3.セネカ『生の短さについて 他二篇』岩波文庫

 今は、ちょうど夏の暑さもたけなわといった頃合いでしょうか。ここ数年の太陽はその勢力を盛んにして、どうにも留まるところを知らないように思います。地と空気を焼いて肌を焦がして、この地球という星が干上がってしまわないのは何故だろうかと下らない思案をしながら呆然としてしまうほどです。

 いやそんな馬鹿な発想をするのはお前だけだとお叱りを受けるかもしれません。けれども、まぁ考えてもみてください。毎年何人が熱射病で病院へ搬送されますか。幾人が脱水の疑いでたまの休日を日陰でぐったりと過ごす羽目になっておりますか。酷暑は我々から傍若無人に水を引き上げ、果ては残りの抜け殻を捨て置いていくのです。はたまた、水の事故なんかも必ず耳にします。これも突き詰めれば鬱陶しい高気圧が天を覆うから、人が涼を求めて川辺や海原に繰り出し、慣れてもいない足場に滑って転んで起こるのです。換言すれば、乾くのをやり過ごすための処置とでもいえましょう。それでも懲りずに年々怪我人や病人が運ばれる始末なのですから、注意喚起の声が後を絶ちません。さてこれらは全て人間の身に起こる出来事ですが、今は人間相手でも、いつ地球に刃が向けられるかと考えてみれば、そんな未来は来るべくもないなどとは、屹立して主張出来ますまい。

 一寸待て、熱射病と大地の旱魃を一緒にされちゃあ困る、との声もありましょう。しかし、いずれにしても水が足りていないのですから、一様に干上がっていると形容してもいいじゃあありませんか。まぁ、だめならだめで、それでも一向に構いません。

 私が言いたいのは、要するに、最近は暑くて敵わないなということです。

 お前は二束三文で喧嘩でも売っているのかと怒号を浴びせられるかもしれません。たったこれだけのことを表現するためだけに、いったいどれだけの文字を拵えたのかと。文庫に綴じるほどの量には到底及ばないにせよ、それでも他人に貴重な時間を費やさせたことは間違いありません。手を変え品を変え、寄せ集めた言葉を吟味しながら並べ替え、丹精込めて出来上がった代物は、たった一言「暑い」と言えば済むのです。これほど馬鹿げたことはありません。論文書きからしてみれば愚にも付かない阿呆加減でしょう。

 しかし、文学と言えばある意味そんなものなのかもしれないと、私は時々思います。文学と言いますか、およそ人の書く道楽的書物はその類だろうと思います。冗長性はあって当たり前であり、もしこれがなければ無味乾燥なつまらない世界でしょう。しかしながら、やはりそういった時間を費やすものについては、忌避し、疎まれる傾向にあるように思います。最近は『タイムパ』なんて言葉が巷で生じていることからも、効率の悪ければ悪いほど目の敵にされているようにも感じます。なぜなのでしょうか。きっと、己の人生を浪費させられているように感じるからだろうと思います。

 別にその傾向が悪いだの不適切だの言いたいわけではありません。むしろ仕方のない心情だと思います。なぜなら、人生というのは限りがあるから。魂は不滅だとかそういう議論をし始めてはまた話が別ですが、少なくとも、私を含めてたいていの人間は、人生を有限なものとして捉えていることだと思います。つまり、その限りある時間だというのに、無駄な徒労に消費させられるのだから堪えられないと、こういうわけです。人生は短いのだから、もっと有意義に過ごさねばならぬと。

 ここまで書いて、あぁお前はまた「いつも怠惰なのだからそのくらい大した手間ではないだろう」などとほざくのかと、そんな風に感じる方がいらっしゃるかもしれない。しかしそうではありません。そう結論を急いてはいけません。とはいえ、もうそろそろ痺れを切らしてきましたでしょうから、ここいらで本の紹介をしてしまいましょう。


『生の短さについて 他二篇』

セネカ著、訳/岩波文庫


 セネカとは誰ぞや、聞いたこともないという方もいらっしゃるかと思いますが、斯くいう私もこの本に辿り着く少し前まで存在すら把握しておりませんでした。まぁ知らなくても結構です。そんな名前の哲学者が古のギリシャにいたのだということさえ知っていれば、あとは今の時代、インターネットで調べるなりすればいくらでも検索の網に引っ掛かります。

 それはいいとして、こちらの本、なかなか鋭そうな題目かと思います。一般に言って、生とか死に関するテーマとなると重苦しいったらないというような印象を抱いてしまいがちです。それもそのはず、太古の昔から現在に至るまで、生死にまとわりつく倫理、道徳的問題は議論され続け、未だ万人の納得する答えは得られていません。人生の上で最も重要な問題であるというのに。だから、この本に掲げられた端的な題目が、却って私の興味を駆り立てたのかもしれません。

 本書の中で語られるセネカの言葉で最も痛烈なのは、「生は浪費すれば短く、活用すれば十分に長い」という一節でしょう。表紙に印字されているくらいなのですから。しかし、これに加えて面白いのは、時間--現在、過去、未来の関係性--についての概念が語られており、上記の一節が生々しく己の人生に投げかけられるような気がしてくるのです。

 果たして私は、『今』を有意義に過ごしているだろうか。湯水のように使ってドブに捨ててはいやしないか。来てもいない将来に漠然とした不安を覚える傍ら、目の前の鏡に映る己や世界を直視できているだろうか。否。過去を振り返ってみれば、ああすれば良かったとか何とか言いつつ後悔の念が断ちません。

 だからきっと、焦ってしまうのでしょう。日々の業務に忙殺されるが故に、閑暇の時間をいかに効率よく消費するかが重視される。いかに短時間で情報を得、いかにして能率的に事を片付けるかに目がいく。他方、社会はそういった「器用な」人間を欲する。実によくできている。しかし私個人としましては、その要求は都合が良すぎるのではないかと思います。

 働き始めて感じたことですが、否、もう中学生か高校生の頃から薄々感じていたことではありますが、人というのはたいがい自分勝手で我儘です。自分のできることは他人にもできてもらわなきゃ困ると詰る一方で、他人のすることへの理解が及ばなければ一向に飲み込もうとしない。近頃は個人の尊重がどうとか多様性が云々とか騒がれていますが、まぁふと冷静になって考えてみれば何のことはない、要するに個人の主義主張を真面目に聴けとそれだけです。

 そりゃあ組織になれば秩序が必要で、皆が奔放に好き勝手していたら話にならないでしょう。だから規則というものがあるのですが、ここで間違ってはならないのが、規則は遵守するために存在するのではなく、世の中の風潮に適した秩序を成立させるために存在するということです。だから世間が変われば自ずと相応しい秩序も更新される。当たり前のことです。だというのに、万事においてこれ是なりと頑なに裁きの杓を振り下ろす。それをやっていいのは閻魔だけで私たちにはそのような権限は渡されていないのです。せめて何故その決まり事があるのかを説いてくれればまだ納得がいくものの、それが十分になされないのだから横暴極まりない。

 またこれ以上に厄介なのは、己の中での秩序が他人にとっても最適であると判を押している人間です。しかも「個性」やら「多様性」やらに気を遣ってか、考え方は人それぞれであると、責任だけは他人に譲渡するのだから尚たちが悪い。

 セネカは、そのようなこちらの生を無遠慮に剥ぎ取ってくる連中とは関わらないのが最善であるという旨を語っています。もちろん時と場合によりますし、少々攻撃的すぎるきらいがある気もしますが、生きづらさを感じる者には考え方の一手助けとして映るはずです。私の人生は私のものであり、下らない理由から他人に奪われていいものではない。全く関わらないのは現実的に難しいけれども、危険認知の構えはできます。

 ただ、私も他人を無意味に害さないように気をつけなければならないでしょう。しかしそれは選択の権利を侵害しないという意味です。だから冒頭、私は好きなように書きました。できる限りの表現を試したかったから。それゆえ、時間の無駄だと思うのもまた読み手の意識に委ねるのみです。

 しかし、最後に一つ思うところを述べましょう。

 時間は確かに有限です。でも、だからといって短い時間で済ませれられれば何でも良いというものでもないと思います。というより、時間をかけなければ得られないものの方が世の中多いのではないでしょうか。或いは、一朝一夕で手に入れたものは結局ガラクタで使い物にならないだとか、そうなっても不思議ではないでしょう。

 もちろん経験豊富な方々から教えを乞うことも有効でしょう。しかし、それに従うばかりで、己で思考することを蔑ろにしてはなりません。時間をかけて熟成させなければ、半端でただ酸っぱい酒が出来上がること請け合いです。また上述の通り、責任を丸投げしてくる連中には気をつけなければなりません。

 その上で、自分の生、即ち今現在に対して真摯に向き合いたいと思います。私が私の生に自信が持てるようになるまで、ただ黙々と。

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私の思考の髄液 示紫元陽 @Shallea

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