Ep.7 日常への回帰
「宗助、私に隠し事があるんじゃないの?」
不意を突くように投げかけられた母からの疑問──それは、俺の良心を激しく揺さぶるものだった。
「どうしてそんなこと……。」
何と答えるべきか当惑するばかりの俺は、一先ず話をはぐらかそうと、その場凌ぎと知りながら質問に質問で返す。
「篠莉ちゃんがあんな事件に巻き込まれて、貴方も動揺しているのは分かる。だけど、昨日からの貴方はどこか上の空というか、思い詰めているような感じがして……。」
母の追及は、あくまで俺を心配するが故のものだった。その優しい言葉に、思わず自身の置かれた窮状を吐露してしまいそうになるが、家族を思い遣ろうとする気持ちがあるのはこちらも同じだ。
「母さんってば、気のせいだよ。俺は大丈夫。篠莉が待ってるから、もう行くよ。」
「あっ、宗助──」
大切な肉親を自分の問題に巻き込み、累を及ぼす訳にはいかない。その一心で俺はたった今、堂々と嘘を吐いてしまった。そして、その罪悪感から逃れるべく玄関扉から勢い良く外へ飛び出し、自らを正当化するための言い訳を必死に並べ立てる。
清々しいほどに澄み渡っていた午前の青空は何処へやら、いつの間にか暗雲が立ち込めている空模様は今にも泣きだしてしまいそうで、天気予報を確認することもなく傘を忘れた己を恨み、がさごそと鞄を探ると小さな折り畳み傘が入っていた。その温かな心遣いが、さらに俺の良心をさらに痛めつけた。
¶
「どうしたの、そんな浮かない顔して。」
「いや、何でもないよ。」
改めて向かいの家まで篠莉を迎えにきた俺は、聡い彼女に些細な変化を見抜かれてしまった。慌てて首を振り、これ以上彼女に心配を掛けさせまいと表情筋を引き締める。
「それじゃ、行こっか。」
「それ、持っていくのか?」
篠莉の両手に握られた松葉杖を指差して、俺は既に傷が塞がっているはずの彼女に問う。
「仕方ないよ。さっきも言ったけど、撃たれた次の日に平然と歩いてたらおかしいでしょ。」
肩を
俺はせめて両手の塞がった篠莉の代わりに彼女の分の通学鞄を預かって、太陽が隠れ、薄暗くなった灰色の世界へと足を踏み出せば、ぽつりぽつりと生温かい水滴が鼻頭に当たって弾けた。流石の俺も教科書や弁当が入った二人分の重たい鞄を担いでいるため余裕はなく、たったひとつの小さな折り畳み傘を開いて、そっと彼女の方へと傾ける。
「ありがとうね。」
「ああ。」
「懐かしいなぁ……。」
ふと篠莉が、雨音に消え入るほど小さな声で呟いた言葉──それは、彼女にとって数年振りに歩むことになる高校への通学路に想いを馳せてのことなのか、はたまた、俺の知らない未来の梅蔭宗助としたのであろう相合傘を回想してのことなのか。いずれにせよ、彼女の考えていることが分からない俺の心境は複雑だった。
¶
その後、怪我人を装うべく松葉杖をついて歩く篠莉に歩調を合わせて最寄り駅に到着すると、通勤・通学ピークも
小さな傘を分け合っていることで濡れてしまった右肩を隠すため、ぎこちなく車道側に移る俺の気配りを、篠莉は髪色を桜の葉の色に擬態させて「ありがとう」と嬉しそうに微笑む。その余裕綽々といった仕草の一つひとつに、やはり彼女の精神は7年後からやってきた大人の女性になってしまったのだと、嫌でも認識させられる。
「っ!」
「篠莉、どうした……?」
いくら考えても仕方のない動かぬ事実に囚われそうになっていると、篠莉はいきなりその場で立ち止まる。一転して、彼女の表情は険のあるものとなり、周囲を警戒するかのように忙しなく首を振り始めた。
「今、何処からか視線を感じたような……。」
「なっ!?」
予期せぬ篠莉の言動により、俺の立毛筋は一気に収縮し、全身の産毛が逆立つような緊張感が駆け巡る。だが、道の両脇に立ち並ぶ木の葉を伝う水滴が雨のカーテンとなって思うように視界が確保できず、中々警戒は解けない。
「気のせいじゃないか? この雨だし、とても人気があるようには……。」
そう、朝は同じ制服に身を包んだ生徒たちで賑わうこの通学路も、午前最後の授業中と思われる現在の時間帯とあっては、人っ子一人も居やしない。
「分からない……。けど、今確かに──」
「驚いた。もう自立歩行が可能なまでに回復されたのですか。」
刹那、篠莉の言葉を遮るようにして、背後からか細い声が聞こえてきた。気配も感じられないまま、人語のみが耳へと運ばれてきたことに心底驚いた俺は飛び退くようにして振り返るも、今度こそ彼女を危険な目に遭わせまいと、決死の覚悟で一歩前へ踏み出す。
「宗助、ダメだよ!」
「それはこっちの台詞だ篠莉。俺はもう、お前の傷付いた姿なんてみたくないんだ!」
威勢良く啖呵を切って篠莉を制し、声のした方向を注意深く観察する。すると、一際太く大きな桜の幹の影から、ゆっくりと声の主が姿を現した。
「誰だ……!」
「出会い頭に敵意剥き出しとは、心外ですねえ。何をそんなに怯えているのですか。」
抑揚のない無機質な声色でそう返すのは、蒸し暑い梅雨の時期にもかかわらず喪服を連想させるようなダークトーンで統一されたスーツに身を包む、細身の若い女性だった。女性は、目下には濃い
「そこで何してるんだ!」
「お昼ご飯ですよ。全く、大きい声出さないでくださいよ……。」
気怠そうに溜息を吐きながら、女は小さなコンビニ袋から菓子パンをひとつ手に取って乱雑に封を破り、小さな一口でぱくりと食む。
「そんなことを聞いてるんじゃない……。ここであんたみたいな大人が、どうして
如何なる相手であれ、無駄に機嫌を損ねても良いことはないだろう。そう考えた俺は少しだけ語気を弱めて、あくまで冷静な対話を試みる。
「彷徨くだなんて……。私はずっと貴方たちを待っていたんです。まさか、まだ登校していなかったとは。通りで今朝の段階でお会いできなかった訳です。」
やれやれと言いたげな様子で再び深い溜息を吐き、夢中になって菓子パンを頬張る女の正体が読めず、俺は得体の知れない人間を前にした焦燥感のあまり、もう一度大きく声を張り上げた。
「待っていただと!? 俺たちに何の用があるってんだ!」
「うるさっ、けほっ。」
俺の怒号に驚いた女は、パンを喉に詰まらせて咽せてしまったようで、慌ててビニール袋から紙パックの牛乳を取り出して付属のストローを挿すと、一心不乱に中身を飲み下した。
「酷いじゃないですか。大きい声はやめてと頼んだのに……。」
「ご、ごめんなさい。」
あまりにも緊張感に欠ける女の
「まあ、名乗り遅れてしまったこちらの方にも非はあります。改めまして、私はこういうものです。」
スーツの内ポケットに手を突っ込む女の仕草により、名刺でも差し出してくれるのかと思いきや、次の瞬間、俺たちが目にしたのは驚くべきものだった。
「あんた、刑事、なのか……?」
「あんたではありません。私は神奈川県警察刑事部捜査第一課に所属しております、
「神奈川県警察」と書かれた金色の記章があしらわれた警察手帳と思しき身分証には、女が名乗った通りの氏名が刻まれていた。その侘しげな風貌からは想像もつかないが、どうやら彼女は現職の刑事であるらしい。
「昨日の銃撃事件ですが、我々警察も事態を重く受け止めております。なにしろ、銃火器の所持は一般的に違法とされるこの日本という国で発生した、銃による殺人未遂ですから。今朝から各報道機関も事件の話題で持ち切りです。ニュース、見ませんでした……?」
紙パックを握り潰し、漸くパンを食べ終えた漆島はビニール袋の中にゴミを戻し、咳払いをしてから改めて話を続ける。
「実行犯は事件発生当時その場に居合わせた市民の協力により無力化され、現場に急行した警察官の手により現行犯逮捕に至りました。とはいえ、銃の入手経路や共犯者の存否も明確でない以上、事件は収束したと見るべきではなく、捜査は依然として継続して──あー、貴方たちはまだ高校生ですもんね。こんな小難しい話は分からないか……。」
「いえ、続けてください。それで、どうして私たちのもとへ?」
事情を説明するに際して、俺たちにも分かりやすいように言葉を選ぼうとする漆島に対し、ここで篠莉が質問する。
「何となく察しはついているかと思いますが、紫陽花篠莉さん。貴方は昨日の事件の被害者であり、事件現場の当時の状況を良く知る参考人です。今朝方、病院の方へ直接お見舞いに出向いたのですが、病室を訪れた際、既に退院したと知らされた時には度肝を抜かれましたよ……。」
「それは、無駄足を踏ませてしまい、申し訳ありません。」
松葉杖を突きながら深々と頭を下げる篠莉に対し、漆島は湿気で癖のついた長い黒髪を振り乱して首を横に振る。
「いや、謝罪には及びませんよ。だから致し方なく、紫陽花さんの幼馴染で、事件当時も共に過ごしていたとされる第二の参考人・梅蔭宗助さん。貴方を追ってこの学校まで足を運び、下校時刻まで張り込みを続けようと思っていた矢先、こうしてお会いすることに相成ったという次第です。まさか紫陽花さんもご一緒だとは、思いも寄りませんでしたが。」
県警の捜査官だと自称する漆島の並べ立てた言葉に嘘偽りはないようで、敵意は感じられないと思った俺は篠莉と目配せして意思疎通を図る。どうやら、彼女の方も同様の印象を抱いたようだ。
「つきましては、事情聴取のため少しだけお時間頂戴したいのですが。」
「分かりました。では、放課後に改めて、という形でもよろしいでしょうか。」
「勿論です。あーだとしたら、連絡先くらいは交換しておいた方が良さそうですね。」
「そうですね……?」
ここで俺と篠莉は、今更ながら、ある違和感に気付いた。そう、今までおよそ10メートルほどの距離を置いて会話を続けていた俺たちだが、漆島は頑なに桜の木陰から動こうとしないのだ。
「あー、すみません。もし良かったら、私の方まで来て頂けませんか……?」
「えっ?」
「恥ずかしながら、朝は鬱陶しいくらいの晴れ模様だったので、面倒臭くて傘は自宅に置いてきてしまって……。」
「はぁ。ニュース、見ませんでした……?」
決まりが悪そうに後頭部へ手をやる漆島に、篠莉は憐みの眼差しで鞄に入っていた自分の折り畳み傘を彼女へと手渡した。もっとも、同じく天気予報を確認せず、母の優しさがなければ漆島同様に情けない姿を晒していたであろう俺には、口を挟む余地などなかった。
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