第25話 或る男の話
むかしむかし、朧谷村と呼ばれる小さな村には、とある山の神様が祀られていた。人々はその神を大いに敬い、そして神々しい山の神への感謝の気持ちを込めて、数多くの贈り物を捧げてきた。山の神もまた、朧谷村に住む人々を深く愛し、彼らが豊かな暮らしを営むことができるようにと、様々な恵みをもたらしてきた。朧谷村と山の神の共存は、何十年にもわたって続いていた。しかし、五月の初めに行われるはずだった一年の豊穣を願う祭りの準備による悲劇が起きるまでの平和な時が流れていた。
その日も、一年に一度の豊穣を願う祭りのため、朧谷村の村人たちが当番となって神社で準備を行っていた。その中には、悲劇の原因となった男がいた。彼は朧谷村の出身であり、その日は準備の当番として任命されていた。若者の中でも稀な存在であり、特にこの村に祀られている山の神を熱心に信仰していた。
彼らは今年もより良い一年とするために、神社で行う祭事の準備を行っていた。朝早いうちから祭事のための祭壇や会場の準備を行い、一段落が着いた頃には黄昏の空が村中に広がっていた。準備をしていた村人たちは、暗くなる前に先に帰ろうと荷支度を始めていく。彼も祭りの準備も一段落がつき、手伝っていた村人たちが帰った後に帰ろうと思い、後片付けを進めていた。村人たちは彼に挨拶を返しながら帰路について行く。村の中を歩く人たちの足もまばらになる中、彼は帰る前に本殿へと足を進める。
本殿の前に立ち、彼は本坪鈴をガラガラと鳴らす。二礼二拍手の儀式を通し、神社に祀られている山の神へ帰る間際の挨拶をかけていく。穏やかな静寂が神社を包み込んでいき、彼はほっと小さく息を吐いた。
「また明日も、祭りの準備に来ます。今年一年も、村がよりよく発展できますように。」と深々とお辞儀をする。彼もまた、帰路に着くために本殿から踵を返して歩いていった。その時、祭事の準備で用意していた組木がグラグラと揺れ始めていた。
「まずいな、他の人たちは皆帰ったし……でもこれが倒れたら大変な事になる。」と彼は組木を立て直す。まだ不安定な様子こそはあったが、今すぐに倒れる様子はなかった。ほっと安堵の息を漏らし、彼は母の待つ家に帰ろうと歩き出す。その瞬間、彼は神社にあるさざれ石につまづいてしまい、立てられた篝火を倒してしまっていた。
彼が気づいた時にはもう遅く、傾いた篝火は石畳の上に倒れ、そして篝火の赤い炎は組んだ祭壇へと移っていく。瞬く間に火は燃え広がり、その大きな赤い波は山の神を祀る本殿まで炎の魔の手が広がる。
「ああぁ……あああぁ!!!火事っ…火事だ!!!」と彼は目の前に広がる惨劇に呆然と立ち尽くすばかりだった。自分のせいで広がる火の海は、やがて大きな火柱となって燃え盛っていく。パチパチと木が爆ぜる音が聞こえ、焦げ臭い匂いが鼻腔を掠めていく。
黒煙が静かな黄昏の空を焦がしていき、神社の異様な様子に気づいた周辺の住民たちが声を張り上げる。
「火事だー!!!火事が起きたぞ!!!」と人々はあらん限りの声を張り上げ、異常事態を告げる鐘を鳴らしていく。彼は神社を焼き尽くす大きな炎に怖気づいてしまい、その場から直ぐに逃げ去っていく。無数の人だかりが赤く煌々と燃やす神社へと集まる中、彼だけはまるで流れに逆らうかのように反対側へと走り去っていく。彼の耳には、赤々と燃え滾る炎の中で焼かれる神の悲痛な叫び声がこびりついているように感じられていた。彼は自分がいた神社から一目散に逃げる間際、一瞬だけ朧光神社へと顔を向けた。木々に囲まれた荘厳な神社は、自分の不注意によって今も真っ黒な煙を上げ、赤い炎を吹き上げていた。たった一度の不注意が、大きな災害を引き起こした事実となり、彼の心を蝕んでいく。
『どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう!俺のせいで、俺のせいで神社が燃えてしまった!神様を、山神様を見捨ててしまった!俺のせいで、あの方が苦しい思いをしているのに……俺はどうしたらいいんだ。』と彼はパニックと自責の念が心の中を埋めつくしていった。男が我に返った頃には、家の玄関扉に背中をもたれかけながら茫然と座り込んでいたようだった。奥の部屋からは、薄い布団から身体を起こした母親が、どこか不安げな顔を浮かべながら男を見つめていた。
彼は母親が起きていることに気づき、取り繕うようにぎこちない笑顔を見せながら近づいていく。
「母さん、体は大丈夫?」と彼は不安げな表情を浮かべた母親に寄り添い、心配そうな声で問いかける。母親は軽く咳き込みながらも、平気だと答える。
「私は大丈夫よ。そんなに心配しなくても最近は良くなってきたんだから…。それより、すごい切羽詰まった様子で帰ってきたけど、何かあったの?」
「いや、神社の祭りの準備が終わって急いで帰ってきただけだよ。母さんの体調が心配だったからね。」と男は、先程自分が引き起こした火事については母親の前では黙って誤魔化すだけだった。彼の心の中には、自分の不注意で起きた火災を、村の人々に咎められることが怖かった。それ以上に、自分が信じてきた山の神を見捨てて、母親を優先して帰ってきたことに対しても罪悪感という重みが彼の心に重くのしかかっていた。男は病気がちな母親に真実を伝えることができず、自分の心の奥底に秘めてしまった。
朧光神社は彼の不注意により全焼し、一年に一度の豊穣を祈る祭りが行われないままで終わってしまった。さらに悲劇は続き、山の神の御神体までもが焼失してしまったのだ。朧谷の村人たちはこの焼失事件に深い悲しみを覚え、祭りが行われなかったことやその後に訪れるであろう祟りや弊害について恐れを抱いていた。一部の村人たちはこの事態を重く受け止め、犯人を探し出すための行動を起こす者さえ現れていた。男は自らの不注意による火災を公表することができず、犯人探しは続いたが、彼は黙り込むしかなかった。しかしその悲劇から間もなくして、朧谷村にはさらなる悲劇が押し寄せていく。村は未曾有の大災害に見舞われ、六月に入る頃には大雨や土砂崩れといった自然災害が襲い始めた。土砂に飲まれた村人たちも次々と現れ、自然災害の影響で感染病も村中に広がっていった。男の母親もその村で流行る感染病に罹り、男が看病するも虚しく、呆気なく息を引き取ってしまった。村の人々は徐々に朧光神社の全焼をきっかけとした「山の神による祟りかもしれない」という噂が広まるようになった。噂によれば、山の神は自らを燃やした犯人を探しており、見つかるまで災害を引き起こし続けているとさえ言われていた。男は一人の母親を失い、自身の不注意が村の人々に疑心暗鬼を広めていることを徐々に責任と感じるようになっていた。男が不注意で起こした火災が引き起こした事件がきっかけで、朧谷村で度々起きた自然災害や感染病といった出来事は、男の心を徐々に蝕んでいった。
村の間で広がる山の神の噂や、度重なる自然災害や感染病は男の心にある罪悪感や責任をより重く感じさせ、男の精神は次第に擦り切れてしまい、憔悴しきっていた。次第に自然災害や感染病が収束していく中で、人々の間では男の不注意で引き起こされた火災ですらも忘れ去られつつあった。男は既に心身が弱り切っており、彼は一人山の中でひきこもっていた。
「俺のせいで、皆が不幸になっていく……きっと、俺のことを憎んでいるはずだ。」と男はぶつぶつと呟きながら山の中を彷徨い続けていた。
男自身の心の奥底に宿る仄暗い感情は次第に彼の精神を支配していく。一人山の中を彷徨い続ける彼は、時折『村の人々が自分を犯人として追い詰めてくる』といった妄想や、『既に山の神様の祟りによって永遠に苦しむ運命になっているのだろう』といった妄想に取り憑かれ始めていた。男の自責の念と罪悪感によって生まれた妄想は、やがて男を「黒面の鬼」と呼ばれる異形の存在へと変貌させていく。男は次第に人としての記憶や存在意義を失い、深い罪悪感と自責の念によって生まれた感情に支配されていた。
とある日の月明かりが明るく山を照らす夜の中、朧谷村に住む一人の村人が提灯を片手に夜の街を歩いていた。地響きのように規則的にズシン、ズシンと大きな音が聞こえ、村の人は立ち止まる。建物よりも大きな黒い影が街中を歩く村人を覆い隠していく。息をするにも上手くできないほどに重苦しい空気が周囲を包み込んでいく。村人はあまりにも異様な空気に息を震わせながらゆっくりと振り返る。
村人が振り返る先には、月明かりに照らされて浮かび上がる彫りの深い木彫りのような鬼の面のような顔があった。半ば朽ちてぼろぼろになった着物を身にまとい、振り乱したかのようにぼさぼさの長い髪が揺れていた。そして、普通の人間とは思えないような筋骨隆々の肉体を持った悍ましい異形の鬼が村人を睨みつけていた。ギロリと赤く燃え盛るような瞳が、村人を捉えている。村人は目の前に現れたこの悍ましい異形の存在に恐れをなしてしまい、腰が砕けていた。
鬼は目の前で腰が砕けた村人を一顧だにせず、そのまま夜の霧の中に消えていった。彼は人よりも遥かに巨大な怪物との邂逅を経験したのだ。恐怖に駆られ、鬼の姿が消えた後、彼は急いで家に駆け込んだ。
そんな「黒面の鬼」と呼ばれる異形の存在に関する噂が、朧谷村中に広まっていった。
* * * * *
ふと、そんな昔話を思い出していた。
随分と前、100年も前の自分が犯した罪が浮き彫りになったことに、俺は大きく息を吐きながら頭を掻く。
「あの銀縁眼鏡の男、確か…拓海と言うんだったか。」と、俺は小さく先程出会った男の名前を呟く。今更になって、自分がかつて犯した罪も、「ウツギ」と呼ばれる山の神様の名前を聞いた時に何かを確信したのだ。拓海という名前の男が言っていた「貴方の無実を証明したいんです。」と真剣な表情で俺に向かって言い放った言葉を心の中で復唱していく。
─────くだらない。今更になって俺を助けようだなんて思うこと自体、馬鹿げた事だろう?
そんな諦観にも似た感情が、正直な感想だった。
この約100年の間、俺を救おうと思ったやつなんて一人もいなかった。この男もどうせ偽善だろうなと思いつつも、心のどこかでは拓海という男を信じたいと思い始めていた。それに、あの夜俺は確かに朧谷村を彷徨っていた。若い男が鎌を持った奴に襲われていたのをこの目で見ていた。見ていただけだったんだ。
また俺は誰も助けることもできず、あの若い男は死んだと言う。襲われていた男は、かつての俺のように病気になった母親がいたと聞いた時は驚いた。
「俺はまた、同じ罪を繰り返すのか…?」と、心のどこかで燻り続けていた火がもう一度燃え上がる。
街の中では、俺があの若い男を殺したという噂が広まっていた。冗談じゃない、俺はやっていない。
この100年以上、俺は誰一人殺したことがない。
なのに、どうして俺がこんなことで殺人を犯したと言われなきゃならないのか?そんな疑問と猜疑心が徐々に膨れ上がり、それが次第に激しい怒りの炎となっていくのを感じていた。もし、拓海という男に自分が目撃したあの光景を教えることができたなら、俺を貶めようとする連中を見返すことができるだろうか?そんなことを考えていた時には、俺は既に拓海という男に協力をするために山へと降りていた。
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