─────承・拡散する怪異
第6話 邂逅の朝
─────20✕✕年、5月3日。
意気揚々と月華荘1階のレストランへと向かうさくら。やや眠たげな様子で、その背を追いながらついて行く拓海。昨晩の異様な空気とは異なり、穏やかで明るい空と鼻腔をくすぐるような料理の匂いがまだ寝惚け気味の拓海の意識を強く刺激する。
月華荘のレストランへと足を踏み入れると、そこでは出来たての料理の数々が、真っ白なクロスの引かれたテーブルの上で所狭しと並べられていた。
レストランの奥側には、幾つかの丸いテーブル席が並んでおり、そこには何人かの宿泊客がそれぞれ食事を楽しんでいる様子が伺えた。
「お兄ちゃんこれ凄いね、どれから食べようか迷っちゃう〜。」興奮気味に辺りを見回しながら、さくらは大皿に盛られている料理を眺めていた。
「まず落ち着け、朝からテンション高いのは良い事だが食べる分量を考えてからにしろ。」
拓海は、まるで子供のように目を輝かせてはしゃぐさくらを
レストランには、朝の雰囲気に合うようなゆったりめのテンポのクラシックの音楽がBGMとして流れていた。
「でもほら、早い者勝ちだと思うから早く。」
「分かった分かった、ほらお盆とお皿持って並べ。
お前だってもう高校生なんだから、もうちょっと落ち着いて行動しろよ。」
「だって、こんなに楽しい時間が過ごせるなんて私もう最高だよ。」
「全く、一番浮かれてるのはお前じゃないか……」
拓海は呆れた様子で、目の前でトングを片手に次々と食材を山のように盛り付け始めるさくらを見つめる。
昨晩の出来事が、まるで嘘のように穏やかな朝を迎えられた事に、拓海は心の底から安堵していた。
『きっとあれは、ただの悪い夢だったんだ。』と自分自身に言い聞かせながら拓海は自分の皿に野菜を盛り付けた。
拓海とさくらは、空いているテーブル席に着くと、それぞれが盛り付けた料理を載せられた皿を見つめる。
「やっぱ色々あると、好きなだけ取ってしまうよなぁ。」
「まだ色々気になるものあるから、後でおかわりするつもりだよ。」
「それは良いけど、あんま食い過ぎるなよ?
これから街の散策もあるんだから、ペースは大事にな。」
「大丈夫大丈夫、朝ご飯とその時とでは別腹だから。」
自慢げに笑顔を浮かべて親指を立てるさくらに対し、呆れたように大きなため息を吐く拓海。
「何だその謎理論…まぁ良いか、まず食べようか。」
「うん、いただきまーす。」
「いただきます。」
二人は手を合わせ、自分達が盛り付けた料理を食べ始める。
昨晩の夕食と同等か、それ以上の美味しさに二人は舌鼓を打ちながら談笑を続けた。
拓海は一度盛り付けた料理を食べ終わり、おかわりとして次の料理を探そうかと思案していた。
さくらは既に席を立ち、新しく運ばれてくる料理に目移りしている様子で、しばらくは戻ってくる様子ではなかった。
『一旦昨日の出来事の情報整理でもするかな…小説の役に立てたいしな。』と拓海が考えながら、手帳を取り出した。
手帳を取り出す際に、ポケットから朧月の間の鍵が誤って落ちたことに気づかず、彼は手帳に書き記したメモに夢中になっていた。
彼がメモに夢中になっている最中、山のように料理を盛り付けたさくらがほくほくと嬉しそうな笑顔を浮かべながら戻ってきた。
「もう、お兄ちゃん、朝ご飯の最中でも小説のこと考えてるの?行儀悪いからそろそろやめて。」
とさくらが言いながら、嬉しそうな笑顔を見せた。
「あぁ、悪い悪い、つい色々気になってな…というかお前、さっきよりもずいぶんたくさん取ってきたな。」
と拓海が言いながら苦笑した。
「えへへ、結局迷ってて全部取ってきちゃった」
とさくらが得意げに笑って見せる。
「欲張りだな、お前…」と拓海が呆れつつも微笑んだ。
「というか、お兄ちゃんはもう良いの?」とさくらが尋ねる。
「お前が来るのを待ってただけだよ、今行ってくる。」と拓海が答え、立ち上がって次の料理を探しに向かっていった。
数々の料理を前に、拓海は手にした皿を見つめながらどれにしようかと悩んでいた。
目の前には魅力的な料理ばかりで、拓海は迷っているうちに目移りしてしまった。
テーブルの前で悩む拓海の背後に、一つの影が近づいていく。人影は拓海の肩を軽くポンポンと叩いた。
驚いて振り向くと、そこには清楚な服装に身を包んだ長髪の若い女性が立っていた。
「あの、すみません…これ、落としませんでした?」
若い女性は、朧月の間の鍵を手に困った表情を浮かべながらそれを差し出した。拓海は女性が手にした鍵を見て、焦りながら自身のズボンのポケットを叩く。
みるみるうちに、青ざめていく拓海。どうやらポケットから鍵を落としたことに気づかなかったようで、拓海は慌てた様子で女性から朧月の間の鍵を受け取った。
「す、すみません…ありがとうございます。本当に助かりました。」
「いえいえ、さっき落としたのを見ていたのですが…気づいた様子がなかったのでつい声をかけてしまいました。」
「あぁ、本当にすみません。ちょっと色々と仕事のことで夢中になっていて……」
申し訳なさそうに謝りながら、拓海は女性の顔を見た。
「あ、えっと……念の為、自己紹介した方がいいかな。」
拓海は迷いつつも若い女性に向かって言葉を掛けた。
「俺は藤原拓海と言います。朧月の間に宿泊しています。」
そう言って、彼は自己紹介を始めた。
「私は
香織は優しく笑いながら自己紹介した。
拓海はぎこちなく笑いながら、香織にお辞儀を返す。
「そういえば、先程お仕事に夢中になっていたと仰っていましたが…何のお仕事をしているんですか?
差し支えない程度で良いので、教えて頂けませんか?」
香織は興味津々な様子で質問をした。
拓海は一度言おうか躊躇ったが、折角知り合った相手だからと思いながら自身の仕事について説明した。
「実は、作家の仕事をしています。ホラーを取り扱う怪奇小説を書いていて、葉月蒼夜というペンネームを使っています。ご存知かどうか分からないのですが…」
香織は口を手で抑えながら目を丸くした。
拓海は香織の驚きを見て、怪訝な顔をしながら彼女の顔を覗き込んだ。
すると、香織はハッとした様子で、そそくさとその場から立ち去り、一緒に来ていた女性の席に向かっていく。
拓海は自分が変なことを言ってしまったのかと思いながら、その様子を眺めていた。
拓海は香織の不安そうな様子を見て、自分が何か悪いことを言ってしまったのかと心配しながらも、彼は再び料理に集中しようとテーブルに向き直った。
彼が料理を盛り付け終わった頃、香織が再び彼のところに戻ってきた。彼女の手には1冊の本があり、そのタイトルには『深淵の告白』と書かれていた。扉絵には禍々しい森の描写があり、それは拓海が著した作品の一つである。香織は顔を赤らめながら、拓海に本とサインペンを差し出す。
「あの…拓海さん、私実は葉月蒼夜のファンなんです。
もし良かったら、この本にサインを書いてくれませんか?」と言った。拓海は香織のそんな様子に面食らったのか、ぽかんとした表情で彼女を見つめていた。香織は慌てた様子で差し出した本を自分の元に戻しながら謝る。
「す、すみません…急にこう言われても困りますよね。」
「いや、まさかこんな所で自分のファンに会えるとは思わなくてね。分かった、ちょっとこれ置いてから書いてもいいかい?」と拓海は自分の手に持った皿を軽く掲げて見せる。香織は拓海が手に持った皿を見て、遠慮がちに後ろに下がった。拓海は、そそくさと席に戻り、料理を盛り付けた皿をテーブルに置いた。
香織と拓海の様子を見ていたさくらは、香織の元に戻ろうとする拓海を引き留める。
「ねぇお兄ちゃん、ちょっと。」
さくらはそう言いながら軽く手招きして拓海を呼び寄せる。拓海はさくらに顔を近づけると、彼女はそっと拓海の耳に顔を寄せて耳打ちする。
「お兄ちゃん、あの人とはどういう関係なの?もしかしてナンパでもした?」
「ばっ、違うわ!」
思わず大きな声を出す拓海、慌てて周りの様子を見ながらさくらに向き直る。
「お兄ちゃん、声が大きい。」
「はぁ、ナンパだなんて余計なことを言うな。彼女はあくまでも、俺の小説のファンだよ。」
「へぇ、こんな旅館でもお兄ちゃんのファンに出会えるなんてね。へぇ〜……」
さくらは頬杖を突きながらニヤニヤと笑いながら、先程拓海と話をしていた彼女たちの方に視線を向ける。
「だから、そういうやましい話じゃないから。」
「はいはい、分かってますよ〜。」
それでもニヤニヤと笑顔を向けるさくらをよそに、拓海は急いだ様子で香織の元に走っていく。
「すみません、お待たせしました。」
「今の人、拓海さんの妹さんですか?」
香織は拓海に本を差し出しながら質問した。
拓海は妹のさくらを一瞥しながら、香織の方に向き直る。
「あぁまぁ、うちの可愛い妹ですよ。ちょっとだけ、人をからかって遊んでますが、良い子ですよ。」
「ふふ、拓海さんと妹さん、とっても仲が良いんですね。羨ましいです。」
「そんな、いつもは妹のわがままに振り回されてるだけですから。」
拓海はそう言いながら、香織が持ってきた本の『深淵の告白』にサインを書き記した。拓海はサインを書き終えると、ペンと本を香織に返す。香織は嬉しそうに微笑み、愛おしそうに本を抱き締めた。
「私にとって一番の思い出になりそうです、本当にありがとうございます。」
「いえいえ、これほど喜んでくれるとは…俺としても作者冥利に尽きるばかりですよ。」
拓海は、ふと自身の腕時計の時間を確認する。
時刻は9時を回っており、これから妹と一緒に朧谷温泉街の散策をすることを思い出した。彼は、サインをもらって喜ぶ香織に向かって提案をした。
「あの、もし宜しかったら香織さんとそのお友達と一緒に温泉街回りませんか?」
「え、良いんですか?私たちもこれから街を散策する約束してたんですよ。」
「まぁ、二人で回るより四人の方が楽しいかなって思いましてね…」
香織は拓海の提案に対し、少しだけ考える素振りを見せた。彼女は後ろを振り向き、一緒に来ている友達の方を見た。彼女は友達の顔を見てから拓海に向き直る。
「では、後で友達にも伝えておくので…30分後辺りにロビーで合流してもいいですか?」
「あぁ、分かった。俺も妹にも伝えておくよ。」
「はい、ありがとうございます。」
香織は拓海に向かって深々とお辞儀をして、そのまま彼女は友達のいる席へと戻っていった。
拓海も香織が席に着くのを見届け、自身も妹と約束を取り付けたことを報告するべく妹の席に戻る。
先程自分で取り分けた料理が載せられた皿を見つめ、拓海は先に料理に手をつけようと考えた。妹の方は既に半分ほど食べ終わっていたのか、盛り付けた山のような料理の量は随分と減っていた。
さくらは戻ってきた拓海に、ニヤニヤと笑いながら先程の二人のやり取りを聞いてくる。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。さっきの人と楽しそうに話してたけど……何の話してたの?」
「あぁ、これからお前と一緒に温泉街回る予定だったろ?折角だからって、彼女達も一緒にどうかと誘ったんだよ。」
「へぇ、それって実質デートのお約束みたいじゃん。」
揶揄うように呟くさくらに対し、拓海は思わず噎せる。
「馬鹿、デートな訳ないだろ。大体初対面の人にそんな簡単に取り付けることなんてできるわけないだろ。」
「そうかなぁ、お兄ちゃんだって割と顔が良い方なんだし、多少なりともそういう話があっても良いんじゃない?いつも小説のことばっかり考えてる仕事人間なのは玉に瑕だろうけども。」
「さ〜く〜らぁ〜?」
「もうお兄ちゃん、そんな怖い顔しないでよ。
でも、折角の機会だから良いんじゃない?」
「兄を揶揄うんじゃありません、大体俺と彼女はただの小説作家とファンだ。その間で恋愛感情があっていいとはならんだろ。」と拓海はさくらに対して、釘を刺すように呟いた。さくらはそんな拓海に対し、不服そうに口を尖らせながら頬杖を突いた。
「それに、30分後にはロビーで落ち合う約束はしてんだ。お前もさっさとご飯食べて行く準備するぞ。」
「はいはい、そう急かさなくてもそうしますよ。」
さくらは拓海の方を一瞥し、残りの料理を食べ始めた。
その時初めて拓海はある違和感に気づき、部屋の鍵を入れたポケットの中をまさぐる。ポケットから出てきたのは、紫色の根付が付いた小さな木彫りの狐だった。根付と同じ色をした小さな鈴がついており、軽く揺らしてみるとチリチリと綺麗な音色が聞こえてくる。
『こんなのいつから持ってたっけ…』と拓海は不思議そうに思っていたが、彼は深く考えることをやめてそのままポケットの中へと再びしまい込んだ。
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