─────結・全ての終わり

第31話 黎明の朝

 ─────20××年、5月5日。

 雀のさえずりが窓の外から聞こえ始める穏やかな早朝。夢の中でウツギと交わしたやり取りを経て、拓海はガバっと勢い良く布団から身体を起こす。心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。拓海の背中や顔からは冷たい汗がダラダラと流れ落ちる。

拓海の見た夢は奇妙にも記憶がハッキリと焼き付いており、まるで実際にその場でウツギと自分が居合わせた上でやり取りを交わしたような感覚に陥っていた。拓海は自分の中に渦巻く感情がウツギに対する裏切られた気持ちと信じたい気持ちでぐちゃぐちゃになっていく。無造作に髪をぐしゃりと握り締めながら、声にならない呻き声を上げ、蹲り込んだ。

拓海は頭の中から混乱する感情を追い出そうと布団に顔を押し付けて深呼吸をする。微かにあの時嗅いだお香の匂いが、朧月の間に漂っていた。

拓海は自身が置かれている状況が、未だに見ている夢の続きなのか、それとも本当に現実に戻れたのか分からなくなっていく。ふと、拓海の隣で寝息を立てながら眠る妹のさくらの姿が目に入る。拓海はさくらが本当に生きているか確認するために、そっとさくらの身体に毛布越しに手を触れる。拓海の手に触れたさくらがもぞもぞと動く感触が拓海の手を通して伝わる。その時、拓海の胸には温かく幸せな感情が溢れた。

 拓海は現実だと再確認するため、周囲を見回し、自分の部屋であることを確認した。頭の中の混乱した感情が次第に鮮明になっていく。落ち着きを取り戻すと同時に、拓海の心にはウツギと自身に対する怒りがふつふつと込み上げてくる。拓海はポケットから紫色の根付がついた木彫りの狐を取り出した。それはかつてウツギから貰ったお守り代わりのものだった。拓海はその狐の根付を掌に広げて見つめる。脳裏には二日目の深夜に見た出来事が思い出されていく。ウツギに対する淡い期待と強い信頼を寄せていた自分に対し、『どうして、あの時彼の真意に気づけなかったんだ。』と自己嫌悪から小さく悪態をつく。

拓海の心の内を支配する強い怒りとやるせない気持ちが、彼の視界を大きく歪ませていく。激しい怒りに身体を震わせ、狐の根付を強く握り締めた拓海は怒りの衝動に任せ、勢い良く拳を振り上げる。

だが、拓海は狐の根付を叩きつけることはしなかった。怒りに任せて拳を振り上げた途端、拓海の頭の中にはウツギが自分と交わしてきた会話の数々を思い出していく。八つ当たりのように貰った根付を叩き付けるわけにも行かなくなった拓海は、ゆっくりと拳を降ろしていく。頭を垂れ、ぽたぽたと涙が零れていく。拓海は声を押し殺し、溢れ出す涙を何度も拭っていく。しかし、いくら拭っても涙は留まることを知らないのか、毛布の上に幾つもの雫が滴り落ちていく。

「もう、また寝る訳にも行かないし……顔でも洗おうかな。」と拓海はポツリと小さく呟き、布団の傍らに置いてある眼鏡を手に取る。


 拓海は眼鏡を掛け、隣でまだ眠っているさくらを起こさないように静かに布団から抜け出す。薄らと柔らかい朝の陽射しが差し込む朧月の間は、薄暗さを感じさせる雰囲気は残っていた。ただし、全く見えないわけでもないため、拓海は真っ直ぐに洗面所へと歩いていく。拓海は洗面所へと辿り着くと、パチリと電気をつける。洗面台へと向かっていき、鏡越しに映る自分の顔を見つめる。

「はあぁ…やっぱり寝起きで泣いたせいで、目が赤くなってるな。」と拓海は大きく溜め息をついた。

「それに、今日はこの朧谷温泉街の宿泊旅行最終日。帰る予定は昼過ぎ……のつもりだけど、せめてやり残した事は全部終わらせておかないとな。」

「鬼の祠のお参り、殺人犯の証拠集め……うん、殺人犯捕まるといいな。」と拓海はこれからの予定を声に出して確認していく。拓海は蛇口を捻り、冷たい水を流していく。顔を洗う準備を始め、眼鏡を外していく「思ったよりも早く起きてしまったし、これからどうやって過ごそうかな…」と拓海は蛇口から流れる水に触れながら、これからの予定について考えていく。

パシャパシャと水飛沫を上げ、拓海は顔を洗っていく。水浸しになった顔を上げると、気分もスッキリとしたような気分になる。ぼんやりとした視界の中、拓海は手探りでタオルを掴んで顔を拭いていく。

「ふぅ、スッキリした……やっぱり早起きは三文の徳って言うよな。つまりこれはそういう爽快感を意味してたのか。」と口角を上げ、楽しげに笑う。しかし、そんな独り言を呟いた拓海の表情は次第に曇り始める。

 拓海は朝から殆ど空元気のように振舞っていた。

だけどそれは、自分自身を元気づけるために始めたものだった。それでも、度重なる不可解な出来事や理不尽な出来事を思い出す。

「……はは、何言ってんだろうな俺。本当なら、楽しいただの旅行だったはずなのに。」

「いや、起きてしまったのは仕方ないよな。もう4日も経ってるんだし……もうこんなことも終わるさ。」

「うん、もう終わる筈さ……」と拓海はまるで自分に言い聞かせるように呟き、その場に座り込む。

拓海はしばらく沈黙し、座り込んだまま項垂れる。

「もう疲れたよ、何もかも投げ出して帰りたい……」と拓海は弱音を吐き出した。人の前では、気丈に振舞ってきた拓海も、精神的な限界が訪れていた。

「もう嫌だよ…何を信じたらいいか分からないし、帰りたいのにこんな事を続けなきゃいけない。」

「約束だってしたし、こんな事で投げ出せない。」

「俺はただ、妹と一緒に旅行したかっただけなんだよ。どうして何もかも、こんな酷い目に遭わなきゃならないんだ。」と拓海はせきを切ったようにネガティブな言葉が沢山吐き出されていく。

静寂に満たされた洗面所の中で、拓海は膝を抱える。『いっそこのまま、時間が過ぎてしまえばいいのに。』と心の中で呟き、拓海は顔を埋めて塞ぎ込む。

そんな時、拓海が座り込む洗面所の扉が少しだけ開かれる。拓海が顔を上げると、視線の先には起き抜けのさくらが拓海を覗き込んでいた。

拓海はさくらに心配させまいと、笑顔を作って見せる。

「いや、何でもないよ。ちょっと疲れてネガティブになっちゃっただけだから気にしないでくれ。」

「それに、今日は旅行最終日だ。やり残した事がないように、帰るまでの時間はめいっぱい遊ぶか。」と拓海は取り繕うように元気な様子を見せ、伸びをする。


 しかしさくらは、先程まで拓海が落ち込んでいた様子を見ていたのか、「無理しないでね」と声を掛ける。

「うん、これ以上無理しないよ。ちゃんと何もかも終わらせて、心残りのない内に帰ろうか。」と拓海は決意を改め、さくらへ言葉を返す。さくらは兄の様子を確認し、そっと扉を閉めてその場から離れていく。

「これ以上心配掛けていられないな、弱い事言って居られないし…今日は最後だから頑張ろう。」と拓海は眉を顰め、鏡に映る自分に向けて笑ってみせる。

「お兄ちゃん、いつまでそこに居るの。」と扉越しにさくらの声が聞こえ、拓海は慌てて洗面所のスイッチに手を掛ける。不意に拓海の視界には、笑顔で手を振る自分の姿が映っているように見えた。パチリ、と軽い音を立てて洗面所の電気が消される。拓海は急いで洗面所のドアノブに手をかけ、回して朧月の間へと足早に戻っていった。


 拓海が部屋に戻ると、キャリーバッグに荷物を押し込むさくらの姿があった。拓海は襖の縁に寄り掛かり、奮闘する妹を見つめて苦笑する。

「帰るにはまだ早いのに、もう準備してんのか?」

「だって昼過ぎには帰るんでしょ?それまでに準備しとかないと間に合わないよ。」とさくらは、パンパンに膨れ上がったキャリーバッグの上に乗って押し込もうと体重を掛けていた。拓海はそんなさくらの奮闘劇を苦笑しながら見つめていく。ユサユサと上下に身体を揺らしながら、さくらは拓海を睨みつける。

「お兄ちゃんも見てないで手伝ってよ!!」

「残念だがお兄ちゃんは、自分で片付けることがあるので手伝いませ〜ん。」と拓海は、さくらを揶揄いながら自分のキャリーバッグに手を掛けていく。

 拓海はキャリーバッグに手を掛けたまま、突然黙り込む。さくらは兄の急な行動に驚き、キャリーバッグの上に身体を乗せたまま拓海を見つめる。

「急にどうしたのお兄ちゃん、黙り込んだままで……」

「いや、今日で最後なんだなぁと改めて思ったんだ。」

「確かにあっという間だよね、思った以上に大分ハプニングばっかりな三泊四日だったね。」とさくらは屈託ない笑顔を見せる。拓海はそんなさくらの笑顔を見て、思わずつられて笑い出す。

「はは、確かにハプニングまみれで本当に大変だったな。俺もう色々大変だった気がするよ。」

「もう家に帰ったら、クタクタになってそうだねお兄ちゃん。」

「またあの山道走らないといけないのはキツイけどなぁ……まぁ、ここで走り回ってたよりはずっといいのか。」と拓海は遠くを見ながら、キャリーバッグを壁に立て直す。さくらもようやく詰め終わったのか、拓海のキャリーバッグの隣に立て掛ける。

「そういえば、今何時くらいかな?」

「ちょっと待って、今確認する。」と拓海は答え、腕時計の時刻を確認する。時刻は既に8時近くを指していた。

「そろそろ朝食の時間になりそうだな、未来さんや香織さんも朝食会場に行ってるだろうしな。」と拓海はさくらに向き直る。さくらも「そうだね」と答え、拓海とさくらの二人は部屋の中を見回す。帰る準備を済ませ、朧月の間はすっかり片付いていた。これから家へ帰ることを実感する二人は、名残惜しさを感じ、思い思いの言葉を交わしていく。

「そろそろ行こう。」と拓海はさくらに声を掛け、朧月の間の鍵を手にする。さくらも拓海に応じ、頷いた。

二人は朝食会場へ向かうべく、朧月の間を後にする。

部屋の鍵を掛け、拓海とさくらは朝日の光が漏れる廊下の中を歩いていく。それはまるで、自分達がこの三泊四日の旅路を踏みしめる様に一歩一歩進んでいく。

拓海とさくらの二人が、一階の朝食会場に辿り着くと、兄妹に気づいた未来と香織が二人に向かって大きく手を振った。さくらは未来と香織の二人に大きく手を振り返すが、拓海は気恥ずかしそうにはにかみながら小さく手を振り返した。


 朝、月華荘1階のレストランには、拓海、さくら、香織、未来の4人が集まっていた。レストラン内で流れる音楽は穏やかで優雅で、早朝の雰囲気を一層引き立てていた。拓海は挨拶を交わし、突然質問を投げかけた。

「今日は、俺たちと同じ旅行の最終日だったよね。折角なら、『鬼の祠』へお参りしようと思うんだけど、どうかな?」

朝の光が優しくレストランに差し込み、テーブルに散らばった新鮮な花々がその光を受けて輝いていた。

香織が微笑みながら答えた。

「そうだね、一応チェックアウト時間もあるし。それであれば、朝食を食べながら予定について話し合おっか。」拓海はさくらに意見を求めた。

彼女は周囲のテーブルに座る人々の笑顔と穏やかな雰囲気に包まれながら、拓海の問いに笑顔で答えた。「うん、大丈夫だよ。皆と一緒にご飯食べるのも楽しいし!」未来もさくらの言葉に賛成の意を示す。未来はテーブルの上に並んだ朝食の料理に目をやりつつ、

「私はそれでも構いません。最終日だけでも平和な一日を過ごせるなら、それに越したことはありませんね。」と語った。香織はテーブルの上のティーカップを手に取り、軽く目を細め、名残惜しそうに呟いた。

「そうですねぇ、私も賛成しようかな。拓海達と会えるのも、これっきりかもしれないからねぇ。」

拓海達は美しいレストランの雰囲気を楽しみつつ、しばらくの間、朝食を共にしながら歓談を楽しんでいた。

 朝のゆったりとした時間を楽しむ拓海たちだったが、拓海は早朝の夢の影響か、どこか沈んだ気分を抱えていた。夢の中のウツギとのやり取りに対してモヤモヤとした感情が、彼の心に広がっていた。

『やっぱり、あの時のウツギさんは…』と、拓海は半ば夢の中にいるように、ぼんやりと考えながらコーヒーを飲んでいた。

さくら、未来、香織の三人は、拓海の様子には気にせず、和気藹々とした雰囲気の中で会話を楽しんでいた。

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