第30話 彼岸の夢

 眠りについた拓海の意識は、まるで泥濘のようにゆっくりと重く沈んでいく。真っ暗な意識の中で、拓海の意識は微かな風を感じて目を開ける。

拓海の目に映る景色は、赤々と咲き乱れる彼岸花の丘と、薄紫色の帳が広がる薄暮の空が広がっていた。

拓海は茫然と彼岸花の咲く丘の上に立ち尽くす中、夕陽の眩い光が差し込む山々を眺めていく。彼岸花の咲く丘より下に広がる街の景色と、靡く風の匂いに混ざる硫黄の匂いが拓海の鼻を掠める。

「この景色、この匂い……覚えがある。確か、ここって朧谷温泉街」と拓海が言い切る前に背後に人の気配を感じて言葉を切る。懐かしい感覚を覚えたその存在を確かめる為に、拓海はゆっくりと背後を振り返る。

赤い夕陽の陽射しに照らされ、赤みを帯びた濡羽色の着物と、赤く煌めく帯紐、そして真っ赤な三つの目が描かれた黒い狐の面が優しく微笑んでいた。サラサラと長く銀色に揺らめく髪が、風に靡いていく。

「こんばんは拓海さん。また、お会い出来ましたね。」

白い手袋を付けた手を広げ、狐面の男───ウツギが嬉しそうな声を上げて拓海の元へと近づいていく。

拓海の目からはポロポロと大粒な涙を零しながら、ウツギの元へとフラフラと歩み寄る。

「ウツギさんっ!本当に、ウツギさんなんですよね!」

と拓海はウツギを抱き締め、「良かった、良かったよぉ」と涙声でウツギの存在を確かめていく。

 泣きじゃくる拓海を、優しい手つきでぽんぽんと背中を叩きながら慰めていく。拓海が抱き締めるウツギの身体はとても暖かく、涙を流していた拓海は次第に落ち着きを取り戻していった。

「す、すみません……こんな歳になって、子供みたいに泣いてしまって。なんかもう色々と恥ずかしくなってきた。」と拓海は顔を真っ赤にしながらウツギから離れる。そんな拓海を見たウツギは、心做しかどこか優しい笑みを浮かべている様に見えた。

「拓海さん、今日貴方の活躍ぶりは陰ながらに見守らせていただきました。」とウツギはポンっと軽く柏手を打ち、拓海のもとへと一歩ずつ歩み寄っていく。するりと白い手が拓海の頭へと伸びていき、まるで子供を褒める様な優しい手つきで拓海の頭を撫でていく。

「ここまでよく頑張りました。貴方の行動のお陰で、ようやく全てが終わります。お疲れ様でした。」とウツギは優しく労う。

「えぇ、そうですね。あと少しでこの恐ろしい悪夢の様な出来事も終わりますよ。」

拓海は彼岸花の丘を眺め、この過ごしてきた三日間を懐かしむように目を細める。ウツギも拓海に倣うように、拓海と同様に彼岸花の丘へ顔を向ける。

夕陽の赤い陽射しに染まる、赤みを帯びた黒い狐面の横顔が、神々しさを醸し出しているように映し出されていく。拓海とウツギの二人は、この場所が夢の中の世界である事を忘れるかのように、山間の中で尚輝く夕陽の光に目を奪われていた。


 不意に、拓海の視界の端でが入り込んでいく。

拓海は疑問を抱き、ウツギの横顔をじっと見つめる。茜色に染まる艶やかな白銀色の髪の隙間に、奇妙な形をした耳飾りがついていた。

『何だろうこれ、S字みたいな形しているけど、良く見えないな。』と拓海は怖いもの見たさのような好奇心に駆られ、ウツギの耳元へとそっと手を伸ばしていく。その瞬間、パシッと拓海の手が弾かれる。

その刹那に拓海が見たのは、ウツギの敵意に満ちた鋭く睨むような赤い瞳が向けられたような気がした。

ぞわりと背中の肌が粟立つのを感じ、拓海は手を引っ込め、俯きがちに押し黙る。そんな拓海の様子に気がついたウツギは、慌ててしまい、先程の異様な雰囲気から取り繕うように拓海の両手を握る。

「す、すみません。あまり耳は人に触られたくなくって、驚かせてしまいましたね。」といつもの様な優しい声色で拓海の手を優しく撫でる。この一瞬の出来事に強い不信感を抱いた拓海は、ウツギの手をそっと静かに払い除ける。

 この時の拓海の脳裏には、夕方鬼神の間を訪れた時の出来事を思い出していた。『この事も、直接聞かないといけないな。』と思った拓海は、ウツギに問い掛ける。

「そういえば、少し聞きたいことがあったんですが宜しいですか?」

「えぇ、私に答えられる範囲であれば何なりと。」とウツギは軽くてをヒラヒラさせながら質問に答えるような素振りを見せる。

「今日の夕方頃、ウツギさんが泊まっていた『鬼神の間』という部屋に訪れてみたんです。」と拓海が呟いた途端に、サアァッと大きく風が靡いていく。

冷たく、鋭い程に張り詰めた静寂と緊張が二人の間に広がっていく。ウツギは何かを誤魔化すように両手を擦り合わせ、ユラユラと頭を傾げていく。

「おやおや、私が宿泊していた部屋まで来ていらしていましたか。ですが、拓海さんはご存知のはずでしょう?私が出ていった後はただの何も無い部屋ですよ。」

「ウツギさん、あの場所…「倉庫」だったんですよ。実際に規模は物置程度でしょうが。」

拓海の一言に、先程まで戯けていたような態度を止めるウツギ。二人の間に、再び静寂が包み込む。

「………なぁウツギさん、教えてくれ。貴方は一体何者なんですか?」と拓海は、眼前にいる狐面の男、ウツギに彼の正体を問い詰める。


 ウツギは沈黙を貫いたまま、赤い三ツ目の狐面が真っ直ぐに拓海の顔を見つめるばかりだった。拓海は震える身体を鼓舞し、口を真一文字に引き絞り、拳を握り締める。ウツギの返答が来るまでの間、逃げ出したい気持ちを押さえつけながら睨みつけるように見据える。

「そうですね、確かに変に誤魔化しても怪しまれるのは当然です。ですが、拓海さん…貴方はこの三日間よく私を信用して下さいましたね。」

「なら貴方は!!」

「でも残念です、

拓海がさらに問い詰めようとするが、ウツギはピシャリと言葉を遮る。拓海が頭に疑問符を浮かべるが、その瞬間に拓海の視界は大きくぐにゃりと歪んでいき、立つことすらもままならなくなっていく。

目眩のようにぐらぐらと揺らめいていき、拓海は頭を押さえながら蹲る。

「もう、夜明けですよ拓海さん。此処は貴方の夢の中、真相などこの場所では到底知り得ることは出来ませんよ。」とウツギの冷たく放たれる言葉が聞こえていく。拓海の歪んでいく視界は、まるで蜃気楼のように実体を伴わなくなっていく。

「まだ、まだ俺は貴方に色々と聞かなければならないんです。」と拓海は喉から引き絞る様な声で弱々しく呟く。だが、既に覚醒へと向かう意識は限界を迎えており、拓海の意識は徐々に白んでいく。

 夢の中にいるウツギの姿ですらも、分からなくなりかけた途端に、妙に甘ったるいような独特な香りが立ち込めていく。その匂いを嗅いだ拓海の脳裏に過ぎったのはだと言うことに気がつき、ハッとした様子でウツギを見やる。ウツギは赤い紐をしゅるしゅると解いていき、拓海へその狐面の下にある顔を晒していく。

拓海はウツギの顔を見て、思わず息を呑む。

「それでは拓海さん、さようなら。───良い夢を。」

拓海が夢から目覚めるその瞬間、『』である筈のウツギの声が朧月の間で眠っている自分の耳に入ってきた様な気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る