2.コンディヤック『論理学』講談社学術文庫

 私は他人と歓談するというのがどうにも苦手でした。相手の言葉に相槌を打ったりはするものの、自ら話題を展開するのが不得手なのです。取り止めもない話をできるほど、他人と関わろうとしてこなかったからかもしれません。

 とはいえ、孤立無縁を貫いたわけではありません。中学高校ともに部活動はしていましたし、今も社会人として一応は対人での勤務をしています。ただ、だというのに、私はいつも身勝手な疎外感を抱いてきたように思います。それというのも、私の考えていることが他人とはズレていたり、行動のテンポが相容れないことが多々あったからなのでしょう。

 私は、視座とか感覚といったものが、他人のそれらとは少々異なっているようだと思うようになりました。別に自分が特別だとかそういうおこがましいことを述べようというのではありませんが、ただ、波長が合わないことがあったのです。一度、「どうせ私らの考えてることが分からないんだ」と言われたことがありましたが、これを聞いて、あぁ私は普通じゃないのかと寂しくなったのを覚えています。その時はそれ以上気にしないことにしましたが、やはり歳を重ねるにつれて、その言葉が時々蘇ってくるのです。

 私には共感性というものが欠けているのだろうか。人として欠陥品なのだろうか。そんな悲観がよぎることもありました。でも、それと対比的に、時々思うのです。あなた達も、私の思いなんてちっとも汲んでくれやしないではないか、と。そうして思うようになりました。

 人は、他人のことなんて究極的には判らないんだろう。

 私の好きな小説『不思議の国のアリス』の中でグリフォンが言った、特に好きな台詞があります。

『つもりになっているだけなんだよ』

 私たちは、他人はおろか、全てのことについて、憶測でしか判断できないのだと、今までの経験で思うようになりました。憶測なのに、全て自分の思い通りであると錯覚するから質が悪い。だから、私は他を理解することを半ば諦めていたように思います。

 しかし、まぁ生活というものをしていると、そういう諦観の念だけではにっちもさっちもいかない場面なんて山のようにあります。私たちは判断をしなければならない。しかし、その判断が信頼できたものではない。さてどうしたものかと考えたところで、貧弱な脳では妙案など思いつくわけもなく。

 そんな折、見つけたのがこの本でした。


『論理学 考える技術の初歩』

エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック著、山口裕之訳/講談社学術文庫


 どうしてこの本に巡り会えたのか、全くもって不思議です。確か、思考法を綴ったものをネットサーフィンで適当に探していたら偶然見つけたように記憶していますが、近くの書店では蔵書もなく、よく諦めなかったなと当時の自分を褒めたいものです。

 それはさておき、本書、実に緻密です。場合よっては冗長と映るかもしれません。しかしその分、思考の明晰さの道標を鮮明に辿ることができます。

 論理学と言われると小難しい理論や用語が飛び交って、素人では太刀打ちできない怪文書のような印象を持っている方もいるかもしれません。かく言う私は、論理学、あまり分かっておりません。しかしながら、本書は論理学に対して初心の方でも順を追って、まるで物語を辿るが如く読むことができます。

 もちろん、表現が特有で理解に時間を要する場面も多々ありました。でも、それは些細なことです(時代背景もあって辻褄が合っていないような箇所もありますが、そこは解説で丁寧に補ってくれています)。

 コンディヤックの主張は、「観察できること(知識や経験を含む)を拠り所にする」ことと、「観察をもとに比較し、判断する(=分析する)」ことの二点にあると私は受け取りました。そして、分析手段の根幹は「同義」を繰り返して推論を重ねること。

 彼の論述の中で特に面白いのは、そういった方法は自然が教えてくれるもので、赤ん坊などは皆勝手に行っている、でも大人になるとできなくなる、というものです。

 ある印象、事象があると、大人はどうしても「思い込み」で判断をしてしまうことが多いように思います。これは、おそらくより効率的に生きるための手段なのでしょう。人間社会で暮らすための認知バイアスと言ってもいいかもしれません。ただ、それが論理性を穿つことになっているのではないでしょうか。

 私が受けた「人の気持ちなんて分からないんだろう」という言葉。よくよく考えれば、どうしてそのような「判断」に至ったのでしょうか。真意は分かりませんが、それがその人の中で最も納得のいく、或いは説明のつく論拠だったのでしょう。判断の根拠となる比較には、おそらく自身の経験や心情を用いたのでしょう。

 その分析は大いに間違っていると思います。私のことを棚に上げているようになってしまいますが、しかし、「他人の気持ちを慮ること」と「その表出がどのようになるか」が果たして皆同じになると、どうして言えるのでしょうか。そこに論理の乖離があるように思います。指摘した方は、観察できていないことを都合よく繋げてて紡いでしまったのではないでしょうか。あぁ、やっとスッキリしました。

 間違った判断というのは怖いもので、それに気づかずいることが多いようです。私も例外ではないでしょう。しかし、それら誤謬を当然のこととして放任していい理由はありません。また、盲信ほど恐ろしいものはありません。下手をすれば中世の魔女狩りの二の舞になりかねません。

 だからこそ、今一度丁寧に分析することが必要なのではないでしょうか。

 もちろん、社会の中でそんなちんたらやっていたら置いていかれるのは百も承知です。論理性などと言っていちいち厳密に精査していたら残業が増える一方です。それでいて報酬も何もないのですから、考えた分だけ時間を浪費していきます。しかし、だからといって蔑ろにして良いものでもないと、私は思うのです。

 だって、現に私は、たった一言で傷つきました。他にもきっと苦しんだ人がいるに違いありません。それを当たり前だと脇にやる、それは粗暴というものでしょう。

 少しでいい。一寸立ち止まって、冷静になってみる。本当に、今私の推測していることは、観察したものから導き出されているのか。

 ゆっくりでいい。着実に比較し、判断してみる。

 きっと私の中の思考が清明となると信じて。他人の言葉にただ服することのない思索を導き出せることを願って。

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