第15話 安息のひと時
拓海が朧月の扉を開くと、昨日と同様に美しい着物を身にまとった男女のスタッフがトレイを手にして立っていた。彼らは拓海の到着を待ちわびている様子だった。スタッフの一人が礼儀正しく拓海に声をかけた。
「こんばんは拓海様。夕食の時間になりましたので、こちらをお持ちしましたが、お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」男性スタッフの声は優しく、丁寧さがにじみ出ていた。拓海は一瞬、部屋にいるさくらの姿を確認した。彼女は楽しそうな笑顔で拓海を見つめていた。
「はい、どうぞお入りください。」と拓海は快く承諾し、スタッフを部屋の中へと案内した。彼らは丁寧に歩みを進め、拓海とさくらが座っているテーブルへと近づいていく。拓海は期待に胸を膨らませながら、スタッフが運んできた料理の香りが漂うのを感じた。
拓海とさくらは、心からこの夕食を楽しみにしていたようだった。スタッフの手で運ばれてきた料理は、今日は肉料理がメインとなっていた。
熱々の皿からは、ジューシーで香ばしい香りが漂っていた。目にも美しい焼き目がついた肉は、外側はカリッと焼き上げられ、中は柔らかくジューシーな状態だった。肉の表面には、月華荘の特製ソースが絡みついており、その香りが食欲を掻き立てていた。
周りを取り囲む彩り鮮やかな野菜も、フレッシュで野菜本来の旨味を感じさせていた。料理の見た目からも、一口食べる前から舌鼓を打ちたくなるような魅力が溢れ出していた。食欲をそそる誘惑に、拓海とさくらの目は一層輝いている。
「おぉ~!今日も凄い豪勢だ!」とさくらは目をキラキラと輝かせながら、テーブルに並んだ料理を見つめていた。
「本日は、この朧谷温泉街で採れた野菜とお肉をふんだんに使った料理となります。どうぞ、熱いうちにお召し上がりください。」とスタッフは恭しくお辞儀をして静かな足取りで朧月の間を後にした。
さくらは待ちきれない様子で、拓海に食べていいのかと視線を向けていた。
「ねぇお兄ちゃん、食べていいんだよね?!」
「まず食べる前にやることがあるだろ。」
さくらが目の前の料理にかぶりつきそうな様子を慰めながら、拓海とさくらは丁寧に手を合わせた。
「いただきます。」と二人で口を合わせ、テーブルに並べられた料理に手をつけ始めた。
拓海とさくらの二人は、心ゆくまで楽しい食事のひと時を過ごしていった。
昨日の魚料理も美味しかったが、今日の夕食はさらに素晴らしいものだった。
二人は笑顔で話しながら、美味しい料理を堪能していく。
時間は早く過ぎていき、拓海は時計を見た。
もう20時30分を回り、拓海は温泉に入ることを考え始めていた。
「さて、と…そろそろ風呂に入らないとな。」
「あ、お兄ちゃん温泉にでも入るの?」
「あぁ、これからゆっくり入ろうと思ってな…」
拓海はそう呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。
さくらは心配そうな目を向けながら、拓海へ呟いた。
「温泉入るのはいいけど、またいつぞやの時みたいにのぼせないでよね。」
図星だったのか、拓海はそっと目を逸らす。
「だ、大丈夫大丈夫…流石に今回はきっと、多分。」
「とりあえず、あまり長湯はしないで。」
「はいはい、じゃあ取り敢えず閉まる前に入りますよ。」
拓海は心配するさくらを尻目に、すごすごとした足取りで朧月の間を後にした。
拓海は着替えを持ち、静寂に満ちた廊下の中を歩いていく。真夜中に歩いていく廊下の雰囲気とは違い、まだ人の気配が残る廊下の中を拓海は静かに歩みを進めていく。その廊下の道中、廊下から覗く月灯りの下でカメラを構えて外の景色を撮る男の姿があった。
拓海はその男性の様子に気づき、思わず足を止めていた。拓海はカメラを構えている男性につられて窓の景色を眺めてみる。
窓の外から見える景色は、とても幻想的な美しさがそこに彩られていた。四角く切り取られた窓枠からは、池の庭石が整然と並んでおり、その池には青白く輝く明るい月が映し出されていた。庭はとても手入れが行き届いており、時折鹿威しが良い音を奏でながらその侘び寂びを感じさせる風情ある景色を映し出していた。
拓海は、この時初めて廊下の窓から覗く夜の景色が美しいものだと実感し、あまりの美しさに息を呑んでいた。
「凄いな…こんなに綺麗だったんだ。」と拓海は思わず感嘆の息を漏らす。
「ここからの景色、とても良いですよね。私も思わずカメラを構えてしまいましたよ。」
拓海の呟きに対し、返答をするかのように声が掛けられた。
意識の外から声を掛けられ、拓海は驚いた様子で先程の男性の方へと顔を向けた。
先程まで外にカメラを構えていた男性は、その手に一眼レフを握っていた。
月明かり越しに照らされた男の顔は、歳相応ながらも整った精悍な顔立ちをしていて、優しそうな表情を浮かべていた。
「こんばんは、もしかして貴方もここの宿泊者ですか?」と、カメラを持った男性が拓海に問いかけた。
「あぁ、はい。昨日から朧月の間に泊まっている、藤原拓海と言います。貴方は?」
「私は
にこりと優しい笑みを浮かべながら、松本は拓海に笑いかける。松本が軽く視線を落とし、拓海の手に持っている着替えを持った手を見て再び顔を上げる。
「もしかして、今から温泉ですか?」と松本は問いかけた。
「あぁ、はい。今日も今日で色々ありましたから、その疲れを癒そうかと思って今向かっているところでした。」
「なるほど、そうでしたか…でしたら、この先にある温泉には露天風呂もあるそうですから…機会があればどうぞ入ってみてください。この時間だと、心地良い夜風と月明かりもあって、とても気持ち良いんですよ。」
松本はにこりと優しい笑みを浮かべながら、拓海に露天風呂を勧めていた。
「露天風呂…!確かに良いかもしれませんね。教えてくださりありがとうございます。」と拓海は松本にお礼を伝えた。
拓海は少し気恥ずかしそうにはにかみながら、軽く会釈をしてその場を後にした。
拓海は暫くの間、松本の背中を見送っていたが、自身もまた温泉に向かおうと再び歩みを進めていった。
拓海は男湯へと向かうため、静かな廊下を進んでいった。廊下には薄暗い灯りが灯り、木のぬくもりが漂う木造の建物が広がっていた。
拓海が温泉に近づくにつれ、湯気の香りが立ち込めてきた。男湯の入り口に到着すると、重厚感のある木の扉が彼を出迎えた。
拓海はゆっくりとドアノブに手を掛け、扉を開ける。
彼が扉を開けると、薄暗い中に湯気が立ち込めているのが見えた。足音を静かにする拓海は、脱衣所へと進んでいった。脱衣所は檜の木の香りが漂い、湯気で曇った鏡が壁に掛けられていた。拓海は脱衣ロッカーに着替えをしまい、靴を脱いで裸足になっていった。
露天風呂の入り口に進むと、男湯特有の温泉の景色が広がっていた。湯船はぬるめの温度で、湯面には湯煙が立ち上り、微かな波紋が広がっていた。
拓海はゆっくりと足を浸し、心地よい温もりを感じ取った。
湯船から広がる景色は、木々に囲まれた庭や天空に広がる星空が煌めいていた。
湯煙と共に湯面に映る月の光が、柔らかな輝きを放っていた。
拓海はしばらく景色を眺めながら、心が穏やかになっていくのを感じた。
彼は湯船から身を乗り出し、湯煙に包まれた露天風呂の周りを見渡した。
誰もいない温泉の中、まるで貸切のような気分に浸りながら、拓海はゆっくりと時間を忘れ、湯船に浸かりながら心身を癒していった。
温泉の効能が徐々に身体に染み込み、疲れやストレスが和らいでいくのを感じた。
拓海は男湯の静寂な雰囲気と温泉の癒しに包まれながら、心地よい時間を過ごしていった。
拓海は温泉に浸かりながら、落ち着いた気持ちの中で鼻唄を歌っていた。
「本当、まるで夢みたいだな…何もかもを忘れて、こんな穏やかなひと時を過ごせたら良いな。」と拓海は誰に言うまでもなく、静かに呟いた。
思い返すと、この二日間であらゆることが起きていた。
朧谷温泉街の特殊な風習、黒面の鬼という存在、鬼の祠、そしてその黒面の鬼に纏わる伝承など多くの情報を手に入れた。
まだまだ分からないことも多いが、拓海は半ば微睡みながら考え事をしていく。
「にしても…あの時見た夢、どうして火事なんて起きたんだろうか。」
拓海は空を見上げ、ぼんやりとした頭で考え込んだ。
自身が見た夢にはあの彼岸花が咲き誇る丘、そして立ち込めていたあの不穏な黒煙と人だかりがあった。
「昔、あの時…誰かが、火事を起こしたとして、その季節って…秋」と拓海が言いかけた途端、急に拓海の脳裏にある考えが浮かんだ。
バシャリと大きな波飛沫を上げ、拓海は勢い良く立ち上がった。
「………ちょっと待て。俺はいつから、あの景色が秋の出来事だと思ったんだ?」
拓海はわなわなと震える手で、顔を覆った。
少しずつ、記憶を辿っていくが…あの時見た夢はまるでただの白昼夢だったかのように曖昧かつ朧気になっていくのを感じていた。
「ダメだ、時間の経過と共に記憶が薄れていくような気がする…」
拓海は顔を顰めながら、もう一度温泉に浸かり直した。
「……なんと言うか、何か不自然な気がする。
気のせいだと良いけども、いや…もしかしたら、きっとウツギさんなら何か知ってるのかもしれない。」
拓海は一抹の不安を抱きながら、そっと自分の首に手を触れた。
拓海の首には、まだざらついたような跡が残っているのを指先で感じ取った。
大きな溜息を吐きながら、拓海は水面に映る自分の顔を見つめた。
多少なりとも、元気に振舞っているとはいえ…やはり疲労が蓄積しているのか、自分では思っている以上に疲れた顔をしていた。
ゆらゆらと揺らめく水面を見つめながら、拓海はそっと顔を上げた。
「また同じ夢を見ないといいが…いや、あまり考えすぎない方が良いかもしれないな。宿泊予定だって、まだ二日も残っているはずだし、せめて残りの時間を妹と一緒にゆっくり過ごしたいものだな。」と拓海は湯煙が立ちのぼる中で静かに呟いた。
湯船からゆっくりと立ち上がり、拓海は露天風呂を後にした。
さっぱりとした気持ちになり、拓海は脱衣所で身体を拭きながらぼんやりと考え込んでいた。
これからの予定、まだまだ残る朧谷温泉街の謎、そして自分が体験したことに対する矛盾などが彼の心の片隅で燻っていた。
『今はもうこれくらいにして、明日また考えよう。』と拓海は心の中で呟き、着替えを済ませて眼鏡をかけた。
着替えを済ませた後、拓海は先程まで着ていた服をまとめて脱衣所を後にする。
「忘れ物は無いな…さくら、先に寝てるかもしれないしそろそろ戻らないとな。」と拓海は腕時計の時間を確認すると、時刻は既に22時まで迫っていた。
「……本当に、何も無いといいけどな。」と拓海は小さく呟いた。
正直なところ、彼は森川が言っていた『近いうちに嫌な事が起きる』という言葉が、彼の中で引っかかりを見せていた。
拓海は朧月の間へと戻る道中、ふと廊下の中で立ち止まる。窓から見える景色は、先程よりも夜が深くなり、深い夜の空が広がっていた。
「……黒面の鬼、か…」と拓海が呟いた時、大きな影が揺れ動き、建物が振動するような唸り声のようなものが拓海の耳に入ってくる。
「…なんだ、この音。昨日は聞いたことがないけど…まさか咆哮か?」と拓海は空を見上げながらその音を聞いていた。
その時、拓海の中に言いようのない胸騒ぎが広がった。
今日一日、何かしらの不可解な出来事に巻き込まれていた。この地の底から響くような咆哮が、何かの予兆を告げるものだったとしたら?
そんな考えが拓海の頭を支配し、不安に駆られた様子で彼は朧月の間に向かうため、廊下を疾走していった。
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