第2話
その日のことはやたら印象深かったので、それなりに思い出すことができる。
都心にある大学の校舎から電車で二時間揺られ、体は疲労によって重だるくなっていた。最寄りの駅から自宅へ向かう道中、夏の最中とはいえ夏至をとうに過ぎた八月の十九時ごろは、日は落ち薄青く陰っていて、民家の玄関の灯りがぽつぽつと灯っていた。
大通りを歩いて帰ると、途中でラーメン屋を横切ることになる。電球で囲われた看板の“ラーメン”が不可抗力的に目に入ったが、特に何か思うことはなくそのまま素通りしていった。
私は短期の集中講義に耐えきった自分の身体を労ることでいっぱいいっぱいだった。
寝たきりの生活でいたことを思えば随分と体力はついてきたものの、まだ長時間にわたって集団生活を過ごすには足りておらず、集中講義の期間は休憩のたび、人通りのない校舎の裏手側の階段まで移動して、息を吸いに行っていた。
そんな生活を四日間過ごした。朝から夕の長時間の講義、加えて電車で二時間かかる行き帰り、私の頼りない身体にはたいへん堪えた。
リモート授業のままでいられたら幸せだったのだが、そういう希望者は少数らしい。それはコロナウイルスによるパンデミックを早く過去のものにしたいといった世情的に仕方のないこととして、問題はその後だった。
店を通り過ぎて、照明の光がほんのり遠のきつつある中、不意に、なんの脈絡もなく彼の姿が頭の中にふっと現れた。もっと言えば、顔だった。
その時私は、当然の如く「はて、どうしてだろう」と思った。
ついさっきまで、「この数日間で蓄積された疲労をどうにかするのに、いったい何日かかってしまうだろう」とか「いよいよ卒論の執筆に本腰を入れる時期が来た」とか、そういう考えばかりで頭をいっぱいいっぱいにしていたのにも関わらず、その重だるい思考が、気がついたらとある人物の顔にやんわりと押しやられてしまっていたのだった。
その現象はすごく不自然で、根拠がないと強く思った。唐突で意味不明だ。私は呆気に取られていた。
この瞬間、私は口を閉じることを忘れた口を半開きにしながら、ぽかんと間抜けな表情をしていたに違いない。
不意をつかれて驚くと、時間の流れ方が変わるように感じることがある。その時、私の内に流れていた時間がやたらゆっくりとしていて、車や自転車が走っている音などが遠くに追いやられているような、不思議な感覚の中にいた。
いつの間にか重だるい考え事をしていたことすら忘れ、男の気配に注目した。
多分、この男は私の精神世界にいるのだろう。頭の中で思い浮かべたイメージが、その世界をスクリーンに映写されている。そんな風に私は解釈した。しかしどうしてこの男が登場するのだろうか。彼とは、二日前に講義が修了してから会っていない。というか、これからはほとんど会うことがなくなる。もう私はこれで単位を取り終えるから、学校に行くこと自体少なくなる。講師である彼に卒論のアドバイスを聞くのも、リモートで事足りる。
今更なにを気にかけることがある?ただひたすらこの現象を不思議に思った。
次の瞬間、突如、気恥ずかしさが胸からどっと吹き出し、思わず足を止めて自分の胸を押さえていた。私は思案から一気に現実に引き戻され、何が起こったのか理解が及ばず、気が付いたら「はあ?」と一言、口をついて出てしまっていた。
信号が赤から青に変わったことを確認したところで、私は一歩も動けなかった。
ラーメン屋を通り過ぎて 濫(仮) @nail-river-insect
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