第十二話 瞳

 瑞希が俺の胸に寄りかかっていた。

 背後にはコンクリートの壁があり、座った状態の俺は動くことができない。倒れこんできた瑞希を受け止めて、そのまま硬直していた。


「……おい、井上」


「静かにして」


 立てた人差し指を顔の前に持ってくる。瑞希は上目づかいでこちらを見ていた。薄いピンク色のくちびるが目の前にある。Tシャツ越しに俺と瑞希の身体は触れあっていた。

 彼女の身体がゆっくりと上下しているのが分かる。息がかかるほどの距離だった。急に不安がわきあがってくる。

 やばい。俺、汗くさくないか。

 一日外で日に当たっており、すでにたくさん汗をかいていた。緊張と興奮と心配で落ち着かない。

 まさかこんなことになるなんて。

 自分の心拍数が上がっていくのがわかった。顔がほてり始める。


「誰かこっちに向かってきてる」


 瑞希の言ったとおり、角を折れた自販機のある方から男女の声が聞こえてきた。


「ここのジュースね、値段は安いの。品ぞろえはあれだけど」


「へー、じゃあここで買うか。今日は井上先輩も来てるから七本だよな」


 うちの部の後輩だった。

 事故とはいえ、こんなところを見られたら恥ずかしいだけでは済まされない。下手に腕をまわせば抱きしめる格好になるので、動くこともできず頭の中はパニックだった。

 ガコンという音がして飲料水の落ちた音が響く。


「それにしても、先輩たちが今日で引退とかぜんぜん実感ないよな」


「うん、想像できないよね。来週から私たちだけかぁ。ほんと寂しい」


「だよなー。だからお前のジュースあげたいって話、いい提案だったと思うよ」


「でしょう? また今度正式な引退式をやるとはいえ、やっぱり今日で最後なんだしさ。なにかあげたいと思って」


 普段の俺だったら感慨深い気持ちになっただろう。しかし、今は目の前にいる瑞希のことで頭がいっぱいだった。

 彼女はというと、特にあわてた様子もなく後輩たちの声に耳をそばだてている。二人が去るのを俺たちはじっと待っていた。


「とくに井上先輩はさ、今年は残念だったから……先輩なら全国行けるってみんな思ってたのにね」


「うん。本気だったもんな。あの怪我さえなければ、きっと今頃は関東大会出場が決まってたんだろうな」


 俺もそう思っていた。瑞希は部内だけでなく学校やクラスメイトからも期待されていた。

 見ると瑞希の身体が小刻みに揺れていた。俺の胸に顔をうずめ、俺のシャツをぎゅっと握りしめている。

 彼女は泣いていた。


「だけどあの人ならきっと高校でも大活躍だろ。あの井上先輩だぞ? 怪我したのに今日も来てくれるなんてさ。落ち込んでると思ってたけど、ほんとすごいや」


「そうだね。私たちももっと頑張らないと。先輩に追いつかなくちゃ」


 瑞希の必死にこらえる姿は孤独を連想させた。彼女はずっと、人前では弱い部分を見せないようにしてきたにちがいない。


 あんなに友人たちに囲まれているのに、弱音をはける相手はいないのか。

 通じ合っているようで、通じきれていない。そのもやもやは俺も身に覚えがあった。

 スッと視線をそらされるあの瞬間を思い出す――


 鼻をすする音が漏れないよう、俺は瑞希の頭を抱きよせた。

 このままでいたいような早く時間が過ぎてほしいような不思議な気持ちだった。

 たった数分の出来事だっただろうが、俺には何倍もの時間に感じていた。



 何度か飲み物の落下する音が響いた後、ようやく後輩たちが立ち去った。

 瑞希は少し前に落ちつきを取り戻していた。しかし物音をたてないために俺たちは動かずにじっとしていた。


「もう大丈夫そうだね」


 瑞希がふーっと息を吐き出す。しかし俺はまだ動けずにいた。


「……いいかげん、どいてくれ」


「あっ……」


 瑞希があわてて俺から離れる。ようやく俺も身体の緊張を解くことができた。

 俺の前にちょこんと座った瑞希は申し訳なさそうに言った。


「ごめん、重かったよね……?」


「いや、大丈夫」


 だいぶ慣れたが、まだ少しドキドキしていた。汗をかいたわけでもないのに、俺は肩で口元をぬぐうそぶりをする。気恥ずかしさで視線が泳いでしまう。

 しかし服に顔を近づけると不意にドキリと心臓が跳ねた。女の子の匂いがしたのだ。

 甘い香りが心を支配する。瑞希はこちらを向いているが、俺は彼女の目を見ることができなかった。

 そんなことを知らない瑞希は真剣な口調で言った。


「高校でも陸上つづけようかな」


 徐々にいつもの瑞希に戻りつつあった。


「いいじゃん。お前が楽しんでるほうがおばあちゃんも喜ぶだろ」


 瑞希の頑張るすがたに力をもらっているやつは多いだろう。先ほどの後輩たちもそうだし、俺もその一人だった。

 そんな彼女がどこまでいけるのか、俺も見てみたかった。


「町田くんは?」


「俺も続けようかな。井上の頑張りを見てたら、もう少しやってもいいかなって思ってさ。試合でお前のこと見かけたらジュースくらいならおごってやるよ」


 瑞希は少し考えるといいことを思いついたように言った。


「じゃあ、同じ高校を受験しようよ!」


「え?」


「町田くん、目つきのせいで勘違いされやすいでしょ? 私がその誤解を解いてあげるよ」


 彼女は俺の顔をのぞき込むと、へへっと笑った。


「やっぱり、こわくないもん。町田くんのこと」


 俺はちらりと彼女を見た。さっきまで涙で潤んでいた瞳が、今は夕日に照らされてきらきらと輝いている。

 こんな美しくてまっすぐな瞳に見つめられるなんて初めてだった。

 それを見て俺は自分のある気持ちに気が付いた。


「……ありがと」


 彼女を独り占めしたい。俺は瑞希に心を奪われてしまった。


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