Ep.3 死の宣告

 程なくして、到着した救急隊員に担架で運ばれていく篠莉を心配するあまり、事情を説明して救急車への同乗を許可された俺は、最寄りの大学病院に搬送された彼女の緊急手術が終わるのを集中治療室の外側の座席に腰掛け、祈りを籠めた両手を合わせて待ち続けていた。


「頼む……!」


 そう譫言うわごとのように延々と独り言ち、篠莉の無事を願いながら、永遠にも感じられた時の中を一刻千秋の思いで待つこと何時間が経った頃だろうか。凍り付くような静寂が支配する病院の廊下を、ぱたぱたと駆け足でこちらに近づいてくる足音が鳴り響いた。


「宗助くん!」


「和子小母おばさん……。」


 肩で息をしながら絶望した表情で俺の名前を呼んだ足音の主は、篠莉の母親・紫陽花和子かずこだった。正体不明の暴漢により銃撃を受けた娘の凶報を聞き付けた母は、汗水漬くとなった額を服の袖で拭い、雨に濡れた髪を振り乱して息も絶え絶えに叫ぶ。


「一体何があったの!?」


「それが、俺にも何が何だか──」


 訳が分からないながらも、俺は自分の知り得る情報全てをありのままに伝えた。涙声で言葉に詰まりながら、篠莉が命の危機に瀕していることを話す俺の無様な姿を見ても、和子小母さんは急かすことなく黙って耳を傾けてくれた。


「なんてことなの……。」


「すみませんでした! 俺が付いていながら、こんな──」


「宗助くんは何も悪くない。貴方が無事で居てくれただけでも……。」


 幼少期から近所同士として家族ぐるみで親交の深い関係とはいえ、娘が今まさに生死の境を彷徨っているのにもかかわらず俺の身を案じてくれていることに、とっくに枯れたはずの涙が再び噴水のように流れてくる。だが、その時「手術中」と書かれた表示灯の血を連想させる赤いランプが消え、執刀医が厳粛な雰囲気を纏って集中治療室の扉を開いた。


 医師の姿を見るや否や、和子小母さんと俺はわらにも縋るような思いで、口々に篠莉の安否を尋ねる。


「お、落ち着いてください! 手術は無事に成功しましたので、命に別状はありません!」


「本当ですか!? あぁ、神様……!」


 冷静さを欠いて詰問する俺たちをなだめるように吉報を告げた年配の男性医師に、和子小母さんは何度も頭を下げて感謝の意を表する。一方、俺は篠莉の生還を知ったことで緊張が解け、腰が抜けたかのようにその場で崩れ落ちた。だが、その中で何処か冷静に今までの事の顛末てんまつを振り返っている自分も居た。


 というのも、篠莉の胸元に命中した3発の凶弾は尋常ならざる大量出血を引き起こしており、その惨憺さんたんたる光景は俺のような医学の心得などない素人目にも、心臓などの重要な臓器を巻き込んだ致命傷に他ならないと理解できた。諸手を挙げて喜ぶべき篠莉の生還に、俺は正直なところ、一抹の違和感を覚えていた。


「それにしても、このような症例は私も初めてでした。輸血が必要なほどの出血量でしたが、血圧・体温の低下や臓器不全を惹起じゃっきすることもなく、順調に処置を終えることができました。弾丸も全て主要な血管や臓器を避けていたので、現時点では後遺症も考え難く、術後の回復も早いと予想されます。奇跡と言うべきか、偶然にしては出来過ぎとも──いえ、今のは忘れてください……。」


「ありがとうございます!」


 和子小母さんは大切な愛娘が助かった事実に心底安堵した様子で、年配医師の詳細な説明をほとんど把握していないようだった。他方で、その内容を一言一句にわたって聞き逃すまいと、注意深く耳を澄ませていた俺の混乱は増すばかりであり、内心うごめいていたかすかな疑問の種が芽吹き始めていた。



 ¶



 その後遅滞なく全身麻酔から覚醒した篠莉は、回復室に移されて検診を受け、病棟へと運ばれた。やはり、その回復速度は異常というべきもので、俺と和子小母さんが篠莉の眠る病室へと案内された時には、既に彼女は意識を取り戻していた。大きな個室の窓際のベッドで横になっている彼女の美しい顔を照らす蒼白い月影は、いつの間にか時刻が夜を迎えていたことを知らせてくれる。


「ああ篠莉、無事で良かった!」


 人工呼吸器から解放され、色艶の良い顔で笑みを浮かべる篠莉を、和子小母さんが我先にと抱き締める。俺は彼女が生きて再び笑顔を向けてくれたことに感極まって涙が込み上げてくるのを必死に堪え、握り拳を両手にこしらえた。拳銃を前にして一歩も動けなかった無力な俺を護るために犠牲となった彼女を差し置いて、弱みを見せて良い訳がないのだから。


「お母さん、心配掛けてごめんね。でも、私は大丈夫だから。」


「篠莉……?」


「今は宗助と二人切りにしてもらっても良いかな。」


 奇跡的な再会の感動に浸ることもなく告げられた、真剣な娘の頼みに何か感じ取るものがあったのか、和子小母さんは名残惜しむように篠莉の手を握ってから身をひるがえす。


「分かったわ。私はお医者様と今後の相談をしてくるから、ごゆっくりね。」


 そして病室に残された俺と篠莉の間には、しばしの沈黙が訪れる。


「宗助、私のこと起こしてくれる?」


 驚くべきことに篠莉は、麻酔の影響によって満足に動かすことのできない身体にもかかわらず、痛みを押してベッドから起き上がろうとするので、仕方なく彼女の背中に腕を回して枕を背凭せもたれ代わりに座らせる。


「おい、大丈夫なのかよ……。」


 篠莉は俺の心配に答えることなく、淡々と切り出す。


「話の続き、しても良いかな。」


「えっ……。」


「『驚かないで最後まで聞いてくれる……?』──って言ったやつ。」


 今の俺には、篠莉に対して問い詰めたいことが山ほどある。しかし、篠莉が昼のファミレスにて何か言いそびれていたことを思い出して、まずは彼女の話に耳を傾けた。


「『このままだと俺は』──どうなるんだ……?」


「詳しい説明をするためには、始めに私のことを話さないといけないね。」


 篠莉は思い詰めたように髪を青く染めながら、ぽつりぽつりと記憶を辿るように言葉を紡いだ。



 ¶



 時は2030年──気の滅入るような梅雨の季節にもかかわらず、私は生涯を共にすると誓った最愛の恋人・梅蔭宗助との結婚式当日に、何者かによって幸せの絶頂から絶望の奈落へと突き落とされた。式への招待を快く受けてくれた親しい友人や家族の前で披露するはずだった純白のドレスはついぞ人目に触れることはなく、何処までも深く呑み込まれていきそうな漆黒の喪服に身を包んで、物言わぬむくろと化してしまった新郎を見送ることになろうとは。


「許さない。絶対に。」


 宗助を結婚式場にて殺害後、行方をくらませた犯人は見つかっていない。それもそのはず、遺体には特に目立った外傷もなければ凶器が使用された痕跡もなく、死因は頚部けいぶを長時間圧迫されたことによる気道閉塞に起因する窒息死であるとみられ、単独犯による扼殺やくさつ──すなわち、他殺であることは確実視されている。その一方で、犯人の動機から現場への侵入経路に至るまで、一切合切が分からず仕舞いなのだ。


 事件から一月以上が経過した今や警察の捜査も迷宮入りが既定路線となっているが、私は決して諦めない。犯人の目的や犯行手段など、知ったことではない。私は何が何でも、最愛の恋人の命を取り戻してみせるのだ。


 そこで私は知人の伝手つてを借りて、都内某所にひっそりと構えられている研究施設に足を運び、そこで一介の研究員として働いている友人のもとを尋ねた。公にはされていないものの、事実上は政府直属の秘密研究所として運営されているというこの場所で、私は仰々しく厳重な警備態勢が敷かれているエントランスゲートを潜り抜けるための来客用ICカードを受け取るため、受付で面会証に個人情報を記入して、金属探知機を使用した簡易的な持ち物検査を受けて、エレベーターで地下研究所へと向かった。そして開かれた扉の先には、面会を約束していた人物が礼儀正しく辞儀をして私を出迎えてくれる。


「こんばんは。ご無沙汰してます。」


「紫陽花ちゃん、待ってたよ。随分とやつれてるみたいだけど、大丈夫……?」


 久方ぶりの再開となったにもかかわらず開口一番に私の体調を気遣ってくれているのは、結婚式にも招待していた学生時代の男友達だ。宗助の死によって連日悪夢にうなされろくに眠ることもできず、食事も喉を通らないために頬がこけた私の病的な風貌を見て、彼はいささか動揺しているようだ。


「それはこっちの台詞だよ。の?」


「昔のよしみってことで。俺にとっても危ない橋だから、実は最後まで悩んでたんだ。生半可な気持ちで紫陽花ちゃんがここに来たのだとしたら、止めてやるべきかもしれないってね。でも、目の前でそんな顔されたら断れる訳ないよ。」


「ごめん、ごめんね……。」


「何より、宗助は俺にとっても高校以来の親友だ。あいつを助けてやれるのは紫陽花ちゃん──君を置いて他に居ない。俺からも、どうか頼んだよ。」


 重苦しい雰囲気が静謐せいひつなる廊下を包み込む中で、会話を重ねながら歩くこと数メートル──突き当りに現れた物々しい鉄扉を前にして、彼は首から下げているカードケースに入った身分証をセンサーにかざす。すると、軽快な電子音と同時に扉は自動で開かれるので、周囲を警戒しながら足早に先へと進む。


「これが、時間遡行装置タイムマシンなの……?」


「あぁ。俺たち研究員の血と汗と涙の結晶さ。」


 そう、切羽詰まった私がわざわざ旧友の職場を訪問した理由は、目の前に置かれた人一人が入るのに精一杯といった寸法の公衆電話のような縦長の機械──かつては創作の世界にしか存在しない絵空事だと一蹴された、人類待望の夢・時間遡行装置タイムマシンだ。その昔は先進国として屈指の科学技術力を有していた日本が、中進国の台頭によって多岐にわたる産業分野で後れを取り始めた中で、こうした状況を危惧した政府は、かねてから秘密裏に時空の壁を超越する技術の研究・開発を推進していたのである。


 そして私は、結婚相手を無惨にも殺害された現実を受け入れることができず、無理を承知で時間遡行装置タイムマシンを利用した過去改変という禁忌を犯そうとしていた。実際のところ、政府はこの機械の存在すら世間に公表していないため、その利用方法や仕組みなどは研究・開発に携わった彼のようなごく一部の人間しか知らない。そして、機械が開発されてから間もない現代におけるその使用用途は原則的に、科学者や研究員を過去の時代に派遣して調査活動を行うなど、学問・研究の発展以外に認められていないというのが実情だ。私的利用に関与した研究員がどのような処罰を受けるのかは、彼自身も検討が付かないというのだから、この一世一代の大博打が孕む危険性は計り知れない。


「既に説明した通りだけど、改めて注意事項のおさらいだ。心して聞いてくれ。」


「分かった。」


 時間遡行装置タイムマシンを利用する時間遡行者タイムリーパーは、その意識が過去に存在していた自分に取って代わるのみである。従って、現在24歳の私の肉体は、その時点で2030年の現在に取り残される。例えば、現時点で私の身体が何らかの怪我や病気を患っていたとしても、遡行先の自分の肉体が健康であった場合には何らその影響がないばかりか、その後の行動次第では将来的な傷病リスクを回避することができるかもしれないという訳だ。


 また、時間遡行装置タイムマシンの開発が進んでいない過去へと飛ぶ場合は、物質として唯一時空を超えて転送することができる専用の小型ビーコンを携帯していないと、現代に帰還することはできない。だが、機械の不正利用防止の一環としてビーコンはごく少数しか生産されておらず、その全てが研究所内で厳重に保管されているため、私が持ち出してしまえばすぐに発覚してしまう。よって私は、宗助の命を救うため、2030年を生きる自らの肉体に別れを告げる。この時間旅行は正真正銘、最後の手段──すなわち、片道切符となろう。


「さて、ここからが重要事項だよ。紫陽花ちゃんも知っての通り、自分だけではなく、他者をも巻き込んだ出来事が未来において確定している場合、それは絶対不変だ。」


「うん、その法則性こそが私の唯一の希望だもの。」


 未遂に終わったとはいえども、私は今年に宗助との結婚式を催した──つまり、過去に戻って何をしようとも、多数の友人・知人や家族を巻き込んで行われる予定だった結婚式がある2030年まで、私の身の安全は保障されるという訳だ。それまでの間に、何故宗助の命が狙われなければならなかったのか、そして彼を死に至らしめた犯人は何処の誰であるのかを突き止め、何としてでも彼が直面する死の運命を回避すること──それこそが、私が己に課した使命である。


「しつこいようだけど、本当に良いんだね。未練や後悔、現代でやり残したことがあったとしても、時間遡行装置タイムマシンが存在していない時代に向かったら、紫陽花ちゃんは二度と現代には戻ってこれない。」


「ちゃんと分かってる。私にとっては、宗助の死んでしまったこの時代で生きる意味なんて、もうないの。」


 心の底からよどみなく本音を告げた私の確固たる意思を前に、彼がこれ以上何も言うことはなかった。


「ちなみに、この時代に残される私の肉体はどうなるの。」


「もしかして、時間遡行装置タイムマシンの私的利用の証拠が残って俺の立場が危うくなるかもって、心配してくれてる?」


「そりゃあね。『この時代とはお別れだから、貴方の今後も知りません』なんて不義理なこと、言えないよ。」


「ありがとう。でも大丈夫。紫陽花ちゃんが機械に入った後は、過去での行いが2030年の君の肉体に反映される。分かりやすく言えば、過去で何もせず宗助が死ぬ未来が変わらなければ、君はそのままこの機械から出てくることになるだろう。でも、何らかの改変を経て、君と宗助を取り巻く運命の歯車の噛み合わせにが生じたのであれば、君はこの機械から出てこない。この時代に残る俺の視点から観測すると、それはおそらく一瞬の出来事になるだろう。」


 ならば、時間遡行装置タイムマシンの不正利用が発覚するリスクもないか。私の我儘わがままに付き合ってくれている彼の身にるいが及ぶことがあっては寝覚めが悪いので、最低限それを確認しておくことができて良かった。


「それでも、機械を利用した痕跡を完全に消し去ることはできない。俺も自分がこれからどうなるか分からないけど、もし罪悪感があるなら、無事過去に戻ったあかつきには、俺にも優しくしてやってくれ。」


「あはは。宗助が妬いちゃうから、それは無理かな。」


「薄情な人だな君は。まあいいさ。じゃあ、そろそろ行くかい……?」


「お願い。高校卒業を控えた7年前──2023年に!」


 狭苦しい機械の内部に身を押し込めた私は、彼に向かって行き先を高らかに宣言し、発破を掛ける。外側に取り付けられたパネルをこなれた手付きで操作する彼の声は、重く分厚い金属板に囲まれた機械の中からは聞き取ることができず、そのうち私の意識は闇へと誘われていった。



 ¶



「それで、気が付いた頃には学校の教室で昼休みを迎えてたって訳なの。」


「ま、待ってくれ。あまりにも突飛で壮大な話の内容に脳が情報を処理し切れない……。」


「そう、だよね。信じられる訳ないよね……。」


 途中で何度も理解を諦めかけたところを何とか踏み止まり篠莉の説明を全て聞き届けた今も、その内容を脳内で反芻はんすうして咀嚼そしゃくしようと努める俺の様子を見て、彼女は自らの告白が信用に値しないものと判断されたのだと早合点して肩を落とす。


「違うぞ。少なくとも俺の知る篠莉は、こんな時に下らない嘘を吐くような人じゃない。ただ、聞きたいことが多すぎて、何から聞けば良いか分からないんだ……。」


「うん、ありがとう。ゆっくりで良いよ。」


「まず、これだけは始めに聞いておきたい。俺は、その、死ぬのか。」


 単刀直入に発した核心に迫る質問に、篠莉は窓の外を埋め尽くす夜闇に溶け込むような濃い紺色に髪を染めつつ、正直に答えた。


「私にも、なんで宗助が殺されなきゃならないのか分からない。でも、現に今日だって──」


「つまり、俺個人が何者かに命を狙われてるのは確かだってことか……。」


 清廉潔白とまでは言わないものの、他者から恨みを買うようなこともせず、平凡な人生を歩んできたごく一般的な男子高校生である俺が明確に死を望まれているという事実に、動物としての本能が警鐘を鳴らし、全身の皮膚が粟立あわだつように戦慄する。2023年初夏──俺は家族を置いて最も付き合いの長い幼馴染の精神年齢が、ある日突然に7歳もかけ離れてしまったという現実を受け入れることで精一杯だった。

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