Ep.2 覚悟の犠牲

 しとしとと地面を叩いては霧散むさんする、粉糠雨こぬかあめが奏でる水音が心地良い昼下がり──今朝のニュースが全国的な梅雨入りを発表していた通り、重苦しい鈍色にびいろの天からは飽きもせず細かい水滴が零れ落ちる。


 誰もが物憂げな表情で嘆息たんそくを漏らす梅雨の季節を迎える度に、地元・神奈川県の私立高校に通う17歳──梅蔭うめかげ宗助そうすけは、初恋の幼馴染の顔を思い浮かべてしまい、表情が緩むのを必死に堪える必要があるのだ。


「おいおい、ただでさえ虎みたいに獰猛どうもうで威圧的な顔がもっと怖くなってるぞ。」


「誰が虎だ。悪かったな怖い顔で。」


 午前最後の授業を終えて昼休みを迎えた教室を出ようと扉に向かうと、口元を引き締めて肩をいからせながら歩く俺を茶化すように、教室の角席で椅子に寄り掛かって欠伸あくびをしているクラスメイトの友人──榛原はいばら唯市ゆういちから声が掛けられる。


「そんな顔してたら、紫陽花ちゃんも怯えて逃げちまうんじゃねえか。」


「余計なお世話だよ。は今更俺の顔見たくらいで何とも思わないさ。」


 俺の返答に対して、榛原は梅雨の湿気でまとまらない中分けの黒髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、薄ら笑いを浮かべて続ける。


「名前で呼び合う仲とは、相変わらずお熱いねぇ。傍から見てたら何で付き合ってないのか、理解に苦しむよ。」


「俺だって自分に告白する勇気があれば、ここまでこじらせてないっての……。」


 榛原との会話にて話題に上がった人物は、紫陽花篠莉──俺が小・中・高と順当に地元の学校へと進学する中で常に一緒だった、近所に住んでいる同い年の女の子だ。とはいえ、一体いつから面識があったのか忘れてしまったほどの昔馴染である篠莉のことを、恋愛対象として好きなのだと自覚したのは、実にごく最近のことである。


 そんな関係だからこそ、彼女にとって自分は所詮しょせん一人の親友としてしか見られていないのではと気後れしてしまい、積年の恋慕れんぼの情を吐露するきっかけを掴めないでいる。しかし、俺と篠莉のやり取りを間近で見ている校内の友人たちからは、入学当初から普段の生活態度に至るまで、俺の彼女に対する好意は隠し切れてないと評価されているため、こうして時折苦言を呈されるのだ。


「紫陽花ちゃんだって、宗助にベタ惚れだと思うけどな。でないと日頃から一緒に登下校したり、弁当作ってきて食べさせ合ったりなんてしないだろ。」


「そういうもんか──って、なんで唯市がそんなことまで知ってんだよ!?」


「おっと、口が滑った。とにかく、待たせ過ぎってのも同じ男としてどうかと思うぞ。現に紫陽花ちゃんはモテる。成績優秀で運動神経も悪くない。おまけに身体は小さいけど、顔は美人そのものだしな──」


「おいてめぇ。」


「冗談だって! あんまり呑気のんきに構えてると、何処の馬の骨とも知れない悪い虫が寄ってくるってことを忠告したかっただけだ! 全く、その図体ずうたいと強面で睨まれるのはマジでおっかねえな……。」


五月蠅うるさいな。馬なのか虫なのか、どっちなんだよ。」


 いくら気の置けない友人とはいえ、篠莉のコンプレックスを気安く話の種にしてもらっては困る。榛原を牽制するように睨み付けると、気が抜けたように腹の虫が鳴く音でふと我に返り、教室全体を見回す。


「そういえば、篠莉は何処だ……?」


 さっきまで一緒に授業を受けていたはずのクラスメイトの姿が見当たらず、俺はおもてに困惑の色を浮かべる。というのも、俺と彼女の間では、昼休みが始まったらすぐに合流して学校の屋上で弁当を食べるというのが習慣化していたからだ。その時、榛原が途端に真剣な眼差しで俺の双眸を覗き込み、諭すように喋り始める。


「気を付けろ宗助。お前のことだから既に知ってるだろうが、紫陽花ちゃんは──」


 つられて真面目に耳を傾ける俺の姿勢から何かを察したように、榛原がそれ以上言及することはなかった。


 ここ最近、篠莉は自ら周囲に助けを求めようとしないものの、複数の女子生徒から虐めを受けているようなのだ。彼女には生まれ持っての特異体質に起因して、感情の移ろいにより髪色が変化する。そんな普通の人間ではあり得ない、一風変わった個性を持つ彼女を標的にした加虐行為は入学当初から断続的に行われていたようだが、部外者たる俺が介入したところで火に油を注ぐ結果になることは分かっていたので、事後的に担任教師へ相談するなどしてこれまでは対応してきた。


 しかし、今回は訳が違う──そう俺が考えを改めるようになったのは、衣替えが始まった先週の昼休みに、半袖で登校してきた篠莉の腕に残る青痣を発見したときだ。当然、その場で彼女に対して詰問したものの、適当にはぐらかされるばかりで真相究明には至らなかった。だが、昼休みの開始早々彼女の姿が見当たらないことは、俺の不安を掻き立てるのには十分過ぎる状況だ。


「悪い唯市! 急いで篠莉を探さねえと……。」


「おう、俺のことは気にするな。何なら一緒に──」


「ダメだ。篠莉のためにもなるべく大事にはしたくない。それに、居場所の目星は付いてるんだ。」


 その特異体質故に否が応でも目立ってしまう篠莉のことを思えば、いたずらに事を荒立てて、彼女の平穏無事な生活を壊すことは望ましくない。現に彼女自身が、気の置けない仲であると自負する俺にすら、虐めに直面しているという窮状きゅうじょうを明かそうとはしないのだ。虐めの被害者は誰だって助けを欲しているだろうが、大声を張り上げて第三者の介入を求められるのなら始めからそうしている。被害者側の心情を一切無視して、ただ虐めの事実を公然と適示して騒ぎ立てるのでは、真の意味で被害者の救済には寄与しない。


 我が校は職員室のある1階のフロアを除いて、2階から4階まで順番に各学年の教室が立ち並んでいるところ、ここ4階は俺たち3年生の専用フロアである。普通に考えれば篠莉は何らかの事情によって下のフロアへと向かったことが想定されるが、敢えて俺は急いで階段を駆け上がって、屋上へと歩を進めた。



 ¶



 重たい鉄扉のドアノブを捻り、梅雨の生温い雨水が飛来する屋上のコンクリートへと、室内履きのまま足を踏み出す。決して広くない校内の何処かで篠莉が虐めを受けていると仮定して、俺の見立てが正しければ彼女は屋上で死角となっている階段の裏手に居るはずだ。


 昼休みということもあり、全校生徒たちは各々が校内の至る所に散らばって昼食を取っている。雨天により外へは迂闊うかつに出られないことを鑑みれば、人目に付かない場所は相当に限られるところ、俺はいつも篠莉と一緒に屋上で過ごしているからこそ、一部雨の当たらない場所があることは分かっていた。


「ねえ紫陽花さーん、私ショックだなあ。さっきまで真っ赤な髪の毛でテンション高そうにしてたと思ったら、私たちの顔見た途端に真っ青になっちゃってさー?」


「ちょっと、私は今それどころじゃ──」


 そして案の定、篠莉は屋上に設置された変電設備や室外機によって生じるデッドスペースに連れ込まれ、複数人の女子生徒に囲まれて、何やら因縁を付けられている模様だった。俺は今すぐにでも飛び出して彼女を助けてやりたい衝動に駆られながらも、加害者側を逆上させては篠莉のためにならないので、ぐっとこらえて成り行きを見守る。


「そうだよねえ。一刻も早く愛しの梅蔭くんのところに行きたいって訳だ。相変わらず色惚いろぼけしてばっかの、能天気な奴だわ。」


「ちが──」


 加害者グループのリーダー格と思われる比較的長身の女子生徒が、高圧的な態度で篠莉に反論の機会を与えまいと矢継ぎ早にまくし立てる。人数差や体格差もさることながら、温厚で優しい性格の篠莉が絶対に反抗することができないことを見越しての狼藉であることなど、火を見るよりも明らかだった。


「卑怯な奴等め……。」


 俺は角度的に雨を避け切れない物陰から、自分の制服が濡れることも構わず、いつでも介入できるように集中力を研ぎ澄ませる。すると、俺は普段とは異なる篠莉の様子に気付き、形容し難い違和感を覚えた。


 些細な心境の変化にも敏感に反応する篠莉の髪は、嬉しい時は暖色、悲しい時は寒色など、基本的に変化の傾向が決まっている。ただし、その時々で抱いている感情の強弱によって、色の濃淡が微妙に異なるのだ。彼女の特異体質は今や周知の事実だが、そこまで詳細な事情を知っているのは、彼女の家族を除けば俺くらいなものだ。


「虐められて落ち込んでるはずなのに、今の篠莉は少し明るい色だな……。強いて言うなら、赤紫ってところか……?」


 一体どういうことかと考え込んでいると、当の篠莉が唐突に雨雲を切り裂くような、怒気を孕んだ大声を放つ。


「いい加減にして!」


「……!」


 滅多なことで感情を表に出すことはない篠莉が、髪色が変化するよりも早く、複数の女子生徒を前に堂々と声を張り上げた──その異常事態に、加害者グループの連中はともかく、俺ですら開いた口が塞がらなかった。


「貴方たちに構っている暇なんて、もう一瞬たりともないのよ! 今すぐそこを退いて!」


 物凄い剣幕で敵意を剥き出しにする篠莉の怒髪どはつに圧倒されて、退路を塞ぐように立つ女子生徒たちの間を無理やりに押し通ろうとする彼女を止める者は、誰一人として居なかった。そして──。


「篠莉……。」


「あ、あぁ……。」


 屋上を脱出するため足早に屋内階段の方へと向かってきた篠莉から身を隠す暇もなく、物陰から一部始終を注意深く観察していた俺は、呆気なく彼女に見つかってしまう。


「ち、違うんだよ篠莉! 俺も今し方来たばかりで──」


「宗助……!!」


 顔を合わせるや否や、篠莉は俺の弁解に耳を貸すこともなく、途轍とてつもない勢いで胸に飛び込んでくる。腰に回された腕はふるふると震え、赤紫色の髪は弱々しく青に染まり、直に伝わってくる心臓の鼓動は激しさを増していくばかりだ。そして、ほんの一瞬だけ覗いた彼女の顔は、降りしきる雨のカーテンに覆われて良く分からなかったが、何処か涙を流しているようにも見えた。


「よ、よしよし。怖かったな。」


「ちがっ、違うの……。」


 嗚咽を漏らすばかりでうまく言葉を紡ぐことができない篠莉は、俺の胸元に顔を押し付けたまま必死に首を振って否定する。どうやら、虐めの恐怖で泣き出してしまった訳ではないらしい。とにかく、この場は居心地が悪いので、篠莉の背中を怪訝けげんそうな視線で見つめる加害者グループの連中に憎しみの籠った眼差しでにらみ返してから、俺は泣き止まない彼女を連れて階段を下っていった。


「何あいつ、生意気。」


 雨音に紛れ、去り際に背後から吐き捨てられたリーダー格の女子生徒による恨み節を、俺の耳は決して聞き逃さなかった。



 ¶



 声を押し殺して号泣する篠莉の肩を抱いて、下級生の教室が立ち並ぶフロアへと歩みを進めていく時間は、途方もなく長く感じた。その稀有けうな体質と美貌故に顔が広い篠莉と幼馴染の関係は後輩にも知れ渡っており、そんな俺が彼女を泣かせてしまったと誤解されかねない構図は、生徒たちの注目を集めないはずもなかった。


 もはや何処にも落ち着ける場所がなくなってしまった俺は、篠莉を連れて学校を離れ、近くのファミレスでゆっくりと昼食を取ることにした。午後には選択科目の授業が待ち構えていたのだが、俺も彼女も今やそれどころではなかろう。それに、日頃から成績優秀な優等生として名が通っている彼女が一度くらい欠席しようとも、単位取得に影響はないはずだ。──もっとも、俺に限ってはそうもいかないのだが。


「勝手にフケちまって悪かったな。何でも奢るから、好きなの食べて元気出せよ……。」


「……。」


 やはり、何かがおかしい。俺の独断で早退したことの詫び代わりに食事を御馳走するといっても、篠莉の眉間みけんにはしわが深く刻まれ、悲愴感を漂わせたまま俯いて目を合わせようとしなかった。


「ねえ宗助、私が今から言うこと、驚かないで最後まで聞いてくれる……?」


「えっ、あ、うん。分かったよ。」


 一転して、覚悟を瞳に宿して顔を上げ、やぶから棒に真剣な表情で話を切り出す篠莉に、俺はただ頷いて続きを促す他なかった。


「宗助、このままだと貴方は──」


「死にさらせやあああ!!」


 刹那、平日の昼時でサラリーマンを中心に活況を呈していたファミレスの店内で、野獣のような殺意を孕んだ咆哮ほうこうが空気を震わせ、束の間の静寂が訪れる。一瞬にして場の衆目を集めた声の主の方を咄嗟に振り返ると、信じられないことに、俺の目と鼻の先には一丁の拳銃を両手に構えた謎の男が仁王立ちしていた。──そして、その照準は俺の眉間へと合わせられていた。


「なっ……!?」


 現代日本において何故拳銃を所持しているのか、何故選りによって俺の命を狙うのか、この男は何処の誰なのか──迫り来る明確な死の恐怖を前にして、俺の脳内には複雑多岐にわたる疑問が濁流のように駆け巡った。しかし、それらが何ひとつとして解消できぬまま謎の凶漢は引き金に指を掛け、今にも弾丸を射出せんと撃鉄が振り下ろされるのを呆然と眺めることしかできなかった。


 ──バン、バン、バン!


 耳をつんざく発砲音と共に、無慈悲にも発射された3発の凶弾が俺の命を刈り取らんと襲い掛かる。だが、幾ら待てども、死を覚悟して固く目を閉じた俺の意識が途絶えることはなかった。その代わり、俺の顔面には人肌のように温かい飛沫しぶきに濡れる感触があった。


「し、のり……。」


 恐る恐る目を開くとそこには、両手を横にして俺の前に立ちはだかり、華奢きゃしゃで小柄な身体を目一杯広げて、俺に傷ひとつ付けまいと何の躊躇ちゅうちょもなく殺意の矛先の身代わりとなった篠莉の後ろ姿があった。


「嘘だ、篠莉!!」


「そう、すけ……。」


 力なく崩れ落ちる篠莉の身体を抱き留めて、涙ににじむ視界に、何処か満足気な彼女の顔を焼きつける。座っていた俺の頭部を強襲した弾丸は篠莉の胸元に全て着弾し、尋常ではない量の出血を伴っていた。


 ──それは、誰の目に見ても明らかな致命傷だった。


「喋らなくて良い! 今救急車を──」


「邪魔しやがって! 今後こそ死ねやぁ!」


 震える指先でスマホを手に取ろうとポケットをまさぐるが、あろうことか、凶漢は非情にも改めて俺の頭に銃口を向け、狙いを定める。


「何やってんだお前!」


「銃を取り上げろ!」


 しかし、周囲で一部始終を傍観していた客や店員が、篠莉の惨状を見てようやく目を覚ましたように動き出し、蜷局とぐろを巻いて凶漢に喰らいつく。だが、俺はその攻防に目もれず、ただ篠莉の力が抜けきった手を強く握り締めて、虚ろな瞳を覗き込んでいた。


「頼む篠莉! 死なないでくれ!!」


「宗助……。私は、大丈夫だから……。」


「そんな訳ないだろ! すぐに救急車が来るから、持ち堪えてくれ!」


 床一面をおびただしい量の赤黒い血液が這う。取り急ぎ応急処置をしなければ、救急車の到着までに篠莉は失血死してしまう。俺は雨に濡れてしまった制服のシャツを力の限り引き千切って、彼女の創部に押し当てて止血を試みるも意味はなく、彼女の顔が苦痛に歪むだけだった。


「ぐぅう……!」


「くそっ、俺はどうしたら──」


 痛みに苦しみ喘ぐ篠莉の命を諦めたくない俺は、心を鬼にしてシャツの切れ端で傷口を圧迫する。


「こんなことになるんだったら、しっかり伝えておけば良かった……!」


 俺は無意識のうちに、篠莉への秘めたる想いを伝えそびれていたことへの後悔の念を口に出してしまう。すると、彼女は震える手でそっと俺の腕に触れて、微笑みを浮かべた。


「そんなに心配しなくても、大丈夫、だよ……。」


「しのり……!」


 篠莉は血と涙に塗れた俺の頬にもう片方の手を添えて、激しく喀血かっけつしながらも言葉を紡いだ。


「私は、死なない。貴方を、護るために……!」


「なにを──」


 その一言を最後に、篠莉の小さな両手はだらりと垂れ下がって床に叩きつけられる。しかし、俺の心が絶望に染まることはなかった。なぜなら、胸元の銃創を押さえる掌から伝わってくる心臓の鼓動が、まだ彼女の命のともしびが消えていないことを雄弁に物語っていたからだ。そして何より、彼女が意識を失う前に絞り出したメッセージに籠められた決意──それは、到底死にゆく人間が発するものとは思えないという正体不明の確信があった。


 俺は自らが置かれた状況の一切が呑み込めないまま愕然として、薄れゆく自我の中でただ篠莉の小さな身体を抱き締める。俺にできることは、救急車が到着するまでの果てしなく続く地獄のような時の流れを、ひたすら歯を食い縛って耐え忍ぶのみだった。

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