第12話 狂気
電車が駅に着くと、僕は近くのコンビニに立ち寄り、ゆっくりと自宅へと歩いていた。
明日明後日は何をしようか。久しぶりに競馬場にでも行こうかな。
久しぶりに軽やかな足取りでマンションのオートロックを解除し、自宅の鍵を…あれ?開いてる?閉めた筈だが…忘れていたのかしら?…待てよ?見覚えのある靴が…まさか…あおい?でもあおいには合鍵は渡していない。そんな筈ない。何処からどうやって入ったんだ。先程まで軽やかだった足が急に重くなり、ドアを開けたまま金縛りのように動けなくなってしまった。
何分くらい経っただろうか。
静まり返った室内から何かを踏み抜く音がした。
僕は逃げようとしたが金縛りに遭った体が言うことを聞かない。
足音は徐々に大きくなって僕の方に迫ってきた。
目が慣れて、その足音の主がぼんやりと見えた…あおいだっ…
あおいは僕に気付いて立ち止まると、微笑みかけてきた。
「しょうちゃん、お帰り」
僕は考えるよりも先に体が動き出していた。
外に出て、薄明るい街灯のみに照らされた暗い夜道を無我夢中に走り続けた。
怖くて振り返ることは出来なかったが、ペタペタと足音がしているから追いかけて来ていることは分かった。
暫く走るとインターネットカフェの看板が見えた。
藁をも縋る思いでカフェのあるビルに入り、エレベーターのボタンを連打した。
二階を指したランプが一階まで下りてくる時間が永遠にも感じられた。
ランプが一階に下り、ドアが開く。助かった。
念の為ビルの入口に目を移すと、あおいがこちらに気付いたのが分かった。
暗闇でよく分からなかったが、いつもとは異なるボサボサの髪、全身白のワンピース、裸足に白のスニーカーの出立ちで、一目で分かるほどその姿は異様に映った。
僕の姿に気付くと、あおいは家の時と同様に微笑み、此方目掛けて突っ込んで来た。
僕は慌ててエレベーターの閉めるボタンを連打した。
エレベーターのドアはゆっくりと閉まっていく。まるで僕を以て遊ぶかのように。
閉まりかけた僅かな隙間からあおいの眼球が見えた。
背筋が凍り、全身の力が抜けて、お尻から後ろに倒れ込んでしまった。
しかし、間一髪エレベーターのドアがあおいを待たずして閉まった。助かった。一先ず身の安全は確保した。
鍵を掛けずに出て来てしまったが、命には換えられない。
あのあおいの顔は此方を仕留めにかかった目だった。
今後のことは取り敢えず店内で考えよう。
エレベーターは間も無く三階に到着した。
普段ならなんて事無い風景だが、今の僕には安心感を与えてくれた。
受付を済ませ、個室に入ると、一気に眠気が襲って来た。
冷静に考えれば無理もない。飲んで終電に帰宅と思ったら恐怖を感じながらそれなりの距離をダッシュしたんだ。
恐怖で疲労を覆っていただけでそれが表に出て来たんだ。
僕は吸い寄せられるように眠りに就いた。
…煩い。何処からか地鳴りのような音が鳴り響く。
僕はその音により目を覚ました。
恐らく周辺のブースからのイビキであろう。
傍迷惑であるが、インターネットカフェはこんなもんだ、諦めよう。
ドリンクバーでお茶を補給し、頭をリセットし、これからの方針について考えることにした。
とにかく一度家には帰らなければならない。それは確かだ。
そこからは幾つかの想定をする必要がある。
先ずはあおいが自宅に未だ潜伏しているかどうか。していなければ施錠の上潜伏だ。している場合はどうしようか。その場合は基本的に身動きが取れないことを意味する。
ベストは話し合いの上で帰ってもらうことだが、狂人となった彼女相手にその選択肢は望み薄だ。
次の手は一人で対応しない事である。
一つは誰かに同行してもらい、二人で説得すること。
ベストは彼女の友達だが、私の知り合いにいるのだろうか。
僕は携帯の電話帳と睨めっこした。
スクロールしていくが、当然いる筈もない。
山本さんにご迷惑を掛ける訳にもいかないし、そうなると原口に頼むしかないか。
僕は原口にメッセージを送った。
流石に未だ三時だから非常識なことはしない。
取り敢えず起きたら電話を掛けるようお願いした。
もし原口から断られるとなれば、最終手段は交番に駆け込む事だ。
本来なら住居侵入の犯罪の筈だ。
しかし、男女の揉め事に関知しないのではないか。
当事者同士で解決しろ的なことで門前払いだろう。
再度あおいに遭遇して危機を迎えない限りこの手段は現実的ではない。
ここまであらゆる想定をしてきたが、大きな見落としがあった。
あおいはもう僕の住所を把握している。
それに、施錠した筈なのに今日はオートロックを潜り抜け、室内に侵入している。
今後も同様の危機を何度も迎える事が容易に想像できる。
引越ししよう。今の自宅には大学時代から十年以上住み続けてきて愛着があるが、大きな危機を抱える以上、背に腹はかえられない。
それに、通勤の手間を考えれば多少家賃が上がっても元は取れる。
自分を納得させながら、決意を固めた。
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