第十話 三年前の夏
溝口は「瑞希ちゃん、またね」と言うと、友人たちの輪に混ざってどこかへ行ってしまった。
俺はふんっと息を吐き出す。溝口に邪魔されたが、ここへ来た目的を思い出した。石灰袋を大事そうにかかえる瑞希に手を差しのべる。
「重いだろ。かせよ」
しかし、彼女は俺をさけてそのまま歩きだす。
「いい。これくらい持てるし」
淡々とした声。俺はしかたなく瑞希の後ろについていく。
「そういえばさっきの百メートル見てた? 歩のやつ途中のぬかるみですべったらしいぞ」
俺はなんとか会話につなげようと、ラインカーに石灰を流し込む瑞希に話しつづけた。
「悔しそうだったけど、見る側だったら笑っちゃうかもな」
しかし反応はない。
「なあ、まだ怒ってんのかよ」
瑞希はぜんぜん俺の目を見ようとしない。
「キスなんて大人になればたくさんするんだし? いいかげん、機嫌なおせよ」
瑞希がぴくっと動きをとめる。
「……京介ってほんと分かってない」
瑞希は残った石灰の袋をドンッと地面に落とす。
「冗談でそういうこと言うのが許せないの!」
瑞希はご立腹だった。「なんでわからないのよ」と呟くと彼女はそっぽを向いた。
「わたし、このあと出番だから」
そういって瑞希は俺をおいてテントから出ていく。
「クソッ」
自分の言動にイライラする。ちがう、そうじゃないんだ。
瑞希の後ろすがたを見送ることしかできず、俺は髪をかき乱した。
◆
陸上が最優先の瑞希が部活を一か月間休んだときがあった。
中学三年の夏のこと。この日も真夏の強い日差しを受けながら、俺たちはグランドで練習をしていた。グラウンドはカラカラに乾いており、地面をけると砂ぼこりが舞う。
そんなとき瑞希が盛大にこけた。
初めは地面につまずいただけだと思った。「なにやってんだあいつ」そういいながら周囲は笑っていた。
「いったぁー!!!」
太ももを両手でおさえて彼女は声を上げた。その声にみんなの視線が集まる。
地面から起き上がれない様子に異変を感じた先生が駆けつけた。
俺は遠くからその様子を見ていた。
「あいつ、“ハム”やったんじゃね」
一緒に種目練習をしていた同級生がいう。
“ハム”とはハムストリングスのことだ。おしりの付け根から
「肉離れしてる可能性があるな……。井上、アイシングしてこい。立てるか」
先生が瑞希に手をかしてなんとか立たせる。一人であるくのは難しいようだ。
他の女子部員を呼び、肩をかりてぴょこぴょこと片足をかばいながら進む。そのまま彼女はグラウンドから出ていった。
「残念だな」「ああ……」「かわいそうに」
瑞希のうしろ姿を見て思うことはみんな同じらしい。
「来週の県大会は無理かもな……」
中三最後の全国大会予選。
来週の県大会を通過すれば、地方大会、全国大会と勝ち上がっていくことができる。
瑞希はうちの中学校では期待の星だった。ハムストリングスの肉離れを起こしたとすれば、治るまで数週間から数か月はかかる。痛みがひどい場合、歩くことも難しいだろう。
きっと脚に疲労がたまっていたのだ。彼女はほかの部員より多く本数をこなすから。
井上瑞希の中三の夏はここで終わってしまった――
一週間後の大会当日、彼女は競技場にやってきた。
「え! 瑞希!? 歩いて大丈夫なの!?」
「瑞希先輩じゃないですか! 脚の方は大丈夫ですか……?」
ついて早々、女子部員たちにかこまれている。瑞希はへらへらと笑って対応する。
「大丈夫だよ。みんな心配しすぎ~」
もしかして出場するのか? と部員たちの期待が高まる。しかし、瑞希の背負っているリュックは普段に比べると明らかにぺしゃんこだった。スパイクシューズや着替えなど、出場するのに必要な荷物を持ってきていないことはすぐに分かった。
彼女は走らない決断をしたらしい。
俺たちは瑞希に脚の話題をふるのはやめることにした。
うちの学校から県大会に出場したのは、三学年合わせて四人だった。
瑞希は出場するメンバーの荷物を持ったりストレッチを手伝ったりと裏方に回っていた。
先生や部員たちから無理するなと言われていたが、何もしないのは落ち着かないらしい。待機スペースのすみに座ったかと思えば、急に立ち上がってうろうろと歩きまわる。朝からずっと落ち着きがない。
そのため彼女がしばらくスペースからいなくなっても誰も気にとめていなかった。
予選がひと段落し、残す競技は決勝のみとなった。日も傾きはじめ、暑さはいくぶんやわらいだ。だけど乾いた汗はべたべたで日にさらされて火照った顔はぴりぴりと痛む。
俺は競技場から出て、すこし離れた建物の横にある自動販売機にきていた。
ここの飲み物はほかのところより数十円安いのだ。試合中にもかかわらず人通りが少なく、集中したいときや落ち着きたいときにはよくここにくる。俺の秘密の場所である。
俺は持ってきた財布から小銭をとりだした。
投入口に入れようと思って小銭から指をはなす直前、手がすべってそれを落としてしまう。コンクリートの上を転がった百円玉は俺と自販機から離れていき、建物の角を出たところでくるくると回って止まった。
俺は拾いにむかうと、角を曲がったところでしゃがみ込んでいるやつがいるのに気が付いた。そいつはうちのジャージを着ている。
井上じゃん、と言おうとして思いとどまった。彼女の目が赤くはれてたのだ。
「見つかっちゃったね」
瑞希は鼻をすすっているくせに無理やり笑顔を作った。
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