第9話 鬼の祠(下)
拓海と男がお互い見つめ合うように
「あ、あの…昨日の人ですよね。」
拓海は喉から絞り出すような声で、男に声を掛ける。
男は黙ったまま、ただ静かに拓海を睨みつけるばかりだった。拓海はこれ以上何かを言える空気ではなく、そのまま無かったかのように立ち去ろうと踵を返す。
「おい、あんた。あの夜、俺を見たな。」
怖気が走るような、低く暗い声が拓海の背に掛けられた。心臓を鷲掴みにされた様な、冷たい嫌な感覚が拓海の身体に走っていくのを覚えた。ゆっくりと振り返ると、男は拓海を睨みつけるばかりだった。
「な、何の事ですか。」
「惚けるな、俺は、お前を見たぞ。」
拓海の額からは、冷たい汗が滲むのを感じていた。
あの夜の恐怖を思い出し、拓海の信頼は早鐘を打つように脈打つのを感じていた。ギュッとショルダーバッグを掴み、拓海は男を見たまま立ち竦むばかりだった。
男はそんな立ち竦む拓海に対して、お構い無しの様子でずかずかと拓海の方へと近づいていく。
拓海は逃げ出したい一心だったが、目の前の男が怖くなってしまい、動き出すことが出来ずにいた。男は拓海の目と鼻の先まで近づくと、そのボサボサの髪の隙間から覗く鋭い目が拓海の瞳を捉える。
「ひっ…」と小さな声を上げながら拓海は震え上がる。
自分が何をされるかだなんて、想像すらつかない。
ましてや、夢を含めて三度も目にした男の存在など、拓海にとっては恐怖の対象そのものでしかなかった。
「く、黒面の鬼…」と拓海は男の目を見ながらボソリと口から言葉が漏れた。
その言葉を聞いた瞬間、男の顔からは驚きの表情が浮かんだ。そんな驚いた表情も束の間、男は拓海の首に向けて手を伸ばし、ギリギリと強く絞めだした。
「かっ、は……」
拓海は咄嗟に抵抗しようと男の腕を掴むが、人とは思えないくらいの強い力で振りほどくことが容易では無かった。
「何故お前がその名前を知っているのか、どこで聞いたんだ?教えろ。」
男の殺意のような、憎しみの様な強い感情の籠った目が拓海を睨み付ける。男は拓海の首を絞めながら徐々に持ち上げていく。拓海はどうにかして言葉を発そうとするが、徐々に気道が締め付けられていくせいか上手く言葉が出なかった。
「教えるつもりもないのか、ならばお前をここで…」
「狐面!狐面の男が、教えたんだ!」
拓海はようやく振り絞って出した言葉に、男は急に手を離した。拓海は開放されたと同時に地面にぶつかる様にその場に落とされる。
激しく咳き込みながら、拓海は男を見ると男は動揺したようにブツブツと何かを呟いていた。
男は拓海に気づくと、見下ろす様に一瞥した。
「お前はこれ以上、俺に関わるな。さっさと荷物でもまとめて帰れ。」
男はそう冷たく言い放つと、倒れ込んだままの拓海の脇を通り抜けて何処かへと立ち去っていった。
拓海は次第に意識が朦朧としていき、彼の意識はそこでプツリと途切れた。
しばらくの間、拓海の意識は闇に包まれていた。
時間の流れは感じられず、深い眠りの中に沈んでいるようだった。やがて、彼はゆっくりと眼を開けた。
彼が目を開けた途端、視界いっぱいにまばゆい光が目に飛び込んできた。拓海は瞼を細め、周囲を見渡した。目の前には広がる黄昏の空が広がっており、そこから降り注ぐ美しいオレンジ色の光が丘一面を照らしていた。息を呑むほどの美しい光景に、拓海は思わず立ち尽くす。丘の上には彼岸花が咲き誇り、風に揺れていた。
その花は鮮やかな赤色を纏い、幽玄な美しさを放っているようだった。拓海は心が洗われるような感覚に包まれながら、彼岸花の咲く丘の上に立っていることに気づいた。この場所はどこなのか、何故ここにいるのか、拓海には分からなかったが、その美しさと静寂さが彼を魅了して離さなかった。
「ここ、もしかして死後の世界か…?」
拓海は周囲を見回しても、その場所が一体どこなのか見当がつかない様子だった。
幻想的な景色は、心を奪われるほどに美しいものだったが、拓海は半ば茫然としたままただ眺めているだけだった。
「なんか、見たことある気がするけど…」
しばらく拓海が彼岸花の咲き乱れる丘を歩いて行くと、山道と思われる道に辿り着いた。
山道を辿りながら、拓海は一度立ち止まり、山道から見える街並みを見る。
この山道から見える街並みは、拓海が訪れた朧谷温泉街とよく似た景観が広がっていた。
「あれ、ここもしかして…朧谷温泉街か?」
拓海は自分の記憶を辿るように、山道を降りながら街を眺めていた。
拓海の知っている街の姿とは異なり、やや小規模で街というよりも村と形容した方が正しいと言えるほどの街並みが広がっている。
「一度街の方に降りてみるかな」と拓海はそう言って村の方へと足を踏み入れようとした途端、けたたましく鐘の音が村中に響いていた。
拓海は自分が入ったことがきっかけで起きたのかと思ったが、どうやら様子が違ったようだ。
カンカンカンカンと激しく鳴らされる鐘と、慌てたように走り回る街の人々の姿が目に入った。
何が起こっているのかと思いながら、拓海も街中に入って行くと、その村の一角から燃え盛る赤い炎と黒煙が立ち昇っていた。
「火事だー!!」と誰かが叫ぶ声が上がり、街の人々は慌てふためきながらバケツに水を汲む者や野次馬のように人だかりができる者もいた。拓海はその人だかりに近づくように、燃え盛る場所へと向かって走っていく。彼はしばらく走っていくと、どこか見覚えのある道であることに気づいた。
「もしかして、この通り…朧光神社か?!」
拓海は先程自分が置いていった三人の姿を思い出し、血の気が引いたように青ざめながら走っていく。
朧光神社と思われる場所では、人だかりが密集して集まっていた。拓海はその人だかりの中をくぐり抜けて入っていく。
周囲を見回すと、拓海は初めて周囲の人々が普通とは異なることに気づいた。彼は周囲を見回すと、集まっている彼らは一様に着物を着ている人々が多くいた。
まるで拓海自身がタイムスリップをしたかのような錯覚を覚えるほど、集まる人々は皆着物姿で燃え盛る朧光神社を見つめていた。
拓海はその様子を見て、「これはきっと誰かの記憶だ」と確信めいたものを感じ取っていた。
拓海がそう確信した時、ふと密集する人だかりの中で青ざめた様子で燃え盛る神社を見つめる一人の人間の横顔が目に入った。
拓海はその青ざめた様子の人間の顔を見て、どこかで思い当たるところがあると感じた。
「今の人、あの顔は…」と拓海は何かを思い出そうとした瞬間、突如として拓海の視界が暗転し、まるで落下しているような感覚に陥った。
拓海が次に目を覚ました時には、目の前には木張りの天井と、不安げな様子で拓海の顔を覗き込む賢治と見知らぬ男の顔があった。
「良かった、目が覚めたか拓海さん!」
賢治が泣きそうな顔で笑顔を浮かべており、見知らぬ男は賢治の背中を軽く擦りながらうんうんと頷いていた。
「あれ、俺一体どうして…」
混乱する頭を抑えながら、拓海はゆっくりと身体を起こす。じくりと、首の痛みが走って拓海は首を擦った。
包帯が首に巻かれており、どうやら手当てをしてくれた人がいたようだった。
「あまり動かない方が良いですよ、貴方さっきまで山道の真ん中で倒れていたんですよ。」
賢治と一緒にいた見知らぬ男は、拓海の顔を心配そうな目で見つめていた。
「えっと…」と拓海は不思議そうな顔をして、男の顔を見つめた。
「あぁ、自己紹介を忘れてましたね。僕はこの朧谷温泉街周辺の山岳のガイドを行っている、
「あの後の記憶が曖昧なんですけど、俺の身に一体何があったんですか?」
「お前さん、何も覚えてないのか?」
「えぇ、確かに帰ろうとして… それで…」
拓海は思い出そうとするが、頭の中が急に霞がかかったようなぼんやりとした記憶しか蘇ってこないようで、上手く思い出すことはできなかったようだ。
「すみません、その後に何があったかやっぱり思い出せません。」
「無理もないよ、僕が通り掛かった時は既に君は気を失ってかなり時間が経っていたようだし… 首も変な痣がでてたから、何かのトラブルに巻き込まれたのには間違いないと思うよ。」と勇介の言葉を聞き、拓海はそっと首を擦る。あの時、確かに一度街へと戻ろうとしたが… 誰かと会ったような気がする。
一瞬拓海の身に、悪寒が走った気がして身震いをした。
「そういえば、今何時ですか?」
拓海は思い出したかのように、賢治と勇介に時間を尋ねる。
「今は13時だね、どうしたんだい?」と勇介は答える。
それを聞いて、拓海は11時過ぎには確かにこの賢治の家を出たことを覚えていた。
「俺、2時間も気を失ってたのか…」
拓海はポツリと呟きながら、大きなため息を吐いた。「にしても、拓海さんが山道で倒れているって勇介さんから聞いた時はびっくりしたよ。その上でお前さんが急に魘されてるしでもう… 生きた心地がしなかったよ。」
ホッとしたようで語る賢治に対し、拓海は申し訳なさそうな顔をした。
「本当に申し訳ありません、心配させてしまって…でも、本当に何があったのか、全く覚えていないんです。」
拓海は不安そうに賢治と勇介を見つめたが、頭の中では断片的な記憶が
「心配しなくてもいいさ。拓海さんが無事でここにいるのが一番だから。後のことはじっくり考える時間を取ればいいんだ。」と拓海は頷きながらも、彼は一人考え込んでいた。
自分が何者かに襲われたのだろうか?そして、その出来事が何か重大なことに繋がっているのかもしれないという不安が心をよぎった。
「拓海さん、さっきまで気を失ってたんですから、今は少し休んでいきましょう。力を取り戻すためにも、ゆっくりと身体を休めることが大切です。」と勇介の声が響き、拓海は自分の無力さを痛感しながらも、一旦休むことが必要だと感じていた。
賢治の家でゆっくりと休息を取りながら、拓海は自身の記憶を整理しようと試みることにした。
燃え盛る神社、見知らぬ男、そしてあの青ざめた人の顔。
これらの断片を繋ぎ合わせ、真相を突き止める必要があるはずだった。
『何か、大事なことを見失っている気がする…』
拓海は漠然とした不安の中、どうにか自分の記憶の中を辿ろうと試みる。
そんな際、突如として拓海が身につけていたショルダーバッグが振動を始める。
慌てた様子で拓海はショルダーバッグを手に取り、中を開けると拓海のスマートフォンには着信が入っていた。
「すみません、ちょっと電話が…」と拓海は賢治と勇介に伝えて部屋を後にする。
通話をオンにし、耳に当てるとそこから妹の声が聞こえてきた。
『もしもし、お兄ちゃん?今どこにいるの?』
「もしもし、さくらか?どうしたんだ急に。」
『それはこっちのセリフだよ!お兄ちゃんたら、急に神社を飛び出して行くし、いつまで経っても帰ってこないし…街も変なことになってきたし……』
「ちょっと待って、さくらお前どこにいるんだ?」
『え?えぇと、今『茶寮』っていうカフェの近くにいるけど…』
「待ってろ、今行くからそこから動くな。もしかして未来さんと香織さんも?」
『う、うん…一緒だよ。』
「分かった、彼女たちにもその場に居るように言ってくれ。」
『待ってるからね!』
拓海は妹であるさくらの声を聞き届け、通話画面を閉じる。
そして急ぎ足で先程の部屋に向かい、賢治と勇介に声を掛ける拓海。
「すみません、ちょっと街の方でトラブルが起きたようなので失礼します!」
拓海はショルダーバッグを手に取り、賢治の家を後にした。
賢治と勇介が何か拓海を引き留めるような言葉を掛けたようだが、拓海はその言葉を聞く前に既に賢治の家を飛び出していた。
「待ってろよ、さくら、香織さん、未来さん。」
拓海はショルダーバッグをしっかりと抱えるように抑えながら、一目散に山道を駆け下りていった。
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