第16話 悪夢の再来

 拓海は無人の廊下を息を切らしながら駆けていく。

勢いよく朧月の間の扉を開けると、転がるように部屋に入り込んだ。

「さくら!!!」拓海は妹の安否を確認する。

「わっ、ビックリした。急にどうしたの、お兄ちゃん?」

さくらは先程まで音楽を聴いていたのか、驚いたように目を見開いていた。拓海はさくらの姿を確認すると、力が抜けたようにその場にへたり込む。

「良かった、無事だったんだね…」

拓海は安堵の息を漏らしながら、ずるずるとほふく前進しながら移動していく。

「もう、何なの今日。もしかして、午前中のことがあったから不安になった?」

「当たり前だろ、しかもさっき地鳴りみたいな音が聞こえたんだし…心配になって駆け込んだんだよ。」

拓海の話に対し、さくらは勢い良く立ち上がり、戸惑っていた。

「え、嘘?!地鳴り?!それって大丈夫なの?!避難経路を知ってる?!地震の予兆じゃないよね、ここは三階だから上手く避難できるかな?!」と青ざめながら右往左往するさくら。その様子がどこか面白く感じられて、拓海は思わず笑いがこみ上げてきた。

「ふふ、はははっ…」と拓海は腹を抱えて笑い出し、それを見たさくらはからかわれたと思い、顔を赤らめながら怒り出した。

「もう、私をからかったの?!本当に地震が起きるかと思ったじゃん!?」

ぷりぷりと怒りを顕にするさくらを、拓海は半笑いのまま、「まぁまぁ」と言いながら彼女をなだめる。

 この時、拓海にとって妹の安否を確かめられたことが何よりも安心できる要因となっていた。

彼女の身には何も起きていないという事実が、拓海を安心させたが、緊張がほぐれたせいで一気に疲れが押し寄せていた。

「はぁ…とりあえず、何事もなさそうだし、俺は寝るよ。疲れたしね。」と拓海は呟き、早々に持ってきた衣服をキャリーバッグに詰め込んだ。

髪を乾かす余裕もないのか、彼は掛けていた眼鏡を外して布団に潜り込んだ。

「お兄ちゃんもう寝るの?」とさくらは彼の背中に声を掛ける。

「あぁ、今日も今日で疲れたからな…せめて明日くらい平和に過ごしたい。」と拓海は疲れが滲む声で弱々しく呟く。

「まぁ、あと二日もあるんだしね…おやすみ、お兄ちゃん。」

「おやすみ…」

拓海が寝入るのを見たさくらは、あまり遅くまで起きるわけにもいかないため、彼女は部屋の電気を消して隣の布団に潜り込んだ。


 仄暗い部屋の中、カチ、カチ、カチ、カチ…と時計の秒針が刻む音が聞こえてくる。

その静寂に包まれた部屋の中で、拓海の意識は徐々に泥濘ぬかるみのように深く沈んでいく。

耳に残る時計の音は、次第に朧気な輪郭へと変わっていく。そして、次に彼の耳が捉えたのは、昨晩見た夢と同じ不気味な笛の音だった。

次第に笛の音に重なるように、太鼓の音や鈴の音が増えていく。拓海の視界は次第に鮮明になり、彼が昨晩見たあの不気味な屋敷にいることに気付かされる。

ぎしぎしと軋む木張りの床、他の部屋への出口を塞ぐ襖たち。仄暗い闇に満たされた屋敷の全てが、拓海の心を恐怖で凍てつかせる。

「また、ここなのか…」と拓海は周囲を見渡す。

不気味な音楽は、まるで彼を取り囲むかのように流れていく。拓海はあの異形の鬼に襲われるのではないかという焦りと恐怖に取り憑かれる。

「早く、早くこの夢から覚めなければ!」と彼は先の見えない闇が広がる廊下の先を背に、手探り状態で走っていく。拓海が逃げるために闇に背を向け、一歩踏み出そうとした瞬間、怖気が走る強い気配を感じ取る。

「しまっ──!」その瞬間、拓海の身体に強い衝撃が襲い掛かる。

 背中を突くような強い衝撃が襲い掛かり、拓海の視界は一度揺らいだ。息苦しさが彼を包み込んでいく。

そして、ようやく気づいた時にはますます暗くなっていることに気づいた。

彼は目を動かすと、異形の鬼が拓海の上に覆い被さるようにして自分に馬乗りになり、首を絞めていた。

彼はその異様な光景に思わず息を呑んだ。鬼の顔は黒い漆塗りの木彫りの面でできており、じっくりと見ると木目のような模様が浮かんで見えた。

鬼の面から覗く赤く光る眼孔は、人とは思えない強い怒りや憎悪に似た感情を孕んでいた。

拓海は絞められる強い痛みと苦しみに悶えながら、必死で抵抗を試みるが、鬼の力は思った以上に強く、荒い息遣いが鬼の面の隙間から聞こえてきた。

涙を零しながらも、拓海はゆるゆると首を振りながら鬼に抵抗し続けた。

しかし、鬼の様子は変わらず無機質に拓海の首を絞め続けた。彼の首は鬼の強い力でみしみしと軋む音を立て始めていた。命の危機を感じた拓海は、目をぎゅっと瞑り、心の中で強く覚醒を願った。

『覚めろ、覚めろ、覚めろ、覚めろ、覚めろ!早く覚めてくれ!このまま夢の中で殺されたくない!』

拓海は必死に夢から覚めようと心の中で強く念じたが、なかなか目覚める様子がなかった。

彼は必死に心の中で念じ続けるが、徐々に鬼の荒い息遣いに混じって何かブツブツと呟く声が聞こえ始めた。それが何の言葉なのか上手く聞き取れず、逃げ出したい拓海にとっては集中力を乱す要因となっていた。

次第に彼の恐怖の感情は、現状に対する強い怒りの感情へと変わっていった。


 拓海は自身に降りかかる理不尽な状況に対する怒りを露にし、持てるだけの力を振り絞って鬼に向かって拳を叩きつける。突然の拓海の行動に鬼は咄嗟に反応せず、直接的に拳を受けることになった。

鬼の肉体は軽く吹き飛び、ごろごろと廊下を転がっていく。拓海は咳き込みながらも必死に身体を起こし、立ち上がる。

「本当に、何なんだよ!ずっと!昨日からずっと俺はお前に何をしたって言うんだ!いい加減にしろ!」

拓海の顔には激しい怒りが滲み、彼はずんずんと足を踏み締めて鬼に歩み寄っていく。鬼の着物に向かって手を伸ばし、その衣を掴みながら自身の胸まで引き寄せる。

「いい加減にしろよ!お前の目的なんて分からないが、なぜ俺なんだよ!なぁ!」

拓海は力いっぱいに鬼に向かって掴みかかった。

完全に形勢逆転となり、今度は拓海が鬼に馬乗りになる。

 拓海は完全に怒りに支配され、鬼の首に手をかけて近づいていく。

「本当にうんざりだ!お前が、お前のせいで、俺の休暇は台無しになったじゃないか!どうしてくれんだ!」

拓海は怒りと憎しみを込めて罵倒する。しかし、鬼は何の抵抗も示さず、ただ静かに拓海を見つめるばかりだった。しかし、拓海にとっては抵抗すら見せない鬼に対して苛立ちが湧き上がっていた。

「さっきまで俺のことを散々な目に遭わせていたくせに、いざ自分がこんな状況になっても何もしないのかよ!!」

自分を取り巻くすべてが理不尽に感じられ、拓海は苛立ちを露わにする。

「こんな鬼の面を付けて、俺を襲おうだなんてどういうつもりだよ!」

拓海は鬼の面に手を伸ばし、顔から引き剥がそうと掴む。鬼は初めて抵抗し、拓海の手をはじき返す。

しかし、拓海は抵抗を跳ね除けようと力一杯で面を剥ぎ取ろうとする。

鬼は身体を捩り、足をばたつかせながら抵抗する。

「あぁもう、なんだよ何なんだよ、そんなふざけたことをする奴が、今更剥がせないだなんて。」

拓海は躍起になりながら、鬼の頭と面を掴んで引き剥がそうと必死に力を込める。

しかし、鬼の面はまるで顔に直接張り付いているかのように、一向に動かない。

じれったさを感じた拓海は、ついには鬼の頭を破壊してでも中の顔を見たいという衝動に駆られていた。


 しばらくの間、拓海と鬼の間で激しい取っ組み合いが続いた。

「ああぁ、イライラする!どうして見えないんだよ!」

拓海は抵抗する鬼の頭を床に何度も打ち付けながら、空いた手で周囲を探り回る。

鬼は必死な様子で長い髪を振り乱し、拓海の腕を掴んで抵抗を続ける。

呻き声にも似た唸り声を上げながら、鬼は必死に拓海に抵抗し続ける。

「あぁ、五月蝿うるさい!早く何とかしないと…じゃないと俺は!」

拓海は絶叫にも似た叫び声を上げ、床を探りながら手に何か固いものを感じる。

拓海はその固いものを指で引き寄せ、しっかりと手に取る。

「っはは、ははははは……最初からこうした方が良かったじゃないか!」

拓海が手に持ったものを大きく振りかざす。三日月のような刃が暗闇の中で鈍く輝く。


─────刃を振り下ろすその瞬間、拓海の顔が刃に映り込む。


 拓海は、その鈍い刃に映り込む自分の顔を見て、ようやく自分が何をしているのかを理解した。

拓海の顔は、まるで狂気に取り憑かれたかのように歪んだ笑みを浮かべていた。それは正に、だった。

カランカラン、と拓海はその場に刃を落とし、頭を抱えながら後退する。

「ああぁ、あああぁ…俺は、俺、一体どうしてこんなことを…」

拓海はガタガタと身体を震わせ、頭を抱えながら蹲る。一時の感情で、自身さえも鬼となるこの悪夢に、拓海はこの時一番の恐怖に襲われていた。先程まで拓海に襲われていた鬼は、軽く頭を振り、身体を起こした。

ふらふらとした足取りで、拓海に近づいていく。

「ひっ……」と拓海は小さく悲鳴を上げ、腰が抜けたのか座り込んだまま後ずさる。

「や、やめっ……やめてくれっ!」

拓海は、先程の異様な行動を懇願しながら怯え出す。

少なくとも、理性を取り戻した彼にとっては、今このような状況は最悪だと言ってもいいだろう。

「ごめっ、ごめんなさっ、ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」と拓海はまるで親に怒られて泣きじゃくる子供のように、小さく身体を丸め、大きな涙をぼろぼろと零しながら懇願する。

しかし、鬼はそんな拓海の涙ながらの懇願を意に介さない様子で、徐々に距離を詰めていく。拓海はこの時、今度こそ自分は鬼に殺されるんだと死を覚悟した。

鬼の影が、拓海に覆いかぶさった瞬間、拓海の頭にぽたぽたと雫のようなものが降り注がれていく。

「へ……?」と拓海は突然の状況に驚いて顔を上げた。

その瞬間、拓海の身体に襲いかかる落下感と視界が一気に暗転していくのを感じていた。拓海の意識が闇の淵に落ちていく瞬間、彼の耳には「ごめんなさい……」と小さく呟く鬼の声が届いていった。


 拓海は汗だくになりながら飛び起きる。

心臓がバクバクと激しく脈打つのを感じ、胸に手を当てて深呼吸をする。ふと、時間が気になって壁に掛けられた時計を見ると、時刻は1時を指していた。

静寂な部屋に響く時計の針の音が、拓海の耳に響く。

彼は眠りから覚めたことに安堵しながらも、ふと昨夜の出来事を思い出す。夜中の出来事が頭をよぎり、不安が心を押し寄せる。

「……この時間に、ウツギさんは起きているんだろうか。」と、拓海は呟く。その言葉が静かな部屋に溶け込むように消え去る。迷いながらも、彼はそっと朧月の間を静かに後にする。その足音は微かに響き、彼の心には未知の道への期待と不安が交錯していた。

拓海は出来る限り周囲の人を起こさぬよう、静かな足取りで廊下を歩いていく。

暗闇に包まれた空間で、静寂が彼を包み込んでいた。

「こんばんは、今日も夜のお散歩ですか?」と、拓海の背後から声が響く。その声に拓海は僅かな不安と期待を胸に抱きながら、ゆっくりと振り返る。

朧気な月明かりに照らされ、赤い三つの目が光る黒い狐の面が暗闇の中で浮かび上がっていた。それはウツギの顔だと、拓海はすぐに気付く。

拓海は、その相手に向かって言葉を掛けた。

「こんばんは、ウツギさん。丁度貴方に会いに行こうと思っていました。」拓海は意を決した様な表情で、真っ直ぐにウツギを見据えていた。

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