第22話

「外道、しっかりしなさい外道!」


 深い焦燥が心をゆさぶり、息苦しさが胸を圧迫する。俺の頭の中はまるで吹雪の中を彷徨うような混沌とした静寂に包まれていた。

 思考の糸は断ち切れ、意識は一時的に停止するかのように、その場の空気が静かに蒸発していった。まるで白銀の霧が俺の周囲を包み込むかのように、知覚の境界が曖昧になり、現実との接点を見失ってしまう。


「――外道ッ!」


 まるで突然の雷鳴のような衝撃だった。

 彼女の声に呼び戻された俺はハッとし、改めて眼前の壁に――文字に目を向けた。


【田中参上ッ!】


「なんだよこのふざけた文字はッ!」


 叫ばずにはいられなかった。

 少しでも叫んで喚き散らさなければ、きっと俺は正気を保てなかった。

 田中という悪魔みたいな存在に飲み込まれていた。


「少しは落ち着いた?」

「……ああ、すまん」


 俺が落ち着くのを彼女はじっと待っていてくれた。


「謝らなくていいから。――このコップ借りるわよ」


 ベッド脇でへたれ込む俺に、彼女は水の入ったコップを差し出してくれた。


「とりあえず飲みなさい。少しは落ち着くから」


 俺は彼女のいう通りにした。

 自分で考えることが、もう嫌になっていたんだ。


「部屋は荒らされていないみたいね。取られた物とかない?」


 俺は力無げに首を横に振る。


「わからない。家具や小物の配置は俺が元いた世界と基本的には同じなんだけど、微妙に違う部分もあるから」

「違う?」


 冷蔵庫の上に置かれた写真立て、印が付けられたカレンダー、ゲーセンの景品らしきぬいぐるみ、洒落た香水のボトル――などなど。

 些細なものだが元の世界にはこんなものなかった。

 もしも田中に何かを取られていたとしても、俺はおそらく気づけない。


「なら取られてないと思うわよ」

「なんでそう思うんだ?」

「あんたが元いた世界とこちらの世界、二つを結びつけるものじゃなきゃ盗む価値がないからよ」


 盗む、価値……か。

 そんなものこの家にあるわけない。

 あるとすればひとつ。


「タイムマシン装置は田中が盗んだ、そう考えてまず間違いなさそうね」

「だろうな」

「でも、そうなってくると不思議よね」


 彼女はとても不可解そうな顔をしていた。


「不思議って?」

「どうして田中はこんな子供の悪戯みたいなことをしたのかしら?」

「それは俺に自分の存在を教えたかったんじゃないのか?」

「何のために?」

「え……」


 言われてみると、田中がなぜ自分の存在を俺に伝えるのか理由がわからない。


「田中参上ッ――こんなの書かなければ、外道はタイムマシン装置を盗んだ犯人を特定できなかったかもしれない。けど、彼はあえて自分だと名乗り出たことになるわよね? まるで自分が盗んだことを外道に教えるように」

「何のためにそんなことするんだ? ……田中の犯行に見せかけるためとか?」


 それはないと、明護に否定されてしまった。


「そもそもあんたが田中を恐れていることなんて誰も知らないのよ。小中時代のあんたが田中を毛嫌いしていることは、同じ地元だった同級生なら知ってるかもしれないけど、タイムマシン装置のことはあたしと千寓寺くん、それにb世界線の田中しか知らないはず。だからこれはやっぱり田中本人が書いたんだと思う」


 でも、と彼女は続ける。


「そうなるとここはb世界線の可能性が高くなる。仮にここがb世界線だった場合――」

「俺が見た田中の死体はフェイクだったってことか」

「そういうこと。田中は何らかの方法で死を偽装した。ご丁寧にファイヤーボールカプセルまで残してね」

「だとしたらなんで今になって!」

「田中は待っていたんじゃない? あんたが過去からタイムマシンに乗って現在――2023年にやってくるのを」


 b世界線の俺ではなく、俺に用があったのか。だから田中は俺が戻ってくるのを待ち続けていた。


「田中はa世界線であたしを殺してるのよね? そのあたしはタイムシーバーを使ってa世界線からあんたと連絡を取り合っていた。あたしと連絡が取れなくなったのはb世界線の時刻で昼前、その頃にa世界線のあたしは田中に殺されたとみて間違いないと思う。だとすれば田中はあんたが2014年にタイムトラベルした日を正確に知っていたことになる。再びあんたがタイムマシンを使って戻ってくる日を田中は知ってるってことになるわ」


 だとすると……。


「田中は、いたのか」


 ええ、と彼女は首肯する。


「あんたが2014年12月24日からこちらに来た午後2時頃、つまり今日の昼、田中はこの家の近くからあんたを見ていたのよ」


 4日間のずれがあったことを考慮すると、田中はその間ずっともう一人の俺を監視していたことになる。

 考えるだけで冷たい汗が額から滴り落ち、血の気が引いていく。まるで死神の鎌が首筋に忍び寄るかのような錯覚に陥ってしまう。


「問題は田中の目的がわからないこと。心当たりは?」

「……いや」


 そんなものあるわけない。

 考えたところで何も出てこない。


「ない……か。とにかくここは危険よ」

「どういうことだよ?」

「田中はもうこの近くにはいないとは思うけど、あんたの家は田中に知られているのよ? この家にいたら、あんたいつ田中に襲われるかわからないわよ? わざわざこんなの残していくくらいだから、遅かれ早かれ田中はあんたを狙いにくる。そう考えておくべきよ」


 狙いにって……。

 俺またあれと戦うのかよ。

 冗談じゃない!

 次は確実に殺される。


「支度して!」

「支度……?」

「ここには居れないんだから、当面の間の着替えとか、とにかく持てるだけ持って出ていくのよ。あんたの話に出てきた田中が大人になって襲ってくる。そうなってみなさい、たぶん今のあたしたちなら瞬殺されるわよ」

「!」


 今の田中はもう小学生じゃないんだ。

 俺と同じ大人なんだ。

 小学生時代の田中ですら怪物だったのに、その田中が大人になったら……どうなるんだ。

 考えるだけでも怖くてたまらない。


 彼女の言葉に恐怖が忍び寄り、俺の心は焦りに包まれた。


「わかった、早く出よう」


 俺は急いで必要な物をまとめ、荷物を持ち出す準備を始めた。未知の危険が迫りつつあるが、俺は彼女と共にタイムマシン装置を取り戻す覚悟を決める。

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