Ep.6 綻び

 明くる朝、額を伝う寝汗により目が覚める。どうやら昨夜は心身共に疲弊していたため、冷房のスイッチも入れずにベッドに突っ伏していたようだ。じっとりと肌に張り付いた部屋着の不快感に顔をしかめながら、階下の浴室のシャワーで軽く汗を流し、身支度を整える。


「もうこんな時間か……。」


 リビングの壁掛け時計をちらりと見遣れば、もう朝と言うには遅い時間となっている。俺は昨夜母から受け取った金が入った財布をポケットに押し込み、朝食も忘れて玄関に駆け寄った。


「あら、漸く起きてきたと思ったら。もう行くの?」


 すると、慌ただしく家を出ようとする俺に気付いた母が、ぱたぱたとスリッパが床を踏み締める音を立てながら追いかけてきた。


「母さんが言ったんだろ。起きたらすぐに篠莉の見舞いに行って来いって。」


「なるほどー。そんな居ても経ってもいられないくらい心配なのね、篠莉ちゃんのことが。」


「悪いのかよ。」


「何も。ただ、貴方も隅に置けないなと思っただけ。」


 いい年して無邪気に揶揄うような笑みを浮かべる母に溜息をひとつ、俺は動揺が悟られないよう、後ろを振り返ることなくそのまま扉を開け放ち、大股で敷居を跨いだ。



 ¶



「あっついな今日は……。」


 昨日までの雨模様は何処へやら、今日は来たる猛暑の気配が如実に感じられる日本晴れだ。我が物顔で空を昇る御天道様から降り注ぐ紫外線がじりじりと肌を焼き、水溜まりが残るコンクリートに反射して立ち昇る陽炎がゆらゆらと揺らめくので、何だか眩暈めまいがしてくるようだ。


 外に出て、眩む視界にまず映るのは、我が家の向かいに位置する幼馴染が住む一軒家。その車庫が空いていることから察するに、どうやら既に和子小母さんは病院まで篠莉を迎えに車を走らせている最中なのだろう。


「さっさと買いに行った方が身のためだな……。」


 このままでは篠莉からの警告に関係なく、この殺人的な暑さの前に倒れてしまいそうだ。昼近くまで寝過ごしてしまったこともあり、時間はあまりない俺は急いで繁華街へと歩を進めた。



 ¶



 茹だるような夏の暑さに焼かれながら歩くこと十数分、俺は最寄り駅近くの大型百貨店に足を運んでいた。


 自宅から最も近い駅周辺は、数々の商業施設が立ち並ぶちょっとした繁華街となっている。少し離れた場所にある我が私立高校へと通学する際も利用する駅でもあるため、ここまでは慣れた足取りだ。だが、いつもは素通りするだけの洒落た外見のデパートに足を踏み入れたことなど一度もないので、平日の昼間にもかかわらず活況を呈している人波へと飛び込むことに、俺は一抹の緊張感を抱いていた。


「行くしかないか。」


 意を決して人の流れに逆らわず大きな自動ドアを通り抜けると、冷たい空気が肌を撫で、急激に身体の熱が奪われていく感覚が心地良い。俺はそのままギフトコーナーのある地下1階へと向かおうと、出入口付近のエレベーターに乗り込むべく、下矢印のボタンを押す。


 程なくして到着したエレベーターからは、上階で買い物を済ませた客と思しき人が散り散りに去ってゆく。それを見送ってから、いの一番にエレベーターの奥へ詰めると、同じように階下を目指す大勢の客たちが押し合いし合いとなって小さな箱に閉じ込められようとする。


「きゃっ、すみません!」


 その時、後ろから迫る人垣に押し出されてしまった若い女性が勢い余って、先に奥の手すり側へと寄っていた俺の方へとバランスを崩し、ぶつかってしまう。


「い──いえ、大丈夫です……。」


 とは言ってみたものの、不幸にも女性の肘が俺の鳩尾みぞおちへと当たってしまい、得も言われぬ痛みと吐き気が襲う。今更だが、エレベーターを使うのは失敗だった。すぐ下の階に向かうだけなら階段を使えばこんな目に遭わずに済んだだろうし、もし仮にこの場で、昨日と同じように得体の知れない不審者により命が狙われたとしたら逃げ場もない。


「(こんな調子じゃ、篠莉をますます不安にさせちゃうよな。)」


 心の中で自身の行いを反省しながら警戒心を強めていると、エレベーターはゆっくりとその扉を開いて何人かの一般客と共に地下フロアへと降り立った。主に食料品が扱われているフロアには、惣菜や弁当から高級路線のグロサリー類まで、様々な商品が取り揃えられている。起き抜けから何も口にしていない俺にとって、そのどれもが魅力的に映るのだが、目指すべき場所は決まっている。


「とはいえ、色々あるなあ。」


 俺が迷わず向かった先は、和洋菓子類やフルーツが立ち並ぶギフトコーナーだ。甘味には目がない篠莉には何を送っても喜ばれそうなものだが、如何せんここまで種類が多いと何を買うべきか判断に困る。


「試食、如何ですか?」


 数々の透明なショーケースの中に並べられた美味しそうな菓子を前に悩んでいると、見兼ねた様子の男性店員に声を掛けられる。


「あ、これ……。」


 差し出された爪楊枝に刺さっていたのは、半透明の小豆色が美しい小さな水羊羹だった。思い返せば、幼い頃によく家まで遊びに来ていた篠莉が、夏に暑中見舞いとして毎年贈ってくれていたのが水羊羹だ。篠莉の持ってきた菓子折りをそのままおやつとして母が出してくれると、彼女自身が一際喜んでいたのが印象に残っている。つるんとした喉越しに、優しい甘さと爽やかな小豆の風味が口いっぱいに広がって鼻を通り抜ける。


「如何ですか。暑中見舞いやお中元など、大切な方への贈り物へぴったりですよ。」


 その懐かしい味に妙な納得感を得た俺は、店員に感謝を伝えると共に水羊羹をひとつ購入し、反省を生かして階段でそのままデパートを後にした。



 ¶



 正午が近づいて、気温もじわじわと上昇し続けているのがはっきりと分かるほど、止めどなく汗が流れる。だが、早く元気な篠莉の姿を見たいと逸る気持ちに突き動かされるまま、少し早歩きで家路を辿った。程なくして、慣れ親しんだ住宅街の角を曲がって自宅へと通じる一本道へと突入するも、何やら只事ではなさそうな喧騒が聞こえてくることに気付く。


「何考えてるの篠莉! 暫くは安静にした方が良いって、お医者様にも言われたでしょう!」


「分かってよお母さん! 今すぐ学校に行かないと、宗助が──」


 そこでは、自宅の向かいにある一軒家の玄関で、松葉杖で身体を支えている制服姿の篠莉と、その母である和子小母さんが何やら言い争っているようだ。俺はその驚くべき光景に思わず立ち止まるも、篠莉が俺の姿に気付いた様子を見せたことで慌てて駆け寄る。


「宗助! 良かった、まだ学校には行ってなかったんだ……。」


「宗助くん、ごめんなさいね。篠莉ったらこんな状態なのに、昨日の今日で『学校に行く』の一点張りで……。」


 なんと篠莉は、俺の安否を心配してか、銃撃事件からたった一晩しか経っていないにもかかわらず、早速復学すると言って聞かないそうなのだ。その無茶な行動を、母として何とか諫めようとする和子小母さんの言い分は理解できる。


「とりあえずこちら、つまらない物ですが見舞いの品です。篠莉、少し中で話さないか?」


「宗助は、学校に行かなくて良いの……?」


「良くないけど……。どの道、今日の午前中はお前の様子を見に行こうって決めてたんだ。」


 俺は買ってきた見舞い品を和子小母さんに手渡して会釈する。すると、助かったと言いたげな表情の彼女は玄関扉を開いて俺を中へと招き入れるので、その好意に甘えて、篠莉の松葉杖を預かる代わりに肩を貸し、2階にある彼女の自室へと足を運んだ。


「全く、帰ったらいきなり怒号が飛んできて肝が冷えたぞ……。」


 そっと彼女を自室のベッドに腰掛けさせ、預かった松葉杖を壁に立て掛けつつ、軽く苦言を呈する。


「驚かせちゃったみたいでごめんね。でも、宗助が今この瞬間も誰かに殺されそうになってるんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられなくて……。」


 篠莉の語る動機は、俺の予想に違わぬものであった。しかし、俺も子供ではない。自分の身くらいは自分で守れる──と口に出したいところだが、俺が言ったところで、特に彼女の前において説得力など無いだろう。


「俺が不甲斐ないせいで心配掛けてごめん。でも、俺は大丈夫だ。」


「うん。頭では分かってるんだけど、どうしてもトラウマがあって……。」


 俺がどれだけ言葉を重ねようと、篠莉が居なければ俺が死んでいたという現実は変わらない。それに、彼女は俺の知らない未来で、一度俺の死を目の当たりにしている。心配をするなと言う方が無理な話だろう。そう反省を繰り返していると、部屋のドアが優しくノックされる。


「宗助くん、学校を休んでまでお見舞いに来てくれて、どうもありがとうね。」


「いえ、こちらこそ突然押し掛けてしまってすみません。」


 和子小母さんは、俺が買ってきた水羊羹が盛られた小皿と冷たい緑茶が入った湯呑を2つずつ盆に乗せ、丁寧にテーブルへと並べてくれると、すぐに部屋を去っていった。


「宗助、私の好きなもの覚えててくれたんだ。」


「偶然だ。篠莉は甘い物なら大抵好きだろ。」


 嬉しそうに微笑む篠莉の髪が、明るく涼し気な水色へと移り変わっていく。そんな彼女の全てを見透かすような黒い瞳と目が合って、急に恥ずかしくなってしまった俺は咄嗟に誤魔化してしまう。俺も彼女と同じように髪色が変わる体質だったら、こんな嘘もすぐにバレてしまうのだろうかと、そんな想像力が自らの羞恥心を余計に掻き立てる。


「ふふっ、じゃあ早速いただこうかな。」


 すると、篠莉はあっさりとベッドから立ち上がり、テーブルの前へと膝を突いて、そのまま座ろうとする。


「なっ……!? お前傷は大丈夫なのかよ!?」


 俺の心配を余所に、篠莉は目を輝かせて美味しそうに水羊羹を一切れ、口に放り込む。


「ああ、実はね。傷はもう完全に塞がってるの。」


「えっ……?」


「お医者さんやお母さんの前では流石に怪しまれるだろうから言い出せなかったんだけど、何度も言った通り、私の肉体はどんな傷を受けても急速に回復するから。」


 平然と驚くべきことを言ってのける篠莉に、俺は開いた口が塞がらない。


「簡単に言えば、形状記憶合金みたいなものだよ。私は未来での生存が確定してるから、どんな強い力で殴られようが捻じられようが、すぐに元通り。ほら、確かめてみる……?」


 そう言って、篠莉は胸元に受けた傷痕を見せるため、制服をはだけさせようとボタンに手を掛ける。


「い、要らない! ということは、この松葉杖も、さっき俺がわざわざ肩を貸したのも、全部意味がなかったってことか……?」


「まあね。でも、そうしないとお母さんを驚かせちゃうしさ。すぐ近くに宗助が感じられて、私は悪い気がしなかったけど!」


 水羊羹を頬張りながら、悪戯ぽく笑って見せる篠莉はとても可愛らしい。しかし、まずは彼女の身が無事だったことについて、俺は改めて安堵感に包まれた。


「そういう訳だから、もし宗助が学校に行くなら、私も行く。悪いけど、これだけは譲れない。」


 急に篠莉は真剣な眼差しを俺に向け、訴えるようにそう告げた。


「わ、分かったよ。そこまで言うなら俺は止めない。だけど、小母さんは納得しないだろ……。」


「宗助と一緒に行くって言ったら、そこまで強く反対しないはず。お母さんってば、宗助のことはすごく信頼してるから。」


「そう、なのか。」


 そうと決まれば、午後まであまり時間はない。俺は急いで一度自宅へ帰り、制服に着替えて荷物を持って来なければならないのだ。


「数分待っててくれ。色々と俺も準備してくるから。」


「うん。勝手に行かないでよ。」


「分かってるって。また後でな。」


 そう言葉を交わして、俺は篠莉の家を後にした。



 ¶



「ただいまー。」


 身支度のため帰宅した俺の声に、すぐ母が玄関に姿を現した。


「おかえりなさい。すぐに学校へ行くの?」


「うん。」


「制服、洗っておいたわよ。」


 俺の意図を始めから汲み取っていたかのように、母は昨晩まで泥汚れに塗れていたはずの、柔軟剤の優しい香りを纏った制服を手渡してくれた。きっと急いで洗濯してくれたのだろうと思い、俺は素直に感謝の意を表する。


「どういたしまして。こっちは鞄ね。お弁当も入れておいたから。」


 今度は用意周到にも、母は弁当が入った通学鞄を玄関先に置いてくれた。俺は個室の洗面所にて手早く着替えを済ませてから、鞄を引っ提げ、すぐに家を出る準備を整えることができた。


「色々とありがとう、母さん。」


「良いのよ。篠莉ちゃんのこと、待たせてるんでしょ。」


「な、何で篠莉も学校に行くこと知ってるんだよ……!?」


 重症を負った篠莉の様子を直接確認したことがないはずの母に、彼女と一緒に登校することを言い当てられ、俺は激しく狼狽する。


「貴方はね、自分で思ってるよりも遥かに分かりやすいのよ。」


「はぁ……。」


 どうやら、母には隠し事など通用しないらしい。別に隠し立てしていた訳でもないのだが。


「だからね、私の聞くことに、正直に答えてほしいの。」


 すると藪から棒に、母は突然真剣な表情で含みのある前置きをして、玄関で靴を履く俺のもとへと一歩詰め寄る。その明らかに異質な雰囲気を目の前に、俺は思わず生唾を呑み込んだ。


「宗助、私に隠し事があるんじゃないの?」

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