第18話 高揚

その後一週間はまた仕事に追われる日々が続いた。

 ただし、毎晩原口と晩酌して気晴らしは出来ていたので精神的には安定していた。

 週の真ん中頃には不動産屋から鍵を貰って引き渡しも完了した。

 次の土曜日、僕と原口は引越し作業の為上石神井の旧宅に向かった。

 車窓越しには見慣れた風景が広がった。

 上石神井での思い出がふわっと広がって感傷的な気分になった。

 そうこうしているうちに上石神井に到着し、旧宅へ向け歩いて行った。

 旧宅から残しておいた家電やその他諸々を運び出し、引越し屋に託した。

 運び出しが終わるとその足で新居に向かった。

 新居に到着する頃には既に引越し屋が積み下ろし作業を開始していた。

 僕達は新居に家具が設置されていく様子を黙って見ていた。

 しかし、決して退屈ではなかった。

 その様子はこれから始まる新しい生活や出会いを暗示しているようで楽しめた。

 そうこうしているうちに作業が完了した。

 作業員が出て行って二人きりになったところで原口が昼飯に誘ってきたので近所の中華屋に寄ることにした。

 近所のご飯屋は予めリサーチしてある。

 店に着いた僕は早速ラーメン餡掛けチャーハンセットを注文した。

 口コミサイトですこぶる評判が良かったからだ。原口も同じセットを頼んだ。

 チャーハンセットが到着すると、僕達は空腹もあり無言で一気に掻き込んだ。

 美味い。特に餡のとろみ具合が抜群で、パラパラのチャーハンと相性ピッタリだ。

 原口も同じことを考えたのか、一気に平らげてしまった。

 腹が満たされた僕達は此処で解散した。

 さて、帰ったら荷解きや諸々の作業をするか。

 その瞬間、あることを思い出した。

 美香に誘われて、此方から連絡すると言ったきりだった。

 悪いことしたな。僕は美香に電話をかけることにした。

 発信音が暫く続いた。

 今日いきなりは流石に違うよな。諦めて発信を切ろうとした頃、電話口から声がした。

「もしもし、阿部さんいきなりどうしました?」

「ああ、ごめんごめん。この前会える日を連絡したきり出来ていなかったから今かけた。夕方頃から大久保辺りでご飯食べようよ。」

「行きたいです、ありがとうございます!楽しみにしてます!」

 美香は凄く乗り気なようで此方も嬉しくなった。

 今日は楽しい夜になりそうな気がする。

 体が火照った僕はコンビニでエチケットグッズを購入して新居に戻った。

 新居で身支度を済ませて、大久保に着くと、美香が既に到着していた。

「美香さんお待たせ。ごめんね待たせて。」

「いえいえ大丈夫ですよ!今日は楽しみにしてました!」

 キャバクラの時とも原口と一緒の時とも違う、可愛らしい格好の美香は優しく微笑んだ。

 僕は思わず笑みが溢れてしまった。

 余りにも魅力的で、目のやり場に困ってしまった。

 美香が顔を覗き込んできた。

「阿部さん、何ニヤニヤしてるんですかー。お腹空いたから早くご飯食べたいです。」

「あ、ああごめんごめん。そうだよね。じゃあ早速行こう。」

 僕達は目的のレストランに向け歩き出した。

 歩いているつもりが地面から浮き上がっているような不思議な感覚に襲われた。

 高揚感が高まるとこうなるのか。

 レストランに着く頃にはすっかり心臓の鼓動が速くなっているのが分かった。

 走ったわけでもないのに鼓動が収まる気配がない。

 とりあえず席に着いたら落ち着くかもしれない。

 僕達は急いで入店手続きを済ませて予約した席に着いた。

 美香は楽しそうにメニューを眺めている。

 僕は胸騒ぎが落ち着くことに気を取られたのか、メニューが中々頭に入らない。

 そんな状態が続くうちに気が付くと美香が此方を不思議そうに覗き込んでいた。

 止めてくれ。あまり見つめられると落ち着きかけた胸騒ぎが息を吹き返してしまうではないか。

 僕はぎこちない笑顔を返し、偶々開いていたページのメニューを頼むことにした。

 メニューが到着する迄の間はずっと話し込んでいたが、殆ど頭に入ってこなかった。

 極限まで高まった緊張感が僕の情報処理能力を奪っていた。

 中身のないトークで場を繋ぎ続けたが、この時間がどこまでも長く感じられた。

 メニューが到着する頃には、僕の脳は疲れ切ったのか、食欲が増幅していた。

 頼んだメニューはあっという間に空になり、満たされない僕は更にメニューを追加した。

 兎に角脳が栄養を求めていた。美香はそんな僕に微笑みながらゆっくりとメニューに口をつけていた。

 美香が食べ終えたタイミングで此方に頷きかけてきた。

 満腹ということか。無言のメッセージを察した僕は定員を呼び、会計をお願いした。

 会計を終えて店を出た僕達は新大久保駅に歩いて行ったが、駅入口が視界に入った時、美香が僕の右手を握ってきた。

 ビックリした僕が美香の方を振り向くと、美香が上目遣いで僕を見つめていた。

 その目は潤み、トロンとしていた。

「阿部さん、もう私の気持ち分かっていますよね…?」

 全てを察した僕は、美香の左手を絡めながら握り返し、駅とは逆方向の新居方向に進路を変えた。

 これでいいんだ。僕だって本当はもう少し美香と一緒に過ごしたかったから。

 手を絡め合った僕達は新居に入り、お互いの体を絡め合った。

 絡め合いは朝日が昇るまで続いた。

 

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