Ep.2 覚悟の犠牲
しとしとと地面を叩いては
誰もが物憂げな表情で
「おいおい、ただでさえ虎みたいに
「誰が虎だ。悪かったな怖い顔で。」
午前最後の授業を終えて昼休みを迎えた教室を出ようと扉に向かうと、口元を引き締めて肩を
「そんな顔してたら、紫陽花ちゃんも怯えて逃げちまうんじゃねえか。」
「余計なお世話だよ。篠莉は今更俺の顔見たくらいで何とも思わないさ。」
俺の返答に対して、榛原は梅雨の湿気で
「名前で呼び合う仲とは、相変わらずお熱いねぇ。傍から見てたら何で付き合ってないのか、理解に苦しむよ。」
「俺だって自分に告白する勇気があれば、ここまで
榛原との会話にて話題に上がった人物は、紫陽花篠莉──俺が小・中・高と順当に地元の学校へと進学する中で常に一緒だった、近所に住んでいる同い年の女の子だ。とはいえ、一体いつから面識があったのか忘れてしまったほどの昔馴染である篠莉のことを、恋愛対象として好きなのだと自覚したのは、実にごく最近のことである。
そんな関係だからこそ、彼女にとって自分は
「紫陽花ちゃんだって、宗助にベタ惚れだと思うけどな。でないと日頃から一緒に登下校したり、弁当作ってきて食べさせ合ったりなんてしないだろ。」
「そういうもんか──って、なんで唯市がそんなことまで知ってんだよ!?」
「おっと、口が滑った。とにかく、待たせ過ぎってのも同じ男としてどうかと思うぞ。現に紫陽花ちゃんはモテる。成績優秀で運動神経も悪くない。おまけに身体は小さいけど、顔は美人そのものだしな──」
「おいてめぇ。」
「冗談だって! あんまり
「
いくら気の置けない友人とはいえ、篠莉のコンプレックスを気安く話の種にしてもらっては困る。榛原を牽制するように睨み付けると、気が抜けたように腹の虫が鳴く音でふと我に返り、教室全体を見回す。
「そういえば、篠莉は何処だ……?」
さっきまで一緒に授業を受けていたはずのクラスメイトの姿が見当たらず、俺は
「気を付けろ宗助。お前のことだから既に知ってるだろうが、紫陽花ちゃんは──」
つられて真面目に耳を傾ける俺の姿勢から何かを察したように、榛原がそれ以上言及することはなかった。
ここ最近、篠莉は自ら周囲に助けを求めようとしないものの、複数の女子生徒から虐めを受けているようなのだ。彼女には生まれ持っての特異体質に起因して、感情の移ろいにより髪色が変化する。そんな普通の人間ではあり得ない、一風変わった個性を持つ彼女を標的にした加虐行為は入学当初から断続的に行われていたようだが、部外者たる俺が介入したところで火に油を注ぐ結果になることは分かっていたので、事後的に担任教師へ相談するなどしてこれまでは対応してきた。
しかし、今回は訳が違う──そう俺が考えを改めるようになったのは、衣替えが始まった先週の昼休みに、半袖で登校してきた篠莉の腕に残る青痣を発見したときだ。当然、その場で彼女に対して詰問したものの、適当にはぐらかされるばかりで真相究明には至らなかった。だが、昼休みの開始早々彼女の姿が見当たらないことは、俺の不安を掻き立てるのには十分過ぎる状況だ。
「悪い唯市! 急いで篠莉を探さねえと……。」
「おう、俺のことは気にするな。何なら一緒に──」
「ダメだ。篠莉のためにもなるべく大事にはしたくない。それに、居場所の目星は付いてるんだ。」
その特異体質故に否が応でも目立ってしまう篠莉のことを思えば、
我が校は職員室のある1階のフロアを除いて、2階から4階まで順番に各学年の教室が立ち並んでいるところ、ここ4階は俺たち3年生の専用フロアである。普通に考えれば篠莉は何らかの事情によって下のフロアへと向かったことが想定されるが、敢えて俺は急いで階段を駆け上がって、屋上へと歩を進めた。
¶
重たい鉄扉のドアノブを捻り、梅雨の生温い雨水が飛来する屋上のコンクリートへと、室内履きのまま足を踏み出す。決して広くない校内の何処かで篠莉が虐めを受けていると仮定して、俺の見立てが正しければ彼女は屋上で死角となっている階段の裏手に居るはずだ。
昼休みということもあり、全校生徒たちは各々が校内の至る所に散らばって昼食を取っている。雨天により外へは
「ねえ紫陽花さーん、私ショックだなあ。さっきまで真っ赤な髪の毛でテンション高そうにしてたと思ったら、私たちの顔見た途端に真っ青になっちゃってさー?」
「ちょっと、私は今それどころじゃ──」
そして案の定、篠莉は屋上に設置された変電設備や室外機によって生じるデッドスペースに連れ込まれ、複数人の女子生徒に囲まれて、何やら因縁を付けられている模様だった。俺は今すぐにでも飛び出して彼女を助けてやりたい衝動に駆られながらも、加害者側を逆上させては篠莉のためにならないので、ぐっと
「そうだよねえ。一刻も早く愛しの梅蔭くんのところに行きたいって訳だ。相変わらず
「ちが──」
加害者グループのリーダー格と思われる比較的長身の女子生徒が、高圧的な態度で篠莉に反論の機会を与えまいと矢継ぎ早に
「卑怯な奴等め……。」
俺は角度的に雨を避け切れない物陰から、自分の制服が濡れることも構わず、いつでも介入できるように集中力を研ぎ澄ませる。すると、俺は普段とは異なる篠莉の様子に気付き、形容し難い違和感を覚えた。
些細な心境の変化にも敏感に反応する篠莉の髪は、嬉しい時は暖色、悲しい時は寒色など、基本的に変化の傾向が決まっている。ただし、その時々で抱いている感情の強弱によって、色の濃淡が微妙に異なるのだ。彼女の特異体質は今や周知の事実だが、そこまで詳細な事情を知っているのは、彼女の家族を除けば俺くらいなものだ。
「虐められて落ち込んでるはずなのに、今の篠莉は少し明るい色だな……。強いて言うなら、赤紫ってところか……?」
一体どういうことかと考え込んでいると、当の篠莉が唐突に雨雲を切り裂くような、怒気を孕んだ大声を放つ。
「いい加減にして!」
「……!」
滅多なことで感情を表に出すことはない篠莉が、髪色が変化するよりも早く、複数の女子生徒を前に堂々と声を張り上げた──その異常事態に、加害者グループの連中はともかく、俺ですら開いた口が塞がらなかった。
「貴方たちに構っている暇なんて、もう一瞬たりともないのよ! 今すぐそこを退いて!」
物凄い剣幕で敵意を剥き出しにする篠莉の
「篠莉……。」
「あ、あぁ……。」
屋上を脱出するため足早に屋内階段の方へと向かってきた篠莉から身を隠す暇もなく、物陰から一部始終を注意深く観察していた俺は、呆気なく彼女に見つかってしまう。
「ち、違うんだよ篠莉! 俺も今し方来たばかりで──」
「宗助……!!」
顔を合わせるや否や、篠莉は俺の弁解に耳を貸すこともなく、
「よ、よしよし。怖かったな。」
「ちがっ、違うの……。」
嗚咽を漏らすばかりでうまく言葉を紡ぐことができない篠莉は、俺の胸元に顔を押し付けたまま必死に首を振って否定する。どうやら、虐めの恐怖で泣き出してしまった訳ではないらしい。とにかく、この場は居心地が悪いので、篠莉の背中を
「何あいつ、生意気。」
雨音に紛れ、去り際に背後から吐き捨てられたリーダー格の女子生徒による恨み節を、俺の耳は決して聞き逃さなかった。
¶
声を押し殺して号泣する篠莉の肩を抱いて、下級生の教室が立ち並ぶフロアへと歩みを進めていく時間は、途方もなく長く感じた。その
もはや何処にも落ち着ける場所がなくなってしまった俺は、篠莉を連れて学校を離れ、近くのファミレスでゆっくりと昼食を取ることにした。午後には選択科目の授業が待ち構えていたのだが、俺も彼女も今やそれどころではなかろう。それに、日頃から成績優秀な優等生として名が通っている彼女が一度くらい欠席しようとも、単位取得に影響はないはずだ。──
「勝手にフケちまって悪かったな。何でも奢るから、好きなの食べて元気出せよ……。」
「……。」
やはり、何かがおかしい。俺の独断で早退したことの詫び代わりに食事を御馳走するといっても、篠莉の
「ねえ宗助、私が今から言うこと、驚かないで最後まで聞いてくれる……?」
「えっ、あ、うん。分かったよ。」
一転して、覚悟を瞳に宿して顔を上げ、
「宗助、このままだと貴方は──」
「死にさらせやあああ!!」
刹那、平日の昼時でサラリーマンを中心に活況を呈していたファミレスの店内で、野獣のような殺意を孕んだ
「なっ……!?」
現代日本において何故拳銃を所持しているのか、何故選りによって俺の命を狙うのか、この男は何処の誰なのか──迫り来る明確な死の恐怖を前にして、俺の脳内には複雑多岐にわたる疑問が濁流のように駆け巡った。しかし、それらが何ひとつとして解消できぬまま謎の凶漢は引き金に指を掛け、今にも弾丸を射出せんと撃鉄が振り下ろされるのを呆然と眺めることしかできなかった。
──バン、バン、バン!
耳を
「し、のり……。」
恐る恐る目を開くとそこには、両手を横にして俺の前に立ち
「嘘だ、篠莉!!」
「そう、すけ……。」
力なく崩れ落ちる篠莉の身体を抱き留めて、涙に
──それは、誰の目に見ても明らかな致命傷だった。
「喋らなくて良い! 今救急車を──」
「邪魔しやがって! 今後こそ死ねやぁ!」
震える指先でスマホを手に取ろうとポケットを
「何やってんだお前!」
「銃を取り上げろ!」
しかし、周囲で一部始終を傍観していた客や店員が、篠莉の惨状を見て
「頼む篠莉! 死なないでくれ!!」
「宗助……。私は、大丈夫だから……。」
「そんな訳ないだろ! すぐに救急車が来るから、持ち堪えてくれ!」
床一面を
「ぐぅう……!」
「くそっ、俺はどうしたら──」
痛みに苦しみ喘ぐ篠莉の命を諦めたくない俺は、心を鬼にしてシャツの切れ端で傷口を圧迫する。
「こんなことになるんだったら、しっかり伝えておけば良かった……!」
俺は無意識のうちに、篠莉への秘めたる想いを伝えそびれていたことへの後悔の念を口に出してしまう。すると、彼女は震える手でそっと俺の腕に触れて、微笑みを浮かべた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫、だよ……。」
「しのり……!」
篠莉は血と涙に塗れた俺の頬にもう片方の手を添えて、激しく
「私は、死なない。貴方を、護るために……!」
「なにを──」
その一言を最後に、篠莉の小さな両手はだらりと垂れ下がって床に叩きつけられる。しかし、俺の心が絶望に染まることはなかった。なぜなら、胸元の銃創を押さえる掌から伝わってくる心臓の鼓動が、まだ彼女の命の
俺は自らが置かれた状況の一切が呑み込めないまま愕然として、薄れゆく自我の中でただ篠莉の小さな身体を抱き締める。俺にできることは、救急車が到着するまでの果てしなく続く地獄のような時の流れを、ひたすら歯を食い縛って耐え忍ぶのみだった。
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