第十五話 勝利の女神

 バトンを受け取って走りだすと、一位との距離は十メートルのまま変わっていなかった。


 これなら、追いつける……!


 僕はバトンを強く握る。

 前を走る生徒は、そんなに速くない。頭に巻かれた赤いハチマキの先端が、後ろから見えた。

 ここで僕が抜けば白組の得点が紅組を上回り、総合優勝も決まる。


 僕が今、すべての運命を握っている。


 一瞬ごとに距離が詰まっていく。半周手前、直線レーンに入ったところで僕が一位に躍り出た。ワーッと周囲から歓声が上がる。

 このままいけば一位でゴールできる。僕は前を見据えた。

 勝利を確信したところで、ふと、なにかがおかしいことに気づく。

 先ほど上がった歓声がまだ続いている。


 この歓声は、僕にじゃない……?


「逃げてー!!」


 その声が聞こえたとき、右側から人影が現れた。

 姿勢のいいフォーム。軽快な足運び。あいつがすぐ横に来ていた。


 町田京介……!


 ずっとついてきていたのか。

 腕が当たりそうなぐらい近くを走っている。

 顔を見るまでもない。走りに余裕がある。強敵だと実感した。

 しかし、直線さえしのげば僕の勝ちだ。あの町田とはいえ外側が不利なカーブで僕を追い抜くのは容易ではないはずだ。

 カーブまであと五メートル、三メートル、一メートル――


 よし、カーブに入った!


 視界に映っていた町田が少し後ろに下がったのが分かる。

 僕は心でガッツポーズした。


 いける! 町田に勝てるぞ。


 身体を内側にすこしだけ傾け、遠心力でさらにスピードを上げようと踏み込む。


 あの時、町田に気を取られていなければ……あとになってそう思う。

 あの瞬間、時間が止まったかのように周囲の動きがスローモーションになった。

 昨日、雨が降った時点で僕は勝利の女神から見放されていたのかもしれない。


 強く踏み込んだ足が外側へ、すべった。



 ◆


 中二の身体計測を最後に、僕の身長は完全に伸びるのをやめた。

 小学生のころから小柄で背の順ではいつも前から数えたほうが早かった。

 肩幅のある男らしい体型に憧れていたこともあり、僕は食事や運動で体格を大きく見せるように取り組み始めた。

 ネットで調べた方法はすべて試した。毎日朝昼晩牛乳を飲み、一日一リットルパックを飲み干すのは余裕だった。

 そんな生活を三年続けた。しかし身長は一向に伸びる気配がない。

 背が伸びるのではと思って始めたバスケも、身長が止まったことでやる意味を見出せず、中三の引退前に辞めてしまった。


「溝口って女みたいだよな」

 目が大きいのもあり、そう揶揄されることもしばしばだった。

 大人から見るとそれは『かわいい』という魅力的な特徴だったようで、母が芸能事務所へ勝手に書類を送ったこともある。しかし落選の通知が来た。

「身長が足りないんだって。これから伸びるだろうし、そしたらまた応募しましょ」

 母は前向きに言ったが、残念そうだった。


「溝口くんのことはいいなって思うけど、私より背が低いのはちょっと……」

 中学生のときだ。今でも覚えている。

 放課後、校舎裏に呼び出して告白したが、その場であっけなく玉砕ぎょくさい

 見た目で判断してくるやつなんてこっちから願い下げだ。

 高校になって告白される機会が増えたが、僕とまともに話したこともない人に言われても本気になることなんてできない。

 どうせ外見しか見てないんだろ。

 毎回テキトーな理由を言って断る日々。

 それだけみんな、見た目しか見ていないんだなと実感した。

 

「これは生まれつきなんだよ」

 陸上部の部長がそう言った。たしかにこいつは目つきが悪い。

 生まれつき? そんなんであんたは諦めるのかよ。

 変えられないからって、それで人生決められてたまるか。

「僕、そういうやつ嫌いなんだよね」

 町田はあっけに取られていた。

 僕も隠していた素の自分が出ていることに戸惑う。思わず本音を口走ってしまった。

 気まずくなってその場を立ち去る。

 しかし、どこかすっきりしているのにも気づいた。いつも胸のうちでくすぶって、破裂しそうなくらい膨張していた思いが、緩んだような気がする。

 本音で話せるってこんなにも開放的なのか。


 後日、強い言葉を使ってしまったことを謝ろうと思った。しかし、会うたびに町田は僕に噛みついてくる。

 謝るタイミングを失ったが、町田みたいな関係は初めてだった。

 いいだろう、僕は努力で変われるって証明してみせる。

 僕も町田を敵対視することにした。

 それ以来、彼とは口喧嘩してばかり。でも不思議と悪くない気分だった。




 真っ白になった頭が少しずつ現実を思い出した。


 そうだ、リレーを走っていたんだ。


 目の前には茶色い地面が映っていた。応援の声が頭の中になだれ込む。


 とにかく走らなきゃ。


 とっさに着いた腕がズキズキと痛んだ。

 手首に巻いてもらった白いハチマキが、赤く染まっていた。


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