アジサイの咲く頃に

yokamite

Ch.1 Dead or Alive

時間遡行者・紫陽花篠莉の覚悟

Ep.1 アジサイの咲く頃に

 沛然はいぜんたる暴風雨が一瞬の静寂をも許さない、梅雨の季節に迎えたある日のこと。鬱屈とした心持ちがそのまま表れたかのような青紫色の毛先を人差し指に巻きつけてもてあそびながら、私・紫陽花あじさい篠莉しのりは大きな化粧台の鏡を見つめて自分の暗い髪色を視界に映しては、湿気の籠った生温い空気を肺から一気に吐き出す。


「折角のジューンブライドなのに、まさか台風が直撃するなんてね……。」


 初夏の雨期に色鮮やかな花を咲かせる紫陽花という姓を受けた私だが、名実一体と言うべきか、この憎たらしい大雨の中で迎えた今日という日は、奇しくも私の24歳の誕生日──そして、幼少期から人生を共に歩んできた幼馴染との結婚式の日でもあるのだ。しかし、そんな私たちの新たなる門出を祝福しているつもりか、一世一代の晴れ舞台を前にして、気の滅入るような灰色の雨雲が強風を伴って狂騒曲を奏でている。


 ──コン、コン。


 この広大な曇天の何処かには存在するはずの朝日を想像しながら東の空を眺めていると、篠突しのつく雨が乱暴に窓を叩く音に紛れて、何者かが優しく部屋の扉を数回に分けてノックする。


「紫陽花様、そろそろヘアメイクのお時間で──」


「あ、どうも……。」


「きゃあああああ!?」


 ブライズルームに入室してきたスタッフに声を掛けられたため振り返って会釈をすると、何となく予期していた通り、彼女は青紫色に染まった私の頭髪を見るや否や、驚きの悲鳴を上げて硬直する。それもそのはずだ。なぜなら、私の髪色はこの結婚式場に到着した数十分前までは、何の変哲もない黒一色だったのだから。


 ──そもそも、何故に私はこのように奇抜な髪色をしているのか。


 その問いの答えは、この身に宿る生来の特異体質にある。一体どういう仕組みなのかは知る由もないが、手触りには自信のある私のたおやかなセミロングは、その時々の感情によってカメレオンのように色を変えてしまうのだ。激しい怒りや極度の興奮状態にある時は燃えるような紅色、不安や緊張などによって心細さを感じている時には陰鬱とした藍色、喜びや感動に心躍る時は温かみのある若葉色など、まるで本物の紫陽花かのように多種多様な色調を呈する。


「という訳なんです。お騒がせして申し訳ありません……。」


「とんでもない。こちらこそ思慮に欠けた無礼な言動をお許しください。」


 私よりも一回りほど年上の女性スタッフは、深々と頭を下げて謝意を表する。


「それにしても、思わず見惚れてしまうほどに美しい髪でいらっしゃいます。青紫色ということは、緊張されているということでしょうか。」


勿論もちろんそれもあります。大好きな人と一緒になれる幸せ半分、式に向けた不安半分って感じで。でも、一番の原因はこの雨ですね。選りにもよって、このタイミングで台風直撃だなんて……。」


 私の髪を労わるような手付きで丁寧にけずりながら話し掛ける彼女に対して、あくまでも正直な感想を打ち明ける。本来ならば、こういう時はスタッフにも気を使って、来たる結婚式に心躍らせているように明るく振舞うのが一般常識なのだろう。しかし、髪色によって自分の意思とは関係なく胸中がある程度他者に推察されてしまう私にとって、嘘や建前といった虚構はほとんど何の意味も持たない。


「紫陽花様、釈迦に説法かとは思いますが、これはご存じでしょうか。」


「……?」


「青い紫陽花の花言葉──それはです。素敵だと思いませんか。」


 仏のように微笑む女性によって告げられたその言葉に、セットの途中だった私の髪はみるみるうちに明るくなって、一片の曇もない大空のように澄み切った水色へ。そして次第に、燦々と降り注ぐ陽の光を浴びて育つ新芽のように、可愛らしい黄緑へと変貌した。


「まあ、本当にですね。私も少しは紫陽花様のお役に立てたでしょうか。」


「えへへ……。ありがとうございます。すっかり式本番が楽しみになっちゃいました。」


「では、この後すぐにドレスの着付けに入りますので、御手洗などは今のうちにお願い致します。」


 女性スタッフの巧みな話術により、あっという間に感じられたヘアメイクが完了して、普段とは一味違う自分と鏡越しに対面する。明るめの下地によって透明感のある肌色に、自然な濃さの眉と睫毛によって凛とした目元が強調され、少し遊び心のあるピンク色のリップとチークが今の髪色との相性も良く、健康的な血色感と大人の色気を両立している。丁寧に編み込まれたシニヨンスタイルは適度なボリューム感を演出していて、特別に用意してもらった青紫色の紫陽花の髪飾りが良いアクセントとなっている。まさに今の自分は、生涯における最高傑作だといっても過言ではなかろう。


 実のところ、私が陰気臭い雰囲気を漂わせていた理由はもうひとつある。それは、私が自分自身の容姿にコンプレックスを抱いていることだ。初対面の人間には時たま中高生と見間違えられるほどの童顔と低身長に、原因不明の特異体質も相俟って、かつての学生時代は壮絶な虐めをも経験したことのある私にとって、この生まれ持った幼げな外見は一種の劣等感すら催させる。


 だが、そんな私を何の見返りも求めず常に支え続けてくれた幼馴染が居たことは、我が人生最大の幸福だった。物心付く前から近所に住んでいた同い年のは、如何なる時でも私の傍で笑顔を見せてくれた。この上ないと感じる喜びも彼と一緒ならたちまち倍増するし、深い絶望に打ちひしがれても、彼が半分背負ってくれるから何時もすぐに立ち直れた。思えば、長きにわたって苦しめられてきた虐めから抜け出すことができたのも、私とは対照的に筋骨逞しく少し強面で大人びた印象を与える彼が、すぐ近くで護ってくれていたからかもしれない。


 いつの間にか彼の存在は、梅雨の雨空を覆い尽くす黒雲の隙間から差し込む太陽のように、私の中で自分の命よりも掛け替えのないものにまで膨れ上がっていた。そしてある日、私が思い切って積年の想いを打ち明けると、彼自身も照れ臭そうにしながら応えてくれた。聞けば、彼が甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれていたのは、他でもなく私を想い続けてくれてのことだったというのだ。晴れて相思相愛となった私たちが地元の大学を卒業してから、結婚という道を選択するのに長い年月は要しなかった。


 大切な恋人との馴れ初めに想いを馳せていると、先程とは別の女性スタッフがブライズルームに訪れる。その後は、滞りなくウェディングドレスの着付けが終わった。数か月前から予約して押さえていた飾り気のないシンプルな純白のドレスは、やはり私の好みにぴったりだ。


「本当にお綺麗でございます、紫陽花様。」


「嬉しい。ありがとうございます……!」


 うっとりとした感嘆の溜息と共にスタッフから掛けられた言葉は、私の自尊心を満たし、自己肯定感を高めてくれる。このまま式本番が近づくにつれて不安と緊張に苛まれ続け、私の特異体質のことなど知り尽くしている恋人の前に濃い青紫を晒すことになったらと、一時は如何なることかと考えたが、全ては杞憂だったようだ。


「では、そろそろ新郎様をお呼びして参りますので、暫しの間お寛ぎください。」


「分かりました……!」


 今頃、別室にて私と同じようにヘアメイクを施されているであろう大好きな彼の姿を思い浮かべ、無意識に口角が上がっていくのを自覚して頬が一層赤く染まる。これから始まる幸せな結婚式に向けて、慈悲深き神が情けを掛けてくれているのか、先程まで窓を叩き割らんばかりの勢いで降り注いでいた雨脚も心做こころなしか少し弱まって、仄暗い雨雲の隙間から放射状に光が差し込み、朝日が顔を覗かせ始めた。


 ──全てが順風満帆だ。この時まで、私は本気でそう思っていた。


「うわあああ!?」


「急いで救急車を! AEDまだか!?」


 刹那、ブライズルームの扉を隔てた廊下の奥から響き渡るは、無秩序な阿鼻叫喚。それと同時に、複数人の慌ただしい足音と怒号が飛び交った。その騒然とした状況を不審に思って、扉の向こう側を確認しに行こうと立ち上がる。しかし、その確固たる意思に反して、何故か私の両足は部屋を出ることを拒むように一歩も動かない。それどころか、次第に膝がかくかくと笑いはじめて肩が震え、崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまう。私の身体動作をつかさどる脳は本能的な直感によって、得体の知れない恐怖に怯えていた。


「な、何が起きているの……。」


 郊外にひっそりと佇む結婚式場全体を包み込む、その異様な雰囲気を肌で感じ取った私はただひとり、ひたすらに当惑する他なかった。そこに、突如として何者かが転がり込むように部屋の中へと入ってくる。


「篠莉! あぁ、無事で良かった……!」


「お母さん……!」


 そこには、式の開始前に別室で彼の両親と挨拶をしていたはずの、フォーマルなアンサンブルドレスに身を包んだ母親が、呆然と立ち竦んでいた。母は私の姿を認めるや否や、すぐ傍まで駆け寄って床に座り込む私の肩を抱き締めるので、頭の中を埋め尽くす混乱はますます肥大化するばかりだ。


「一体、何の騒ぎなの……。」


 怖ず怖ずと尋ねる私の問いに対して、母は大粒の涙をハンカチで受け止めながら、絞り出すように声を発する。


「落ち着いて聞いて頂戴……。宗助くんは──」


 母の口から告げられたのは、私にとって最も受け入れ難い、あまりにも悲惨で絶望的な内容だった。心が壊れていくのを避けるためか、無意識のうちに私の脳はこれ以上何も聞くまいと機能を停止するので、啼泣ていきゅうする母の声は次第に遠ざかっていくかのように感じた。


 そう思った直後、耳をろうさんばかりの雷鳴が、稲光を伴って大地を穿うがつ。同時に部屋の電気は消えて、全てを吞み込まんとする晦冥かいめいがもたらされた。突然の出来事に涙を流す暇すらもなく、ただ唖然とするばかりの私を嘲弄ちょうろうするかの如く再び大雨が狂ったように窓を揺らすのだから、結局のところ、慈悲深き神など何処にも存在していなかったのだ。


 光が失われる前に見た、鏡に映る自らの髪色──それは、絶望を体現する闇すらも凌駕りょうがせんと言わんばかりの、にごりきった黒色だった。

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