第2話

真夏の匂いがする。隣に眠る兄より先に目覚めたとき、雨夏刻は思った。

見渡す限りの深緑だった。苔の生えていない木はないし、その木々はどれも刻の頭の上のずっと上まで伸びていた。

明るく深い森の、ふかふかの苔のうえに、逢魔と刻に寝転んでいた。

太陽の匂いがいっぱいにする苔は、刻の人生で初めて見るものだった。御月町ではまず絶対にないものだ。

刻は髪を逆立たせて、ゆっくりと笑顔になった。

「ついに、異世界に来た」

刻は兄を乱暴に起こした。

「一秒も寝てられない。兄さん、見て見て」

逢魔は不機嫌そうに起き上がった。

「何、面白いものでもあったの」

「あれだけ苦労して異世界に来たのに、わすれちゃった?」

逢魔はぴょんと飛び上がった。

「そうだった!」

ばふんと苔がめくれて、宙に飛んだ。綿のように空中に待ったそれは、光となって固まった。りんごのような形をしたそれが地面に落ちて木にもたれかかると、じんわりと透明な水が流れてきてその果実を洗った。

その光景はまるで、森がごちそうを差し出して歓迎しているかのようだった。

「この苔玉を、食えってこと?」

逢魔が問いかけると、うなづくように一瞬水流が強まった。おそるおそる口をつけた逢魔は、目を丸くした。その、りんごよりすいかに近く、砂糖より甘い赤い果実はいっぺんに、逢魔の人生で一番好きな食べ物になってしまった。

一連の出来事で逢魔は、不機嫌な気分をいっぺんに吹き飛ばした。

こんなに不思議なことが起こるここでなら、余命一ヶ月といわれている母さんを治す魔法を覚えられるに違いない!

「すごいな、異世界!」

逢魔は見渡すと、ある方角を指さした。そこには人が一人通れるような、はっきりとした獣道があった。

「これが、やつらの言っていた『魔法への道』だろ」

刻はそうだろうと言った。

雨夏たちは自治団から、異世界の知識を少しだけ聞き出していた。

「異世界の入口には魔法を覚えられるところと、冒険の方法をちょっとだけ教えてくれる不思議な存在がいる」

「そんなものがあるなら、やつらなんていらないさ」

逢魔の言葉に、刻は目をそらした。この兄が言うやつらは、自治団のメンバーのことだ。

「やっぱり、あの人たち嫌い?」

「ああ、嫌いだね。異世界しか僕らの希望はないってのに、行くことに反対するし、ほっといてもくれないし」

「ただ、この異世界について気をつけろって言われたのは、聞くべきだと思う」

妹の真っ当な意見に、逢魔は嫌そうに返事をした。

「わかっているよ」

「じゃあ今度からは、いきなり拾い食いしないで」

「わかった。けど、お前も食べたいんだろう?」

「さすが、わかってる」

「双子だからな」

逢魔は背負っていたリュックから、携帯用コンロと鍋を取り出した。

刻はそこに収穫した苔玉を入れていく。

少し経った後、苔玉はつやつやと光る赤いジャムになった。

二人はパンを取り出すと、そっとジャムをすくった。そのジャムつきパンは、刻の一番の好物になり、逢魔の二番目の好物となった。

短い食事を終えて、逢魔と刻は立ち上がる。

「これからがんばろう」

「うん、母さんのためにな」

逢魔の言葉に、一瞬だけ刻はうつむいた。

二人は靴を履き直し、そっと横に並び立った。

そっと目を合わせてから前を向く。

目指すは苔の生えていない獣道だ。白くまっすぐに伸びているそれは、はじまりの場所と呼ばれるふさわしいほど、明るく、わかりやすかった。

逢魔と刻は手を取り合うと、森のなかを歩きだした。

ちょうどそれは、異世界の門を目指したときと同じ歩き始め方だった。

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