さまでそびえ立つ超巨大建築。中には、文明がまるごと入っていた。《都市》では、人々が健康に、正常に生きられるように計画プログラムされた「日常」を送ることが義務づけられている。


 市民が計画違反を起こすと、こうして《公判》が行われる。《公判》には決まりがあった。密室で行われること。公判官は顔を隠していること。被告人だけが顔を隠さずに中央に立ち、公判官からの質問に答えるのだ。

(今日の《公判》は妙だ。公判官が多すぎる。それに……被告はひとりのはずだ)


 トオルは彼の母と共に被告人席にいた。

「私たちは義務を果たしてきました」

 母は毅然としていた。夜中に警官隊に踏み込まれ、割り当てられた私的区画を踏み荒らされ、何が何だかわからないまま公判へ引きずり出されてもだ。

「私と夫は、《都市》の建造に尽力しました。いま、《都市》がこうして、自動化オートメーションされた自己修復機能を保ち続けているのは、私たちの開発した自律装置によるものです」


「功績に報いるため、我々は君たちに市民の権利を与えた」

 市民は、上級市民と下級市民に分けられていた。上級市民は全体の2割にあたり、高度な教育とを与えられる。下級市民には、その市民のために割り当てられた区画がない。トオルたちのように、家族で同じ区画に暮らすことが認められていないのだ。

 トオルは恵まれた環境に感謝していた。下級市民に生まれていたら、それだけで多くのモノが得られない。家族との時間。図書記録へのアクセス。紅茶やお菓子といった嗜好品……それらは、《都市》においては、上級市民だけが得られる贅沢だった。


(下級市民は三ヶ月間同じ歯ブラシを使い続けるって、本当かな?)

 被告人として出廷しながらも、トオルはどこか他人事のように感じていた。

「トオル。君は一度、《公判》へ出廷した記録があるね?」

「たしかに、あります」

 急に水を向けられて、トオルはぎくりとしながらも背筋を伸ばして応えた。


「ですが、すでに贖罪義務を果たしています」

 軽いケンカだった……と、少なくともトオルは思っている。学校の上級生が、新型の自転車を盗む現場を目撃したのだ。「窃盗だ!」と叫び、殴りかかった。だがその自転車が止められていたのは公共カメラの死角であり、窃盗の証拠は撮影されていなかった。トオルは《公判》を受け、「暴力を振るった事実は揺るがない」として、二週間のゴミ出しを命じられた。

 都市生活の中で出たゴミは、まとめてゴミ処理区画に送られる。どういうわけか、《ダストシュート》と呼ばれる機械の中へゴミを投げ入れる作業は人力で行わなければならない。このゴミ出し作業は、軽微な罪に対する「贖罪義務」として割り当てられることが多い。トオルも二週間の間、一日四時間(休憩は二〇分)のゴミ出しに従事した。


(でも、誰も罪を犯していない時はどうやってゴミ出しをするんだろう?)

 トオルの疑問をよそに、《公判》は続く。


「よろしい。学業成績は優秀だ。肉体も健康。非の打ち所がない」

「では私たちはなぜ《公判》に呼ばれたのでしょう?」

 計画違反はしていないはずだ。公判官たちは一様に白い仮面をつけていた。表情のない仮面は、どこか親子をあざ笑っているように思えた。


「君の夫は十年前に亡くなっているね?」

 母は一瞬、顔をこわばらせた。しかし、事実を受け入れるように頷いた。

「そのとき、君は二十五歳だった。息子が学校へ通い出した時は二十七歳。の間は猶予を与えてきたが、今は三十五歳。もうとは言えない」

 トオルの母は、じっと公判官をにらみつけていた。顔のない誰か。我こそは市民代表だと言わんばかりの誰かを。


「なんの話をしているんですか?」

 公判官たちの間から、失笑が漏れた。

だよ。君の母は十年間、を怠ってきた」

 公判官は天井を指さして続けた。

「すべての市民には、《都市》の発展へ向けての努力が義務づけられている。その礎は人口だ。君の母は、上級市民としての特権を享受しながら、十年ものあいだ義務を果たそうとしなかった」


「母は父と結婚していたんですよ!」

 あまりの言い草に、思わず叫んで返す。我慢ならなかった。

「亡くなったものより、生きている都市に仕えるべきだ」

「子どもを作るかどうかは、本人が決めることでしょう?」

「皆、都市のために仕えている。小さな怠慢が全体を滅ぼす原因になるのだ」

「家族を守ることが怠慢と言えますか!」


「もういいわ、トオル」

 母親がトオルを制し、被告人席から立ち上がった。

「いずれこうなることは分かっていました。どうぞ、罰を与えなさい」


 公判官の誰かが舌打ちをした。

「家族の罪は共に償われなければならない。よって、被告人二名を《基礎ファウンデーション》へ追放する」

「《基礎》へ?」

 トオルの母は目を見開いて叫んだ。


「この子は未来ある市民です。追放するなら、どうか私だけを……」

 母がこんなにも必死で人に頼み事をするのを見たのは初めてだった。

「異議のあるものは?」

 だが、公判官はすでに母をみていなかった。公判官たちはお互いの顔を見合わせ、軽く肩をすくめただけだった。


「では、《都市》の名において判決する。二名を追放」

「なりません! どうか、この子は……」

 詰め寄ってくる公判官たちの前に立ちはだかって、母が叫ぶ。


「決まったことは覆らない」

 その声には、どこか嗜虐が含まれていた。まるで、ずっと手に入れられなかったオモチャを、これからバラバラにできると確信しているかのような。《都市》の代弁者である公判官の白い仮面に、残虐な笑みが浮かんでいるように思えた。


「トオル、逃げて!」

 母が腕をつかみ、走り出そうとした。

 急なことに、トオルは反応できない。


 パンッ!

 火薬が弾ける乾いた音。

 もしもトオルが母親と一緒に駆け出していたら、銃弾はトオルを貫いていただろう。


 彼女は悲鳴を上げなかった。

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