第28話 朧月の夜
森川が朧月の間を出て行った後、拓海は不安そうにさくらを見つめる。そして、事件についての詳細を語り始める。拓海の話は、事件の経緯や犯人の真相に関するものではなく、むしろ森川と自分のこれからの行動計画や予定についてだった。
拓海はさくらにすべてを打ち明ける。最初は驚きの表情を浮かべながらも、さくらは拓海の真剣な表情を見て、彼を信じざるを得なかった。拓海が話し終えると、さくらは大きなため息をつき、座椅子の背もたれに寄りかかる。
「お兄ちゃん、本当にこれからすることは…もしかしたら、お兄ちゃんが危険にさらされる可能性もあるんでしょう?」とさくらは軽く視線を投げかける。拓海は困ったように眉をひそめ、頬を掻きながら目を逸らす。さくらは再び大きなため息をつき、兄である拓海に身体を近づけて、拓海の額に強めのデコピンをした。拓海は妹からのデコピンに驚き、情けないような声を上げながら体勢を崩し、座椅子ごとひっくり返る。
「もう、お兄ちゃんったら昔から変わってないよね。」
「いてて…何だよ急に。今回は本当にお前を巻き込みたくないから言ったんだよ。」と拓海は反論するが、さくらは目に涙を浮かべながら拓海を睨みつけていた。拓海はぎょっとした顔でさくらを見返す。
「な、なんで泣いてんだ。」と拓海は虚をつかれたようにさくらに顔を近づけ、優しく頭を撫でる。さくらはむくれたように頬を膨らませ、いじけた様に顔を逸らす。
「お兄ちゃんはいつも、そんなことを言いながら勝手に危ないことばっかりしてるじゃん。もう少し、自分の命も大事にしてよ。そんなことしてばかりじゃいつか死んじゃうんだよ?それくらい考えておいてよ。」とさくらは心の奥に押し殺していた感情を爆発させていた。拓海はさくらに対して言葉を発そうとするが、余計なことと感じて口を閉ざす。
拓海は困ったように視線を泳がせながら、ポツリと「ごめんよ」と呟くばかりだった。拓海とさくらの間には、重苦しいほどの気まずい雰囲気が朧月の間を包み込んでいく。どうしたものかと、拓海は頭の中でぐるぐると考え込む。不意に拓海は指切りを思い出し、さくらに声を掛ける。
「なぁさくら、もう危ないことはこれっきりにすると約束するよ。指切りげんまんしよっか。」と半ば誤魔化すかのように右手の小指を差し出す。
さくらは疑う様に睨みつける。そしてさくらは拓海の顔と差し出された小指を交互に見比べ、渋々さくらは小指を絡める。
「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!」」と拓海とさくらの二人は声を合わせ、指を放す。さくらはいじけていた顔から一変させ、満足気な笑顔を拓海に向けてみせる。
「本当に約束だからね。破ったら許さないから」とさくらは拓海に釘を刺すように伝える。拓海は「分かった、分かった」とさくらを宥めながら、愛おしそうに眺めていた。拓海はさくらとの約束を交わした後、徐に時計を見上げた。時計の針は15時を指しており、夕食の時間までにまだ余裕があるようだ。
「なぁさくら、夕飯まで時間があるが…何かしたいことはあるか?」と拓海はさくらに問いかける。
さくらは不意に兄の質問に軽く驚き、視線を時計に向けてうーんと軽く唸る。
「どうしようかな、色々と時間があるし…そういうお兄ちゃんは何するつもり?」
「あぁー…一応俺は先に少し小説でも書こうかなって。今回の旅行を元に色々と良いアイデアがあるしな。」
「あぁそっか、じゃあ尚更どうしようかな……ちょっと先に温泉でも入ってくるよ。」とさくらは自分がこれからすることを兄に伝える。拓海は再び時計を確認すると、「あまり長湯しすぎるなよ」とさくらに伝えた。さくらは「分かってるよ」と言いながら、いそいそと温泉へ入る準備を進めていく。拓海はそんなさくらの背中を一瞥し、自分も小説を書こうと持ってきたノートパソコンを取り出し始める。
拓海が一人残る朧月の間の部屋の中、柔らかな光が窓の障子からゆらゆらと揺らめく。その中で真剣な表情を浮かべ、ノートパソコンに向かってキーボードをタイピングしていく。ノートパソコンの傍らの手帳には、今まで集めてきた情報や書いてきたプロットがびっしりと書き綴られている。拓海は時折視線を手帳に落としつつ、カタカタとタイピングを続けていく。
拓海は時間を忘れるほど、新作の小説の作成に夢中になっていった。
「ふぅ…ちょっと休憩しようかな。」と拓海はノートパソコンを閉じ、掛けている眼鏡を外して眉間を揉みほぐす。もう一度眼鏡を掛け直し、時計を見ると時計の針は17時を指していた。妹のさくらはまだ部屋に戻っておらず、『さくらはきっとどこかで涼んでるかもしれないな』と拓海は思いながら座椅子の背もたれに寄りかかり、大きく伸びをする。
「まぁ、ちょっとだけ外の空気を吸うついでに食事でも探してみるかな。」と拓海はもう一度時計を確認し、ノートパソコンをキャリーバッグに仕舞う。
「7時までには戻らないとな。」と一人呟き、ゆっくりと立ち上がる。拓海は一度、部屋の鍵を持っていくかと考えたが、妹が部屋へと戻ることを考慮した上ではやめておこうと思い留まる。
朧月の間の襖に手をかけ、朧月の間を後にするためにゆっくりと足を踏み出して歩き出していく。
拓海はこの半日で溜まった疲れを引き摺るように、フラフラとした足取りで朧月の間の廊下を歩いていく。不意に拓海は「鬼神の間」の存在を思い出し、踵を返して記憶を辿るように鬼神の間へと足を進める。
拓海はこの3日間、真夜中の時間だけ彼の部屋を訪れたことがあったのだ。日が昇るこの時間帯では、一度も踏み込んだことがないと思いながら歩いていく。
「確か、ここら辺だったような…」と拓海は記憶の糸を辿るように鬼神の間へと向かっていく。
拓海が記憶の中にある鬼神の間へと辿り着くと、彼ははっと息を呑む。
「え、あれ……?ここ、確か部屋だったよな。」と拓海は目の前の現実を疑うようにその場に立ち尽くす。
拓海の目の前に広がるのは、「倉庫」と書かれた木札が掛けられた部屋の扉が存在するだけだった。
動揺を隠せないようで、拓海は強めに取手に手をかけ、扉を引こうとするが鍵が掛かっているのか開く様子は無かった。拓海は狐につままれたような感覚に陥り、『あの夜に見た部屋は一体何だったんだ?』と言った疑問だけがぐるぐると頭の中を目まぐるしく駆け巡る。拓海の腹の奥からは得体の知れない吐き気が込み上げ、咄嗟に手で口を抑えて座り込む。
吐き気が今すぐにでも口から溢れそうになるが、拓海は必死に吐き気を飲み込もうと力む。
暫くの間、拓海はたった一人で吐き気との戦いを繰り返していた。蹲る拓海の背中に覆い隠す様に大きな影が近づき、優しく温かな手で拓海の背中をさする。
拓海は
「また何か怖いものでも見たんですか?具合が悪いようでしたら…一度部屋まで送りますか?」と松本は拓海を気遣うように言葉を掛けつつ、拓海の返答を待つ。拓海はこんな場所まで来てくれた松本の存在に安堵した。次第に自分の中で込み上げてきた吐き気はおさまりを見せてきた。
「すみません、だいぶ落ち着きました…ありがとうございます。」と拓海は青ざめた顔のまま松本へ笑いかける。松本はそれでも拓海が心配なのか、それでもと食い下がる様子を見せていた。
「でも、拓海さんまだ顔が青いですよ。今日はずっと外に出てたでしょうし……やっぱり休みましょうよ。」
「本当に大丈夫です。ただちょっと、信じていた現実との乖離が起きててショックを受けただけなんです。あまり大事にしたくないので……お願いします。」と拓海は松本の手首を掴み、首を横に振って抵抗する。
拓海の必死な抵抗に対し、松本はこれ以上食い下がることも出来ず、困惑しつつも黙って拓海の顔を見つめていた。
拓海は松本の手首を掴んだまま、ゆっくりと深呼吸をする。
「それに、丁度松本さんに会いに行く予定もありましたから…ここに来てくれただけでも有難いです。」
「そうなんですか?もし良かったら、その用事について教えてくれませんか?」と松本が尋ねると、拓海は立ち上がり、周囲に自分と松本以外の人間が居ないか左右を確認する。拓海と松本の居る倉庫前には、人の気配が存在せず、二人だけしかいない事が分かる。
拓海は、松本に明日やる事について説明をした。
松本は拓海の話す内容には驚いたが、拓海の覚悟を含んだような声に、松本も協力する旨を伝える。
「とはいえ、拓海さんもあまり無理をしないでください。相手は何人も人を殺した殺人鬼…なんでしょう?拓海さんにも妹さんが居るんですから、命を落とすような無茶はしないでくださいね。」
「あぁ、それは約束しますよ。俺も妹ともう二度とこんな事はしない約束は交わしてますから…とはいえ、これを最後にするとしても、やはりこの事件ですらも終わりにしたいんです。」と拓海は松本へ真剣な眼差しで見つめた。松本は大きく溜息を吐くが、拓海がそう簡単に引き下がるようでは無いことを実感した。
「分かりました。でも状況次第では僕も、拓海さんを止める可能性もあるのは忘れないでください。」と松本は静かに声を落とし、強めに拓海の肩を掴んだ。
拓海は心の底では、自分自身も殺人鬼に立ち向かう事すらも怖いのは百も承知だった。
「俺はそれでも、この事件を終わらせる覚悟を持って挑もうと思ってしているだけなんです。」と拓海はしっかりと自分の心の中で抱いた覚悟を、松本へと改めて伝える。松本は拓海の言葉を聞き入れ、困った様に眉を顰めつつも拓海へ笑いかける。
「そこまで覚悟があるなら、仕方ありませんね。僕にも出来ることは限られてますから…あまり役に立たないかもしれませんけどね。」と松本は呟くが、拓海は「それでも構いませんよ。」と答えながら笑い返した。
それからしばらくの間、拓海と松本の二人は朧月の間近くの廊下で軽く談笑していた。ふと拓海は時間が気になり、腕時計を確認した。時刻は既に19時まで迫っていたようで、拓海は焦った様子で顔を上げた。
「すみません、今から部屋に戻りますね。妹を部屋で待たせているかもしれないので!」と拓海はそわそわと落ち着きのない様子で松本との話を切り上げた。
松本も自身の腕時計を確認し、「本当だ」と声を上げてポリポリと頭を掻く。
「そうですね、夕飯の時間も大分近いので、食べ損ねる前に戻ろうと思います。それではまた、明日会いましょう。」と松本は拓海に軽く手を振り、そそくさとその場を後にした。拓海も松本に手を振り、足早に朧月の間へと戻っていった。
部屋へと戻ると、テーブルの上には二日間で見た以上の豪華な料理がびっしりと広がっていた。
その向こう側の席には、不満そうに口を尖らせて待ちわびていた妹の姿があった。さくらは料理に一切手をつけず、拓海が部屋に戻るのを待っていたようだ。
「もう、遅いよお兄ちゃん。ご飯冷めるよ!!」とさくらに急かされ、拓海は焦りながら席に戻った。
「ごめんごめん、松本さんと会って談笑してたからすっかり時間が過ぎちゃってさぁ……待たせてごめんな。」と拓海は悪びれた様子もなく笑っていたが、さくらの怒りを込めた鋭い視線に軽く萎縮した。
「もう、部屋に戻ったらお兄ちゃんが居なかったから、またどこかに行ったかと思ってびっくりしたじゃん。それに料理運んで来てくれた旅館の人もびっくりしてたし…」とブツブツとさくらは拓海にあてつけるように、文句を垂れ流す。拓海は反論をしようと思ったが、それこそ喧嘩になりかねないと感じて黙り込む。
目の前に広がる料理の数々は、今まで以上に多く、そして香ばしい匂いがさくらと拓海の食欲をそそる。
「取りあえずさ、喧嘩する前にご飯食べようか。」
「そうだね、今日は天ぷらとステーキ、舟盛りとたくさんあるからね。これ全部食べきれるかなぁ……」とさくらはキラキラと目を輝かせながら、じっと料理を見つめる。拓海はさくらに手を合わせるよう促し、二人はしっかりと手を合わせる。
「「いただきまーす!!!」」と二人は声を合わせる。
待ちに待った夕食に、二人は時間も忘れるように料理をじっくりと楽しんでいく。この三日間を含め、いつもとは違う料理を心ゆくまで楽しんだ拓海とさくらは、ますます朧谷温泉街に魅了されていくのを感じていた。拓海とさくらの二人が、夕食を食べ終わったあと二人は朧月の間の部屋でゆっくりと羽を伸ばしていた。拓海は座椅子の背もたれに身体を預けつつ、時計の時間を確認する。時刻は20時を回っており、『そろそろ温泉にでも浸かろうかな』と拓海は思い立つ。
「さくら、俺そろそろ風呂入ってくるわ。」と言いながら拓海は身体を起こして立ち上がり、着替えの支度を始めた。さくらは一度だけスマートフォンから顔を上げる。
「はいはーい、あんま遅くならないでねお兄ちゃん。」
「分かってる。それに、今夜は月が良く見えそうだしゆっくり入っては来るけどね。」と拓海は返答を返し、着替えを手に朧月の間を後にする。さくらも兄の言っていた言葉が気になり、手に持っていたスマートフォンをテーブルの上に置き、窓の障子に手をかけ引いていく。窓の鍵を開けると、夜の心地よい風がさくらに向かって吹いてくる。さくらは軽く身を乗り出し、窓の外から見える街の街灯の灯りを眺めて感嘆の息を漏らす。
「わぁ、本当に月が綺麗に見えるかも。」とさくらはワクワクしながら胸を踊らせる。そして街に向けていた視線を上へと向けると、そこにはきらきらと煌めく星が輝く夜空と、一際輝く月の光が広がっていた。
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