第29話 郷愁の月
拓海は一人、着替えを手に月華荘の廊下を歩いていく。夜は静寂に包まれ、拓海は足を止めて窓の外を見つめる。窓から広がる景色は
「本当、いつ見てもこの景色は綺麗だな。」と拓海はたった一人しかいない廊下の中で、感嘆の息を漏らす。藍色の空に散りばめられた煌めく星々は、きらきらと輝いていた。
「そういえば、あの人もこんな空を眺めているんだろうな。一人で山の中で過ごすのは寂しくないのかな。」と拓海は頭の中で思い浮かべたのは、この朧谷温泉街へ訪れた時に幾度となく出会った『黒面の鬼』と呼ばれた男の顔だった。
「こんなことを考えている場合じゃないな、さっさと風呂に入るか。」と拓海は自身の目的を再確認し、温泉へ入るために再び足を進めていく。
やがて、拓海は温泉の脱衣場に辿り着いた。やはり人の気配はどこにも感じられず、拓海は心のどこかでほんの少しだけ寂しさを感じていた。
「まぁ、個室のお風呂もあるし、そりゃあそうか。」と拓海はつぶやく。また、松本さんも森川さんも時間帯が全然違うのかな、と今日会った二人について想像を膨らませる。小さなコインロッカーに着替えを詰め込み、眼鏡も一緒に仕舞い込む。
『明日はこの朧谷温泉街の三泊四日旅行の最終日だ。昼過ぎに帰るまでに思いっきり風呂にでも浸かろうかな』と拓海は一人で予定を再確認しながら、ペタペタと裸足で風呂場へと歩いていく。
一歩風呂場へと足を踏み入れると、温泉特有の微かな硫黄の匂いが拓海の鼻腔をくすぐる。立ち込める湯煙が風呂場の中で大きく揺らめき、まるでその空間そのものが蜃気楼のような雰囲気を醸し出していた。
「本当、凄いよな、ここ……やっぱり知る人ぞ知る名湯ってのは改めて実感できるな。」と拓海は感動しながら、かけ湯をしながら身体を洗う。外から見える幻想的な月がゆらゆらと揺らめき、その月明かりは静かに拓海がいる風呂場まで差し込んでいく。
掛け流しの温泉の流れる音と、拓海の頭を洗う音が交差する風呂場の中に、ヒタヒタと人が歩く音が響く。拓海は頭を洗う手を止め、足音を聞くために耳を澄ます。ヒタヒタと歩く足音は、一度だけ止まると向きを変えたのか拓海の方へと近づいていく。
『こんな時間に、一体誰なんだろうか。』と拓海は心の中で小さく呟きつつ、泡立った頭を洗い流すためにシャワーへと手を伸ばす。サーッと心地よい音を立てながらシャワーのお湯が流れていき、拓海は頭を流していく。その時、拓海の近くで聞こえた足音の主が拓海に向けて何かを呟いていたような気がした。
半ば流し、音を聞こうと顔を上げる。だが相手は言葉を止めたのか、拓海の耳に入るのは温泉の流れる音だけだった。拓海は濡れた顔を拭いて、人の気配がする方へと顔を向ける。拓海が向けた顔の先には、同じように身体を洗う森川の姿があった。拓海は驚いたように目を見開き、しばらくの間固まったように森川の姿を凝視し続けていた。
そんな拓海の視線に気づいたのか、森川は怪訝そうな表情で拓海を見つめ返す。拓海の目には、ぼんやりとした輪郭で森川の顔を見ていたが、拓海が目を凝らしながら見るとその輪郭がハッキリとし始めていた。じっと見つめられたことに、森川は落ち着きなさそうにそわそわと身体を左右に動かす。
しかめ面でじっと見つめる拓海に対し、森川はどうしたものかと悩みつつ、そっと声を掛ける。
「さっきからずっと睨むように見てるけど、一体どうしたんだい?拓海君。」と森川が話しかけると、拓海は「あ、森川さんですか。」と一言だけ返す。
「すみません、眼鏡外してるせいで顔がよく見えないんです。」と拓海は困ったように眉をしかめながら笑う。拓海の言葉に合点がいったのか、森川は「あぁ」と呟きながらうんうんと頷いた。
「そう言えばそうだったね。すっかり忘れていたよ。」
「こちらこそ、ちょっと状況が悪かったですよね…すみません。」と拓海は森川へ謝りつつ、再び顔を湯気で曇る鏡の方へと向ける。それに対し森川は拓海へと視線を向けたまま、重い口を開く。
「そういえば、早朝に来ていた県警の刑事が君に『疑ってすまなかった』と伝言を残してたよ。」と森川はポツリと拓海へ向けて呟く。拓海は森川の言葉に驚いて滴を跳ね飛ばしながら森川へと勢い良く顔を向ける。
「ち、ちょっと待って下さい。あの早朝の現場に駆けつけた刑事さんですよね。どうしてそんなことを?」
「まぁ少し話があって、これは捜査に関わる訳ではないが実は第一発見者である拓海君が犯人じゃないかと疑われていてね。向こうが調査する限り、君の潔白はしっかり表明されたから…その時の謝罪を伝え忘れてたんだ。」と森川は小さく溜息を吐きながら答えた。拓海は返す言葉もなく、困ったように視線を動かして黙り込む。森川は拓海へと掛ける言葉もなく、口を閉ざすばかりだった。
森川と拓海の間に広がる気まずい空気が漂う中、互いに言葉を交わすこともなく、二人は温泉に浸かる。
温泉の水面に微かに揺蕩う月は、波紋を漂わせながらゆらゆらと揺らめいていく。拓海は、森川に顔色を伺うように視線を投げかけるが、森川は真っ直ぐに正面を向いているようだった。言葉すらもまともに出せず、大きな溜息が口から漏れる拓海。
薄明るい風呂場の中、月明かりを背にしながら拓海はもう一度森川へ視線を投げかける。
「森川さん、どうして俺がこんな事件について走り回ってるかについて……話したことありましたっけ?」と拓海は恐る恐る森川へと問い掛ける。
森川の鋭い視線が、拓海に向けて一瞥をくれる。
「いや、知らないかもしれないな………伝えるつもりがあるなら、君の口から教えてくれないか。」と森川は素っ気なく言葉を返す。
拓海は言葉を発する前に、一度窓から差し込む月を見上げる。夜空を照らす月の光は、漂う夜雲に見え隠れしながら静かに佇んでいた。拓海は意を決して、森川に自身がこの3日間の行いの動機について打ち明ける。
「実はですね、今から3年前位に俺の友達を亡くしたんですよ。───いや、実質あいつは人として死んだも同然かな。」と拓海はぽつりと小さく呟く。
森川はハッとした様子で、勢い良く波を立てながら拓海へと向き直る。拓海は曖昧そうな笑みを浮かべ、何かを言おうと口をパクパクさせる森川へ言葉を続ける。
「俺にはあの時10年近く一緒にいた幼馴染が居たんですよ。何だかんだ、一緒に歩んで成長して行った友人が、誤った道を進んだ時にそれを止められなかったんですよ。」と拓海は昔を懐かしむように、ゆっくり語りながらゆらゆらと温泉の水面を揺らしていく。
「それは」と森川が言葉を続けようとするが、森川にとって自身が言おうとした言葉は、拓海にとって残酷である事が脳裏に過ぎり口を閉ざす。
拓海はそんな森川の様子を察し、真っ直ぐに森川の顔を見つめ、彼に向かって一言だけ呟く。
「そういう事なんですよ、俺のしている事は。」と拓海は森川に伝えると、拓海は森川へ会釈をして温泉を後にする。風呂場に一人残された森川は、拓海へ言葉を返す事が出来ずその場に佇むだけしか出来なかった。
温泉から上がった拓海は、ぺたぺたと足音を立てながら風呂場から出ていく。拓海は風呂場から出ていく際、森川が居る温泉の方へと振り向いたが、言葉を掛けないまま踵を返して脱衣所へと足を踏み出した。
脱衣所へと戻った拓海は、タオルで自分の身体を拭きながら項垂れる。
「森川さん、あの事知ってた様子だけど……まぁ、3年前の事を引き摺っている俺も悪いのかな。」と拓海は独り言を呟きながら、早々に着替えてコインロッカーを閉じる。着替えを手に、拓海は足早に朧月の間へと歩みを進めていく。頭から湯気を立ち昇らせながら、夜の廊下を歩いていく中、拓海は徐に立ち止まる。
「そう言えば、今日は殺人事件が起きたばかりだったな。流石に二日連続で起きるなんてことは無いか。」と拓海の心の中にある不安を口に出していく。ズボンのポケットの中にある狐の根付の鈴がチリンと鳴る。
拓海はポケットの中に手を入れ、ウツギに貰った木彫りの根付を掌の中に収める。
「そうだよね、今そんな事を考えてもどうしようもない。それに、こんな事は明日に終わらせるんだ。黒面の鬼……彼を解放しないといけないだろうからね。」と拓海は決意を改め、朧月の間へと進んでいった。
失意に沈んだような顔で、朧月の間の扉を開く拓海。妹のさくらは先に就寝をしているのか、彼女は既に布団の中に潜り込んでいるようだった。
拓海は妹を起こさないよう、物音を潜めながら手に持った着替え類などを仕舞っていく。ぎゅうぎゅうに無造作に詰め込んだ着替えのせいでキャリーバッグはすっかりパンパンに膨れ上がっていた。
「今は片付ける気がしないな、明日あたり余裕があればしておこうかな。」と拓海は後回しする事を考え、膨れたキャリーバッグを軽くポンポンと叩く。
電気を消す前に、拓海は最後に外の景色でも眺めようと考え出し、窓の障子に手を掛けて障子を開く。そして窓の鍵を外して夜風を思い切り身体に受けていく。
「やっぱり風呂上がりには、こんな冷たい風も悪くないかもしれないな。」と拓海は小声で呟き、目の前に広がる美しい夜景を目に焼き付けていく。
拓海の眼下に映し出される朧谷温泉街の景色は、まるでジオラマなどで作成されたかのように色鮮やかな街の光や街灯、そしてその光に連なる様に広がる極彩色の数々が夜空の藍色に溶け込むように映し出されている。街中を囲む様に聳え立つ山々は、その黒い影を落としながらも静かに街を見守る様に佇んでいた。
窓縁に手を掛け、じっくりと街の景色を見渡す拓海。だがこの時彼は、ある違和感を感じて視線を止める。この時の拓海は、『何か違う気がするけど、一体何が違うのだろう。』と疑問を抱きながら左右を見渡しながらその違和感の出処を探していく。
しばらくの間、キョロキョロと動かしていた頭を止めると…拓海は窓縁から身体を離して部屋を一瞥する。再び窓の外へと顔を向けると、拓海は窓を閉じる。
「この違和感、いや…これが『本来の姿』かもしれないのか。」と拓海は小さく呟き、窓の鍵を掛けて障子を閉めた。拓海の感じた違和感は、この二日間見てきたはずの『黒面の鬼がこの街に出ていない。』という事実を示唆していた。拓海は「これで良かったのかな…」と心の中で呟きつつ、拓海自身も眠りにつくために布団へと潜り込む。
拓海の身体を包み込む、柔らかく暖かな布団の温もりが、拓海の睡魔をゆっくりと誘っていく。
うとうとと微睡んでいく中、拓海の意識は夢の中へと落ちていくのを感じていた。
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