現実と非現実の狭間にて
Ep.5 激動の一日間
「そういや、傘も鞄もファミレスに置き去りにしたままだったな……。」
昼間の銃撃事件により犠牲となった篠莉を病院へと運ぶため、
「そもそも、ここは何処だよ……。」
突然の出来事により、救急車に乗せられた篠莉に付き添って成り行き任せに到着した病院だったため、現在地が自宅までどれだけ離れているのかすら分からない。俺は制服のポケットから唯一持ち合わせていたスマホを取り出して、帰り道を調べるべく地図アプリを立ち上げる。
「そこまで離れてはいないみたいだけど、駅が遠いな。走っても終電に間に合わない……。」
生憎だが、電車で帰宅しようとしても、最寄駅まで徒歩にしては距離があったため、最終列車に間に合わないことは明らかだった。こうなったら篠莉に提案された通り、彼女の眠る病院の個室で宿泊する許可を得るため何とか交渉できないものかと後ろを振り返るも、ぶんぶんと首を振ってすぐに考えを改める。手痛い出費だが、ここは大通りに出てタクシーを拾うのが無難だろう。
「そうと決まれば、急がなきゃな。」
先程まで明るい病院に滞在していたため夜目の効かない俺にとって、暗闇に溶け込むように点在している水溜まりを
¶
少しでも運賃を節約できないものかと、自宅方面へ向けて車道沿いを歩きながら車を探していると、程なくして「空車」の赤い表示灯を掲げる黒塗りの車が見つかった。
「──までお願いします。」
「はい。それでは出発します……。」
濡れ鼠となった
冷房が効いた車内で一呼吸すると、
「篠莉と両想いだったなんて、本当なら涙が出るほど嬉しいはずなのに……。」
年端も行かぬ子供の頃から恋焦がれ続けてきた幼馴染が、そう遠くない将来の結婚相手──その事実だけならば、天にも昇る気持ちになれただろう。しかし、そんな俺を待ち受けているのは、絶望的な死の運命。そして俺を救うために未来からやってきたという篠莉の主張が正しければ、彼女の精神は2030年に24歳を迎えたときの状態であって、世間知らずの高校生である俺とは遠くかけ離れてしまった。
勿論、その程度のことで長年抱いてきたこの恋情が冷めることなどあり得ない。だが、彼女の方はどうだろうか。篠莉が愛していたのは、彼女と同じ時の流れを歩み続けていた俺であって、今の俺ではない──そう考えずにはいられないのだ。
「今の篠莉はきっと、俺の知らない7年分の俺を知っているってことだもんな……。」
考えれば考えるほどに思考はあらぬ方向へと飛躍していき、
「お客さん、到着ですよ。」
「あ、ども……。」
得も言われぬ悲愴感に押し潰されそうになっていると、いつの間にかタクシーは見慣れた住宅街を走り、俺と篠莉が幼い頃から住み続けている家の軒先で停車していた。慌てて降車の準備をして忘れ物を確認するも、携帯しているのはスマホだけだったので、電子マネーで決済を終え、様々な非礼を詫びてからゆっくりと外へ足を踏み出す。依然として容赦なく降り注ぐ雨により、湿気を帯びた空気が肺に充満して、先程までの不快感が戻ってきた。
「それにしても、いきなり命が危ないって言われたところで、俺はどうすれば良いんだろうか。」
平穏無事な高校生活を送る中、突如として突き付けられた曖昧な死の宣告──だが、その詳細については未来を知る篠莉にすら予測できない現状、対策の施しようもない。結局のところ、今はこれ以上の厄介事に巻き込まれる前に家へと入り、身の安全を確保するのが最優先だろう。
そんなことを考えながら、いつもの癖で鞄から鍵を取り出そうとするも、何も持っていないことに改めて気付かされ、肩を落とす。仕方なく、住み慣れた一戸建てのインターフォンを鳴らし、一人息子が帰宅しないことを
「あら宗助、お帰りなさい……。」
「ただいま……?」
玄関先で出迎えてくれたのは、今朝登校するために家を出たのを最後に見た顔と同じ、俺の母親だ。だが、その表情は俺に「いってらっしゃい」と微笑んでいた今朝のものとは打って変わって強張っており、この時間だというのに、余所行きの服装をしている。
「ど、どうしたんだよ、母さん。」
「どうしたはこっちの台詞よ! 何よその格好は……!」
「ごめん、急いで帰ってきたからさ……。」
「鞄はどうしたの。傘も差さないで。」
ここで俺は返答に窮する。一から事情を説明しようとすれば話は複雑で長くなるし、いくら信頼できる家族だとしても、昼間の銃撃事件だの、篠莉の
「なんてね。事情はある程度把握してるわ。取り敢えず、中に入りなさい。」
「えっ……?」
すると、さらなる追及を覚悟していた俺の予想に反して、母はあっさりと矛を収めて白いタオルを手渡してくれた。拍子抜けしながらも、これ以上雨に濡れたくはないので大人しく後ろ手に扉を閉め、柔軟剤の香りに顔を埋めて湿った頭髪から水気を拭き取る。こういう時、髪が短いと楽で良い──なんて下らないことを考えて玄関からリビングに向かうと、明るいシーリングライトに照らされた木製のテーブルを囲んで、そこには意外な人物が座っていた。
「和子小母さん……。」
「宗助くん。私ったらてっきり篠莉のところで一晩過ごすのかと思って。言ってくれれば帰りは車で送ったのに。」
申し訳なさそうな表情でそう言った篠莉の母は、まだ湯気が立ち昇る温かい食事を囲むように座っていることから、今しがた
「気を遣わせてしまってすみません。俺は大丈夫ですから。」
「そうよ和子さん。宗助も、帰ってくるなら連絡くらい寄越しなさい。」
母は俺の分の食器を棚から取り出しながら、呆れたように不満を漏らす。
「ごめん。色々とそれどころじゃなかったんだよ……。」
「さっき和子さんから、
和子小母さんを安心させるためにも、俺は篠莉がすっかり元気を取り戻したことを少々大袈裟に報告した。
「そう……。あぁ、忘れてた。ほら、あんたの鞄。」
母は手を叩いて、思い出したかのように通学鞄を渡してくれた。
「学生証に書かれた緊急連絡先にファミレスの店員さんが電話をくれてね、わざわざ受け取りに行ったのよ。」
「ありがとう、母さん。」
「やだ、足元が泥だらけじゃない。夕飯できてるから、さっさとお風呂に入って来なさい。」
面倒臭そうに溜息を吐きながらも、水を吸った靴下を脱ぎ忘れた俺の足跡により汚れてしまったフローリングの床を拭き、色々と世話を焼いてくれる母に感謝して、今度こそ靴下を脱いでから浴室へと向かった。
¶
雨水と汗に
「あら、戻ったの。冷めちゃうから、遠慮せず座りなさい。」
「あ、うん……。」
昔から家族ぐるみの付き合いがある篠莉の母が見ている前で、ひとりで飯を食うことに気まずさを感じている訳ではない。俺はただ、自分の身代わりとなって負傷した篠莉の話を耳に入れる度、彼女を護ることができなかった罪悪感に苛まれ、心臓を鷲掴みにされるような気分になるのだ。
俺は食欲の赴くまま、ひたすら無心で箸を動かして母同士の会話に耳を閉ざした。そうでないと、まるで大切な幼馴染を凶弾から護れなかった愚かで無力な自分が責められているような気がして、気が狂いそうだったからだ。
黙々と機械的に口を動かし、普段はとても美味しく感じる母の手料理を前に心ここに在らずといった俺の顔色の変化が伝わってしまったのか、和子小母さんが慌てた様子で立ち上がる。
「ちょっと長居し過ぎちゃったみたい。明日早くに篠莉を病院まで迎えに行かないといけないから、そろそろお暇しようかしら。」
「そう。篠莉ちゃん、早く回復すると良いわね。私たちにも手伝えることがあったら、いつでも頼って頂戴ね。」
「ありがとう。それじゃあ、また。」
客人を玄関まで見送ろうとする母に続いて、俺は食事を切り上げて椅子を引く。
「宗助くん、大丈夫よ。篠莉が帰ったら、またお見舞いに来てくれると、あの子も喜ぶわ。篠莉ったら、最近は口を開けば宗助くんの話ばっかりだから……。」
「必ず行きます! 今日は本当に、すみませんでした……。」
「謝ることはないわ。いつも娘のことを気に掛けてくれて、ありがとうね。」
和子小母さんが何気なく放ったその一言に、一筋の涙が頬を伝った。俺は、心の底から救われたと感じたのだ。
「宗助くんにとっても恐ろしい体験だったでしょうし、きっと心も体も疲れてるのよ。今日はしっかりと休んで、また篠莉に元気な笑顔を見せてくれると、私も嬉しいわ。」
「はい……。」
そう言い残して、和子小母さんは向かいの一軒家へと帰っていった。
「宗助、善くぞ無事で帰ってきたわね。和子さんの前では流石に言いずらかったけど、篠莉ちゃんのことは貴方のせいじゃない。あまり自分を責めて、思い詰めないようにね。」
母は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、俺の乾き切っていない頭に手を伸ばして慰めの言葉を掛けてくれる。だが、篠莉のことが俺のせいではないというのは違う。話を聞く限り、命を狙われているのは俺だけなのに、篠莉に本来の人生を諦めさせただけでなく、不死身の身体を手に入れたとはいえ、銃撃の身代わりとして
「ああ、ありがとう。母さん……。」
だが、それを母に悟られる訳にはいかない。「未来人から教えてもらったところ、理由は分からないが殺されそうだ」と言ったところで混乱を招くだけだし、それが我が運命にどのような影響を及ぼすのか知れたものではない。篠莉は「
「そういえば、父さんは……?」
「なんか急な仕事が入っちゃったからって、今日は帰れないって。」
「そっか。」
父が仕事の都合で帰ってこないというのは、頻繁に起こることではないが、特段珍しくもない。ということは、同じ職場で働いている篠莉の父も、今日は多忙で帰っていないのだろう。そうであれば、病院に和子小母さんしか現れなかったことにも合点が行く。
「ねえ宗助、今日は疲れたでしょうし夜も遅いから、明日の学校は午後からでも良いわよ。一日休んで良いと言ってあげたいところだけど、生憎貴方を頭の良い子に産んであげられなかったから、単位が危ないでしょう。」
「嫌なこというなあ。でも、心配してくれてありがとう。」
「その代わり──」
母は半休を認める代わりに、ある交換条件を提示した。
「明日、篠莉ちゃんが帰ってくるって話だったでしょう。だから、起きたらすぐに身支度を整えて、お見舞いに行ってあげなさい。」
その言葉に、俺は大きく頷いた。
「言われなくてもそのつもりだったよ。」
「よろしい。はい、これ。」
すると、母はポケットから財布を取り出し、一万円札を俺に手渡した。
「親しき中にも礼儀ありってね。手ぶらで行かせる訳にはいかないから、早く家を出てお見舞い品を見繕ってきなさい。」
「わ、分かった……。」
正直なところ、また何か良からぬ事件に巻き込まれたいためにも不要不急の外出は避けたいところなのだが、断る訳にもいかない。母から札を受け取った俺は、階段を上って廊下を進んだ先にある突き当りの自室へと戻り、すぐにベッドへと身を投げた。スプリングが軋む音と共に、俺の身体を
「篠莉……。」
俺は意識を闇に手放す直前まで、愛しい幼馴染の顔を脳裏に思い浮かべていた。
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