第17話 不吉な夜
皆が寝静まる月華荘の廊下で、真夜中の静寂が漂っていた。拓海は足を止め、月明かりに照らされる中で黒い狐面を被った男、ウツギを見つめていた。
拓海の口元は真一文字に固く結ばれ、その表情からは覚悟が溢れている様子が伺える。
拳を握りしめた彼の瞳には、決意の光が宿っている。
ウツギも静かに立ち尽くし、袖口を合わせたまま拓海を見つめている。二人は互いに何も言わず、ただ静かに対峙するかのように立ち尽くしていた。
拓海は内心で自分の手に残る悪夢の感触に苦しんでいた。言葉を伝えたいと思っていたが、その狂気が再び顔を出してしまうのではないかという不安が彼を支配していた。
それをウツギが察知したのか、銀色に輝く長い髪を揺らしながら、静かに拓海に近づいていった。
ウツギの白い手袋が拓海の頬を優しく撫でる。
拓海は一瞬身を強張らせるが、ゆっくりとウツギに向けて顔を上げ、視線を合わせる。
ウツギは優しい声で拓海に対し、同情深く言葉をかける。
「あぁ可哀想に、拓海さん…貴方どうやらとても酷い夢でも見たのですね。不安になる中、わざわざ私の元へと来て下さるとは、よく頑張りましたね。」
拓海は短く躊躇った後、ウツギに向かって話し始めた。
「あの、ウツギ… さん。」
ウツギは優しげな声で応えた。
「無理に話さなくても大丈夫です。さぁ、こちらへどうぞ、私の部屋で少し落ち着きましょう。お茶を出しますので、そこで一息吐けば落ち着くでしょうしね。」
ウツギは優しい声色で言いながら、拓海の手を取る。
拓海はその優しい声に安心感を抱き、口を閉ざしたまま小さく頷いた。ウツギはゆっくりとした足取りで拓海の手を引き、二人はウツギが宿泊する鬼神の間へと歩みを進めていく。
ウツギの手引きにより、拓海はふらふらとした足取りの中、鬼神の間へと足を踏み入れていく。
鬼神の間では、昨晩と同じお香と思われる独特な空気が拓海を包み込んでいく。その甘く優しい匂いに、拓海の心の中に渦巻く狂気は鳴りを潜めていく。
「ふぅ……やっぱりこの部屋、何だかとても心が落ち着いていきますね。」と拓海はようやく言葉を発せた。
「ふふ、私の特製の香炉を焚いてますからね。この部屋自体は一種の結界としての役割を果たしてましてね、先程よりかは気分は軽くなったでしょう?」とウツギは狐の面越しに、薄く目を細めて笑ってみせる。
「さぁ、取り敢えず拓海さんは先にお座り下さい。私はこれからお茶を淹れてきます。」とウツギは拓海を椅子に座る様にと促し、彼はそそくさとその場を後にした。拓海は言われるがままに座り、気持ちを落ち着かせる為に軽く深呼吸をしてみる。
甘く優しいお香の匂いが拓海の肺を満たし、ゆっくりと息を吐くと、身体の内側から燻る黒い感情が一緒に抜けていくような感覚になっていく。
程なくすると、小さなお盆に急須と二つの湯呑みを載せたウツギが拓海の待つ部屋の中へと戻ってきた。
「お待たせしました。ささ、良かったら熱いうちにお飲み下さい。身体が温まりますよ。」とウツギは湯呑みにお茶を注いで拓海に差し出した。
拓海はウツギに「ありがとうございます。」と礼を述べ、湯気が立ち上る湯呑みを手に取る。
「あつつ……」と拓海は湯呑みの熱さを感じつつ、そっとウツギの淹れたお茶に口をつける。
拓海の口の中で熱さを感じる中、ほんのりと緑茶特有の苦味と甘みが広がっていき、その馴染み深い味にほっと身体が温まるのを感じていた。
「このお茶、美味しいですね。何と言うか、なんだか懐かしいというか…落ち着いていくのを感じます。」
「ふふ、それは良かった。その様子だと、大分落ち着きを取り戻せた様ですね。」
ウツギはテーブルの上に頬杖を突き、優しい眼差しで拓海の顔を見つめていた。ウツギの傍らには湯気の上がる湯のみが置いてあり、恐らくウツギが飲む為にいれたものであることも伺える。
「えぇ、とウツギさん。俺…」と拓海はやや躊躇いがちに、その日あった出来事を全てウツギに打ち明ける。
彼が朝、朧光神社で聞いた『黒面の鬼』に関する伝承、そして拓海が山の祠を調べに行き、そこで体験した出来事の全て、妹であるさくらや、同じ宿泊者である未来と香織の体験した怪現象を語っていく。
ウツギは拓海の話す内容に対して、口を挟む様子はなく、うんうんと頷いて相槌を打っていた。
だが、拓海の口から白いシャツを着たサスペンダーの付いた少年という言葉を聞いた途端、ウツギは突如として固まった。拓海はウツギの急な動きに驚き、話す口を閉ざして目を見開いた。
「ウツギさん?急にどうしたんですか…」と拓海は不安げな表情に変わり、ウツギの顔を覗き込む。
「あぁすみません、まさか私の連れが彼女達に接触していたとは思わなくて…私も驚いてしまいました。」
拓海から顔を逸らし、軽く咳き込みながらウツギはそう答えた。拓海はそんなウツギの様子を心配し、彼の元まで近づいて背中をさすっていく。
「まさか、ウツギさんのお連れさんとは思いませんでしたよ。その…男の子は今どこに?一緒に居るようには思えないんですが。」と拓海が疑問を掛けると、ウツギはもう大丈夫と言ったジェスチャーをして見せる。
「はは、あの子は私の泊まっている部屋の隣にある月光の間に居ますよ。名前はソラと言います。」
「ソラ君ですか。あぁそうだ、差し支え無ければそのソラ君の名前ってどう書くんですか?」
ウツギは腕を組み、軽く空を見上げて考え込む。
「えぇとですね、確か「空」と言います。よくある天気などで書かれる青空や曇り空とかの空です。」と思い出したかのようにウツギら人差し指を立てながら説明をした。拓海は頭の中でその漢字を思い描き、「なるほど…」と小さく呟きながら頷いた。
それと同時に、拓海は今までウツギの名前の読み方や下の名前を聞いていないことを思い出した。
「そういえば、まだウツギさんの名前…詳しく聞いてませんでしたね。」と拓海は恐る恐る聞いてみる。
ウツギは、一度だけキョトンとした様子だったが、思い出したかのように手を打った。
「あぁ、私の名前ですか。一応、此方ではウツギと名乗っていますが…私の名前は正しく言うならば、ウツロギと申します。」とウツギは普段あまり聞き慣れない名前を名乗っていく。
「ウツロギ、ですか……随分と変わった名前ですね。」
「えぇ、その様に名乗ったのには…少し事情が有りましてね。」とウツギは躊躇いがちに語っていた。
「……もしかして、ウツギさんのその名前の理由ってもしかしてそのお面と白手袋に由来があるんですか?」
あまり踏み込むべきでは無いと思いつつ、拓海はウツギのその姿に対して質問を投げかける。
「実はですね、私少し昔…火事に巻き込まれてしまいましてね、その時に全身を火傷してしまったんです。それのせいで、人前に肌を出せないもので、こうして何もかもを覆い隠しているんです。」
ウツギの返答に、拓海は余計な事を言ってしまったという後悔と同時に、かつて見た夢の記憶が蘇る。
「───もしかして、あの時見た夢の火事は…」と拓海が言いかけた瞬間、ボーン、ボーン、ボーン…と突如として大きめの時計の鐘が部屋の中で鳴り響く。
「おや、もうこんな時間ですか。時間が過ぎるのはとても早いですね。」とウツギは壁に掛けられた時計に視線を移す。時計の指す時刻は既に、3時を指していた。
拓海はまるで釘付けにでもなったかのように、3時を告げる時計を見つめていた。ウツギは時計へ注がれていた視線を外し、拓海の方へと顔を向けていく。
「拓海さん。」とウツギは静かに拓海の名前を告げる。
拓海はいきなり名前を呼ばれ、ビクッと身体が跳ねたが、何かを感じ取り、背筋を伸ばしてウツギに向き直る。静かな部屋の中で、ウツギと拓海の双眸が視線を交わしていく。
「昨晩は無理を言って調べて欲しいと言った手前、貴方はよくここまで調べてくれましたね。私から、貴方へ深くお礼を伝えさせてください。」とウツギは改まった様子で深々と頭を下げる。
「いえいえ、これもウツギさんの為と言うより、自分の為でもあるんです。ある程度の考えも纏まってきたし、これで黒面の鬼の謎だって」と拓海が言いかけた時、拓海はハッとした様子で再びウツギの顔を見る。
「待って下さい、あの…もしかしてなんですけど。」と拓海はバクバクと心臓が早鐘の様に打つのを感じていた。だが、ここで躊躇ってしまったら何が大事な話を逃してしまいそうな気がして焦りを見せる。
「ウツギさん、もしかしてなんですが…黒面の鬼は、本当は罪を犯したのではなく、ただの事故が原因で朧光神社を燃やしてしまったのですか?」と拓海はウツギの方に、身を乗り出しながらしっかりと目を見る。
ウツギの返答はなく、正座をして手を揃える。
拓海は何も言わないウツギに対し、何か良からぬ事を言ってしまったんじゃないかと不安が脳裏を過ぎる。
「─────ありがとうございます。やはり、貴方で良かった。」とだけウツギは呟き、徐に立ち上がる。
ウツギは静かな足取りで、拓海へと近づいていき、彼の傍に座ると、拓海の手を白い手袋の両手で包み込む。じんわりと優しい温かさが、拓海の手に伝わる。
「拓海さん、私はあなたにとても感謝しています。紫色の根付を持っていますか?あれは、私から貴方へ贈った御守りです。どうか、どうか肌身離さず持っていてください。明日の朝、きっと貴方は更なる困難が立ち塞がることもあるでしょう。ですが、それはきっと貴方の手でその最後の困難を打ち破ることは出来ます。どうか、諦めないで下さい。」とウツギは優しい声で拓海に語り掛ける。拓海は、今この手を離したらウツギが消えてしまいそうな感覚に陥り、ゆるゆると首を横に振る。
「ウツギさん、貴方これから何をしようとしているのかは分かりませんが……俺は」と言いかける拓海の口に、ウツギの人差し指が当てられる。
「私は明日、この宿を発ちます。ですが、勘違いをしないでください。これは今生の別れではありません、貴方のお陰で、私はとても満足出来たのですから。」とウツギは、まるで母親が我が子を慈しむように優しく拓海の頬を撫でる。
「さぁ、もう遅いですから……部屋に戻りなさい。」
「いや、ウツギさん。それは、まだ……!」と拓海がウツギに縋り付く。だがウツギは悲しみを孕んだ瞳で、ゆるゆると首を横に振り、白い手袋の手で拓海の目をそっと覆い隠していく。
そのまま拓海の意識は、まるで深い眠りに落ちていくように、深く沈んでいく感覚に陥っていく。
次に拓海が目を覚ました時には、朝の柔らかい陽射しが射し込む部屋の中だった。
拓海が身体を起こすと、昨晩の出来事がまるで夢の中の出来事だった様に布団の中に居た。
拓海の右手の中には、あの紫色の根付と小さな鈴が付いた木彫りの狐が握られていた。
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