第27話 憩いのひと時
拓海は『鬼の祠』で男から目撃の真相を明かされ、心の中に激しい動揺を抱えていた。男の言葉が頭の中を駆け巡り、胸の奥で鼓動が高鳴る。彼は立ち尽くし、周囲の景色が霞むように感じる。
しかし、拓海は徐々に自分を取り戻し、真実を確かめるために行動を起こす決意を固める。彼は深呼吸を繰り返し、鬼の祠から足早に駆け出す。まるで風に舞い散る葉のように、拓海は山を下りていく。
急な坂道や枝が生い茂る道をかき分けながら、彼の心は焦燥感と希望に満たされる。足元の地面が滑りやすくなっても、彼は力強く一歩を踏み出す。汗が頬を伝い、風に揺れる髪が彼の首筋に舞い散る。途切れ途切れに息を切らせながら、拓海は朧谷温泉街の街の中の建物と石畳の道が視界いっぱいに広がる。
拓海はゆっくりと首を動かし、目の前に広がる日常を再確認していく。街の様子は変わらず、賑やかな人の往来が存在していた。ありふれた日常の光景に、拓海は自身の胸に手を当て、肺の中にある空気を全て入れ替えするように大きく深呼吸をした。
先程『鬼の祠』で男と会話を交わした拓海は、一度聞いた目撃情報を共有しようと森川が待つ月華荘へと戻ろうと大きく駆け出していく。だが、男が語ったあの夜に見た影の名前を思い出した途端、拓海の背中や額からじっとりとした冷や汗が噴き出していく。
拓海は、街へと一度踏み出した足を止めて立ち止まる。漠然とした不安が、拓海の心臓を背後から握りしめられるような錯覚に陥らせる。
ここは街の中、拓海が男から聞いた真犯人が自分の目の前に突然現れるかもしれない。破鐘のように打ち鳴らされる心臓の音が、周囲に漏れてしまいそうなくらいどくどくと激しく脈打つのを感じる。拓海はぎゅっと胸に手を押さえ、ゆっくりと深呼吸を始める。
口から空気を吸い、鼻から空気を全て吐き出す。その当たり前に行われる行為に全神経を集中させていく。まだ、ここで立ち止まるわけにはいかない。だが、拓海の脳内を支配する恐怖は、まるで粘性の高い泥のようにまとわりついて離れようとしない。
『早く、月華荘に戻って落ち着きたい。』と拓海は心の中で焦りを募らせる。未だにどくどくと激しい鼓動が胸の中で響く。彼は胸を手で押さえながら急いで走り出す。すると、拓海の視界の端に見覚えのある姿が現れた。一瞬驚いた様子で、月華荘へ戻る足を止める。極度の緊張からくる焦りと不安が彼の胃を締め付ける。『もう、一体何なんだよ今日は。朝からずっと何かに付きまとわれているような気がしてならない。誰が見ているんだろう?視線が、いや、誰かいるのか?』と拓海は目を忙しなく動かしながら、街を歩く人々の顔を見渡す。『やっぱり気のせいだったかもしれない』と拓海は胸を撫で下ろす。しかし、安堵の気持ちも束の間、彼の視線の奥に東雲健太郎と思われる人物の顔が人ごみの中に混ざっていることに気づく。
拓海の顔からは、さっと血の気が引くのを感じる。
東雲による偽証尋問が拓海の頭に浮かぶ。もしかしたら、まだ自分を探しているのかもしれないという疑念と恐怖が強く拓海の心を支配していく。拓海はその場から離れようと、東雲の顔が逸れた瞬間に身を屈め、目的地である月華荘へと向かって駆け出す。自身の宿泊している月華荘の戸に手を掛け、力任せに勢いよく開け放つ。拓海は月華荘の玄関の中へ、一気になだれ込む。勢いのままに入ったため、掌には微かに血が滲んでいた。
「いてて……擦りむいたかな。」と拓海は顔を顰め、誤魔化すようにぎゅっと手を握りしめる。すると、人の気配を感じた拓海が顔を上げると、月華荘の玄関の奥には驚いたように目を見開いて拓海を見下ろす妹のさくらが立っていた。
「お、お兄ちゃん……どうしたの急に。」とさくらは靴を履く途中で、その場に座り込んだ拓海に駆け寄る。拓海はさくらから差し出される手を取り、立ち上がる。
拓海はズボンに着いた土埃を手で払い、さくらに向き直る。
「ありがとう、助かったよ…ところで、こんな所でどうしたんだよ。」
「いや、丁度朧月の間で暇だったから外を眺めてたら…お兄ちゃんが走ってくるのが見えたんだよ。凄い焦ってたから、私が出迎えようと思って来たんだよ。」
さくらは擦り傷のある拓海の手を触りながら答える。拓海はさっと手を引っ込め、さくらを後ろを向かせる。
「それは良いから、少し休ませてくれ。色々話したいことがあるんだ。」と拓海は疲れが混ざった様な声でさくらの肩に手を置いて廊下を進んでいく。
「どうしたのお兄ちゃん、今日の朝からずっと走り回ってたり、調べてたりしてるけど…何かあったの?やっぱり」とさくらは拓海の方へと向かおうとするが、拓海によって後でで良いからと言葉を遮られる。
拓海とさくらの二人は、一度朧月の間へ戻っていく。明るく柔らかな日射しが差し込む和室に足を踏み入れると、拓海は大きく深呼吸をする。
「やっぱりこの部屋は落ち着くなぁ……もう今日は部屋から出ずに過ごしたい。」と拓海はゆっくりと座椅子に腰掛け、背筋を伸ばして背もたれに寄りかかる。
それに対し、さくらは口を尖らせ、むっとした顔で拓海を睨みつけていた。
「お兄ちゃん、さっきの言葉だけど続きを教えてよ。」とさくらが問い掛けると、拓海は思い出したかのように座椅子に座り直す。
「あぁ、すまんすまん、忘れてたよ。」と拓海は人差し指を宙にくるくると回し、考え込む様に視線を忙しなく動かしていく。さくらは兄の言葉を待つため、テーブルの上に頬杖をついて身体をゆらゆらと左右に揺らして様子を伺っていく。
「まぁ、言えるのは少ないが…少なくとも今回の事件については殆ど片付く目処はついてきたよ。それと、明日なんだが……帰る前に、昨日未来さんや香織さんと一緒に山の『鬼の祠』に花束でも供えに行こうか。」
「え、本当?!それって、お兄ちゃんも一緒に行く?折角なら帰る前に色々と見て回りたいんだけど。」
「まぁ落ち着け、念のため未来さんや香織さんとも話をつけてみるよ。彼女たちの予定を確認したいし、それを了承してもらえるか確認して、ね?」
「はぁい、じゃあそれまでゆっくり待たないとね。」
「午後とか余裕が出れば、また街の散策でもしてみるか?」
「今日はずっと月華荘に留まってたから、そろそろ外に出たいよ。」とさくらは退屈そうにテーブルに突っ伏して外に出たいアピールをするために拓海に視線を投げかける。拓海は呆れたように軽く溜め息をつきながら「分かった分かった」とさくらを宥めた。
拓海はスマートフォンのLimeに登録された未来と香織の連絡先にメッセージを送る。連絡の内容は『明日、朝に『鬼の祠』に花を供えに行く予定だけど…君たちも一緒に行くかい?』と未来と香織の二人に向けて明日の様子を尋ねる。しばらくすると、それぞれの二人から返答が返ってくる。
『良いですよ(*´∀`*) お花屋さんで色々な綺麗な花を選びたいですね』と香織からの返答があった。
『分かりました。一応、明日は13時以降に帰る予定ですので…それまでであれば問題ありませんよ。』と未来からの返答も届き、拓海はそれまでに色々と準備をしておこうと考える。
拓海はさくらに未来と香織の返答を伝えると、さくらは嬉しそうに目をきらきらと輝かせ、テーブルに身を乗り出す。拓海はさくらを宥めながら、明日はチェックアウトの日であり、学校の準備もあることを思い出させる。さくらは落ち込んでしまい、テーブルに突っ伏すが、拓海は優しくさくらを励ます。
拓海はどこか寂しげな瞳の笑顔でさくらを見つめながら、大学に行くことがさくらの目標であることを理解していると伝える。さくらは拓海の言葉を聞き、体勢を直して座椅子に座り直す。
さくらは静かに拓海に3日間の楽しさを問いかけると、拓海は驚いて目を丸くし、考え込む素振りを見せる。拓海は3日間を思い返し、初日の怪異の体験や美しい景色、美味しい料理、そして出会った仲間たちのことを思い出す。最終的に、拓海は楽しかったと答え、さくらも喜びの感情を持って頷く。
拓海とさくらは静かな朧月の間の中で、この3日間の体験を思い返す。困難な出来事もあったが、美しい景色や素晴らしい経験も二人の心に深く刻まれていた。その時、朧月の間の扉をコンコンコンとノックする音が聞こえる。さくらは気づいて顔を上げ、拓海はさくらにその場で待つよう伝え、座椅子から立ち上がって扉に近づく。ゆっくりとドアノブに手を掛け、扉を開けると、そこには森川が立っていた。森川は拓海の顔を見ると、ほっとしたような頬笑みを浮かべる。
「良かった、無事だったようだね、拓海君。」と森川は安心した表情で言う。
「はい、お陰様で。俺も色々と彼から話を聞くことができました。もしかして…その件についてですか?」
拓海は森川との話を思い出し、おずおずと森川に様子を伺う。森川は周囲を確認するために左右をきょろきょろと見渡し、顔を拓海に近づけて少し低めの声で囁く。
「少し良いかね、恐らく拓海君は既に彼に聞いたと思うんだが…『今回の事件について』話がしたい。」
「……今部屋に妹が居ますが、それでも構いませんか?」拓海はちらと部屋の中へと視線を向けながら尋ねる。森川はばつが悪そうな表情を浮かべるが、廊下で話す内容ではないようで、部屋に上がることを答える。拓海は森川に少し待つように伝え、扉を開けたままさくらのいる部屋に足を踏み入れる。
「さくら、ちょっと良いか?」と拓海はさくらに声をかける。拓海の声に気づいたさくらはスマートフォンをテーブルの上に置いて首を傾げる。
「どうしたの?お兄ちゃん、誰か来てた?」さくらは状況を察したように尋ねる。拓海はさくらに許可を得ようと伺う。
「あぁ、ちょっと、森川さんが来ててな…上がらせて良いか?」
さくらは様子を伺う拓海の表情に気づき、軽く首を動かして周囲を見渡す。
「もしかして、私ここに居ない方がいい?」
さくらが状況を察したように呟くと、拓海は困ったように視線を待つ森川に投げかける。森川はさくらがいてもらった方が良いと拓海にジェスチャーで示す。
「いや、大丈夫だよ。軽く話をするだけだから、その場に居てくれた方がいいよ。」と拓海はさくらに答える。
拓海は森川へ朧月の間へと入るよう促す。森川は軽く会釈をし、拓海に促されるがままに朧月の間へと入っていく。森川の姿を確認したさくらは、背筋を伸ばして座椅子へと座り直す。
「では森川さん、お好きな所に座ってください。」と拓海は話をする為に、森川を席へと促した。
「ありがとう、それでは失礼します。」と森川はさくらの座る席と対面になる様な位置に腰掛ける。拓海も森川が座椅子へ座るのを確認し、拓海はさくらの隣へと腰掛ける。張り詰めたような緊張した空気が、拓海達の間を包み込んでいく。
「それで、君が彼から聞いた話について…聞かせていただけないか?」と森川は軽く息を吐き、鷹の目のように鋭い眼差しを拓海に向ける。
「はい、恐らくですが…森川さんが目星をつけている人物が今回の真犯人であると思われます。」
「……やっぱりか。ということは、あの事件があった夜には彼がその事件を目撃したのには変わりないんだな?」
「そうですね。俺も、あの尋問からある程度の違和感は感じてましたが…彼の一言によって確信に至れましたよ。」
「残念だよ、ではどうする?今もこうしている間に被害者は増える一方かもしれないぞ。」
「少なからず、今日動いたところで逃げられる可能性もあります。明日、できる限り証拠を集めていこうと考えています。凶器は、恐らく駐在所に隠してあると思いますよね。」
拓海は自分の推測を立て森川に話すが…森川は眉間に皺を寄せ、厳しい表情を浮かべて腕を組む。うーん…と唸りながら森川は軽く首を傾げて悩む様子を見せていた。
「もし、本当に駐在所に凶器を隠しているのなら」と森川は言葉を出し切る前に、ハッとしたように目を見開き、勢い良く顔を上げる。森川の唐突な行動に、慌てふためく拓海。森川はがばっとテーブルにしがみつき、焦ったような目で拓海を見つめる。
「ど、どうしたんですか、森川さん。」と拓海は声を震わせ、森川を見つめる。森川はわなわなと口を震わせ、口を開きかけたが、軽く首を横に振って座り直す。
「少し心当たりがあるというか、不審な行動をしているのは確かに見たが…やはり、駐在所に凶器を隠している可能性もあるかもしれない。」
「えぇ、そう思っています。でも、僕達が目星をつけているということは…相手にもそれは感じられているかもしれませんよ。」
「それもそうだな…証拠が隠滅される可能性だってある。」
「とはいえ、明日はこの事件そのものに終止符を打つつもりです。森川さん、協力してくれますか?」
拓海は口を真一文字に引き締め、真剣な表情で森川の顔を見据える。森川は拓海の覚悟を決めた表情を一瞥し、軽く溜息をつく。
「分かった、詳細については明日追って聞こう。取り敢えず、僕は先に部屋に戻らせてもらうよ。押し掛けてすまなかったね。」と森川はやや疲れた笑みを浮かべ、立ち上がろうとする。拓海は見送ると伝えて立ち上がろうとするが、森川に遮られてしまう。
「それでは、明日また会おう。君はゆっくり休みたまえ。」と森川は拓海に労いの言葉を掛け、朧月の間を後にする。拓海は部屋を去る森川の背中を見送るばかりだった。その時、隣に座っていたさくらは拓海の服の袖をくいくいと軽く引っ張る。
「ねぇお兄ちゃん、さっきの話……」とさくらはどこか不安そうな、恐怖を押し殺したような声で拓海を見つめる。拓海はさくらの頭を撫で、森川とのやり取りについて詳しい話をすることにした。
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