第8話 鬼の祠(上)
拓海は朧光神社を飛び出し、朧谷温泉街の中を全速力で走っていく。時折転びそうになりつつも、拓海はただ目的の祠を目指して走り続けていた。
街の中を走っていくと、昨日出会った自転車に乗った警察官の姿が見えて、拓海は立ち止まる。警察官もまた、拓海の姿を確認すると自転車から降りる。
「おはようございます、随分と急いでいるようですが何かありましたか?」と警官が拓海に問いかけると、拓海は息を切らしながら返答をする。
「す、すみません…この近くの山に、祠ってありませんか?」
「祠、ですか。もしかして、鬼の祠を探しているんですか?」
「はい、少し色々と調べていて、気になったのでそこに向かおうと思って走ってたんです。」
「あぁ、それならこの先をずっと真っ直ぐ行った先にある山の麓に祠はありますよ。」
警官は祠のある方向を指差して答えた。
拓海は「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べ、そのまま走り去っていく。
「あ、でも一昨日土砂崩れがあったから危ないですよ!」
警官は走り去る拓海の背中に声をかけたが、拓海はその言葉すらも聞こえないくらい、走っていった様子だった。
「大丈夫かな、あの人…」
不安げな様子で、走っていく拓海の背を見送りながら、警官は帽子を被り直しながら一人呟いた。
息を切らしながら、拓海は山の麓へと辿り着いた。
山の麓には、一昨日の土砂崩れの痕跡が鮮明に残っていた。道路は大きな穴が開き、土砂が散乱している。
巨大な岩や木々が崩れ落ち、周囲は荒れ果てた光景だった。拓海はそこから見える祠を目指して進む決意を固めるが、前方にはまだ安定しない土砂の山が立ちはだかっている。不安定な地面が崩れる危険性を感じつつも、拓海は慎重に足を運ぶ。崩れた土砂が足下でゆらめき、いくつかの小さな石が転がり落ちる音が響く。
彼は一歩ごとに地面の安定性を確かめながら、慎重に土砂の中を進んでいく。土砂崩れの爪痕は明らかに見え、その状況からは危険な領域に足を踏み入れていることを拓海は自覚していた。
しかし、彼にとって祠への思いは強く、進む道を選ぶしかなかった。不安定な地面の上を進みながら、拓海は常に周囲の状況に警戒しながら祠へと向かっていくのだった。
「祠、一体どこにあるんだ...」と拓海が呟く。
心配そうな表情で周りを見渡す彼の目には、土砂崩れのイメージが浮かび上がる。その時、大きな声が響き渡り、拓海は驚いた拍子に転がり落ちる。
驚いた声の主が駆け寄り、拓海を心配そうに見つめる。
「おい兄ちゃん、そんなところで何してんだ!大丈夫か?」と声を掛けた相手が言う。
「いてて... だ、大丈夫です」と拓海が痛む身体を起こし、土埃を払う。
相手は申し訳なさそうな表情で拓海に手を差し伸べる。拓海は差し出された手を取り、立ち上がった。
一緒に立ち上がった拓海に、相手は心配そうに尋ねる。
「兄ちゃん、あんたこんな場所で一体何してんだ?」と相手が尋ねる。
「あぁ、ちょっと調べ物をしてまして。この山の麓に、鬼の祠があるって聞いてきたんですけど…この状況だったので、何か知りませんか?」と拓海が尋ねる。
相手はばつが悪そうな表情を浮かべる。
「あぁ、それなんだがな…実は、一昨日の土砂崩れで祠も一緒に巻き込まれて壊れちまったようなんだ。」
「そうなんですか…と拓海が肩を落とす様子が伝わる。
拓海の落ち込んだ様子を見た相手は、拓海の肩を軽く叩きながら言った。
「そんなに落ち込みなさんな。それに、祠について知りたいならうちに来ないか。こんな危ない場所じゃ話をするのも大変だからな。」
「良いんですか?」と拓海が尋ねると、相手は大きく頷いた。
「そういや、自己紹介がまだだったな。俺はこの山に住んでる
「俺は朧谷温泉街へ観光に来た藤原拓海と言います。」
「そうかそうか、拓海か。なら拓海さんよ、この近くに俺の家があるから着いてきな。」
「ありがとうございます。」拓海は賢治に感謝の言葉を伝え、賢治の家へ向かうことにした。
賢治に連れられるまま、拓海が山の中を歩いていく。
程なくすると、目の前にはやや大きめな古民家が顔をのぞかせた。
「これが俺の家だ。今鍵を開けるから待っててくれ。」
「はい。」
賢治はズボンのポケットから鍵束を取り出し、鍵を回している。拓海は賢治の家に入る前に周囲を見回した。
手入れのされた広い庭が広がり、庭石や小さな池のようなものも存在しており、山の中とはいえ穏やかな雰囲気が漂っていた。
「ここ、賢治さんが住んでいるんですよね。すごく手入れが行き届いてるようですが…」
「あぁ、ここに住んでて長いよ。たまに山登りして来る人とか、観光客とかも来る時あるよ。」
ガラガラガラ、と引き戸が開けられる。
賢治は拓海に中へと入るよう促し、拓海は促されるまま賢治の家の中へと入っていった。
拓海が古民家に一歩踏み入れると、木の階段がギシギシと響きながら下りに向かう。
階段の踊り場には、古びた掛け軸や掛けられた絵画が飾られ、時代を感じさせる芸術作品が目を引く。
広い玄関に足を踏み入れると、古い木材の床が足元に心地よい音を奏でる。暖炉のある壁には、彫り込まれた木の装飾や古い家具が配置されている。
壁一面には、家族の思い出や山の風景を写した写真が飾られており、豊かな暖かさが漂っている。
部屋の奥には、広々とした畳の間が広がっている。
壁には漆喰が塗られ、自然の光が柔らかく差し込んでいる。畳の上には、低い木製のテーブルや座布団が並び、日本の伝統的な風情が漂っていた。また、古民家の天井には、梁や筋交いが見え、木の温もりが感じられる。天井からは、柔らかな光を放つ和紙の照明が下がっており、ほのかな光が部屋を包み込んでいた。
賢治は拓海を茶の間へと案内し、拓海は座布団の敷かれた席に座った。
「そんで、だ。拓海さんはどうやってこの『黒面の鬼』を知ったんだ?」と賢治が尋ねる。
「あぁ、それはですね…」
拓海は昨日の出来事や自分が調べた伝承、そして先程お婆さんから聞かされた『黒面の鬼伝説』について詳細を語った。賢治は拓海の話を真剣な表情で聞きながら相槌を打っていた。
一通り拓海からの話が終わると、賢治は腕を組みながら考え込んだ。
「なるほどなぁ、拓海さんはその『異形の鬼』を見たせいで悪夢を見たんだ。それでお前さんは、その原因を探るべくこうやって奔走してきたというのか。」
「はい、祠の話を聞いたのでこうやって山へ来たのですが…あの通り、土砂崩れのせいで祠が壊れてるようです。」
「まぁなぁ、俺もあの一昨日の土砂崩れはかなり大きかったからな。様子を見に来たら、祠があった場所は完全に土砂に呑まれていたんだ。」
「やっぱり、そうですか。」
落ち込む拓海に対し、賢治はそんな様子の拓海を励ました。賢治は拓海に質問を投げかける。
「そう言えば、お前さんが言っていたお婆さん、多分篠田さんが言っていた話は少し妙なところがあるな。」
拓海は賢治の言葉に対して疑問を抱いた。
「妙、とは…」
賢治は知っている黒面の鬼伝説を語る。
「いやな、俺が聞いた話ではこうだったんだ。」
賢治は自信の知っている黒面の鬼伝説を拓海へ語り始めた。
その話によれば、物語の流れは大体同じだったが、ただ一つ異なる点があった。
かつての朧谷村では、人々は恐怖に怯えていた。
それは彼らは鬼と化した男を恐れていたのだ。
夜が訪れるたび、村や山には徘徊する鬼の姿が現れると言われ、人々は恐怖に慄き、その鬼から身を隠すための規則を定めたという。
朧谷村では、22時から6時までは外に出歩くことを許されていなかった。
「鬼の真意や、その鬼に遭遇した者の証言はわからないが、朧谷村に住む者や旅人たちは、その異形を深く恐れ、近づかないようにしていたのだ」と賢治は語り続けた。
その賢治の言葉に対し、拓海は疑問を抱いた。
「しかし、朧光神社は一体どうして建てられたのですか?もともと近隣の山の神々を祀るための神社だったのでしょうか?」
そう尋ねると、賢治は頷いた。
「そうだ、あの神社は古くから山の神々を祀るために存在していた由緒ある神社なのだよ。」
賢治からの言葉を聞いた拓海は考え込んだ。
「なるほど、ではあの祠は、鬼を憐れむ心を持つ人々が建てたものだったのですね。」
賢治は納得げに頷いた。
「その通りだ。あの若者が何をしたのかは明確ではないが、彼らにとってその鬼の存在は恐怖の対象でありながら同時に、憐れむべき存在としても認識されていたのだよ。」
「そうですか…」
拓海は賢治の話を聞き終えると、しばらく考え込んでいた。
黒面の鬼に対する疑問が膨れ上がる中、彼は未だその結論のようなものが出てこない事を感じていた。
「どうだ拓海さん、何かしらの役に立てた様かね。」
「はい、まだある程度は今のところ得られた情報は集まったので…大分気は楽になりました。」
「役に立てたようで何よりだ、これから昼にするがお前さんもどうだ、食べていくか?」
賢治は立ち上がろうとしながら、拓海を見た。
拓海は壁に掛けられた時計を確認し、先程置いて行ってしまった三人を思い出す。
「いえ、今日は友達を待たせているので帰ります。」
拓海は丁寧に断ると、賢治は少し残念そうな顔をしながら拓海を見送った。
拓海が賢治の家を出る前、拓海はふと思い出したかのように振り返る。
「そう言えば、この街にいる駐在所の警官さんの名前って知っていますか?」
拓海は、この2日間で街中で出会った警察官の名前を知らないと思いながら、賢治に聞いてみた。
すると、賢治はあぁと声を上げた。
「健太郎さんのことか、
「それが、彼の名前ですか?」
「あぁそうだ、健太郎さんはこの朧谷温泉街に長い間勤務してる駐在所の警官さんでな。」
「あの人はこの街でもかなり信頼のおける人だよ。
毎日毎日、自転車でパトロールをしていてな、この街で犯罪がないか、他にも困ったことがないかといつも見て回っては助けてくれる良い人なんだよ。」
「へぇ、そうなんですね…結構慕われるなんて人柄の良い警官なんですね。」
「あぁそうだ、勤勉で優しい人だよ。彼がどうかしたかい?」
「いえ、元々この鬼についての話やこの街の規則についても聞いてましてね。それがきっかけという事もあったんですよ。」
「あぁなるほど、健太郎さんらしいな。」
賢治は笑いながら、拓海にそう語っていた。
拓海は賢治に「ありがとうございました」とだけ伝えて、そのまま家を後にした。
拓海は賢治の家から帰る道中、神社に置いてしまった未来、香織、さくらの事を思い出していた。
「急に飛び出して行ったから、流石に怒ってるかな…」
「いや、さくらなら確実に『後で何か奢ってもらうんだから〜』とか言ってそうだな。」
拓海は、この後のことを考えながら腕時計の時刻を確認した。
時刻は既に11時を回っていたようで、昼近い事が伺えた。
「取り敢えず山を降りないとな、土砂崩れの被害はまだ残ってる様だし…危ないから早めに行かないとな。」
拓海は急ぎ足の中、山の道を小走りに進んで行った。
ふと、先程賢治と出会った山の麓へと足を踏み入れると、そこには土砂崩れになった場所の傍らに佇むひとつの人影があった。
拓海には、その人影に見覚えがあった。
「あ……」
拓海は思わず声を出してしまい、その人影は拓海の声に反応するかのように振り向いた。
その人影は、昨日の朧光神社の帰り道、拓海とぶつかった男だった。男の姿は、昨日と変わらない草臥れた甚平を身につけており、長くボサボサの黒い髪が見えていた。身体はやけに細く、手足は痩せこけたように骨ばっているのが印象的だった。
目の前にいる男は、拓海の姿を確認するとそのボサボサの髪の隙間から覗く目が鋭く睨みつけていた。
拓海は、蛇に睨まれた蛙のように、ただ黙って男の方を見つめ返すだけしか出来なかった。
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