第一話 フラット

 理科実験室に移動すると、俺と柏木かしわぎあゆむはいつものように隣の席に座った。

 実験の手順について先生が黒板に文字を書いている。

 俺たちは一番後ろの席に座っていた。歩は背もたれのない四角い木製の椅子の前足を浮かせてゆらゆらと身体を揺らしている。


「京介、今日なんか元気なくね」


「そう?」


 先生には聞こえない程度の声で歩が話しかけてくる。察しのいい歩は瑞希の話題を出した。


「井上さんのこと?」


「……部活中に喧嘩した」


「なんだ、いつものやつか」


 歩は聞き飽きたといった風に前を向く。


「一昨日も井上さんと喧嘩してたよな?」


「あの後、部活でまた怒らせた」


「それ、もはや惚気にしか聞こえねぇ」


「それが無視されててさ」


「へぇ、ガチなやつ?」


「俺が悪ノリしたっつーか」


 俺は持っていたシャーペンを手の中でくるくると回す。考え事をするときの癖だった。

 あの日イライラしていたのは、他にも理由があった。



 ◆

 喧嘩した日の昼間のことだった。

 昼食の時間を知らせるチャイムが鳴り、俺は歩と教室を出た。

 教室から購買へ行くには一度階段を降り、昇降口の前を通って向かい側の校舎へ行く必要があった。

 俺が昇降口で足を止めないのを見て、歩は言った。


「あれ、部活は?」


「今日は瑞希たちが整備する日」


「そっか。それにしても毎昼グラウンド整備だなんて大変だねぇ」


「授業終わってからやると時間ないからって、瑞希がさ」


「あー、井上さんらしいなぁ」


 瑞希が部活に真摯しんしに取り組んでいることは、歩もよく知っていた。

 俺と歩は二年の時に初めて同じクラスになり仲良くなった。部長になってから部活の話を聞いてもらうことが増えたため、瑞希の話題もよく出てくる。


「あ、ほんとだ。暑い中みんな頑張るねぇ」


 渡り廊下に差し掛かった時、歩がグラウンドの方を見た。

 まだ六月なのに日光がまぶしい。風が吹くとしげった葉が重なり合い、心地よい音とともにべたついた肌を乾かしていく。


 日差しは歩にも降り注ぎ、彼の茶色い髪をより明るく見せた。

 歩は俺と出会った時から茶髪だった。両耳にピアスの穴がいくつも開いており、生徒指導の恰好かっこうの的である。今朝も先生に説教されたと不機嫌そうに話していた。


 俺はどちらかというと先生たちには気に入られていた。

 目立つような悪いことはしない。陸部の部長に選ばれるくらいには、真面目に学校生活を過ごしている。

 欠点があるとすれば、目つきが悪いことくらいか。初見の人には大体怖がられる。だからなるべく真面目に過ごすことで、俺はその悪印象を改善しようと努めていた。

 一見性格の合わなそうな俺たちだったが、歩はなぜか俺のことを気に入っているらしい。

 そのため普段から一緒に行動することが多かった。

 歩いていると前方から誰かがやってきた。「噂をすれば」と歩がつぶやく。瑞希だった。


「京介とあゆむくんじゃん。やほー」


「お疲れ。瑞希、それなに?」


 俺は瑞希が抱えている錆びついたハードルを見た。バーの部分は木製で、経年劣化でささくれが目立っている。


「ああ、先生に頼まれちゃって。これから廃棄するところ」


「昼は食べたの?」


「まだ」


 俺はため息をつき、頭を抱える。


「歩、俺の分のパン買っといて」


「はいよ」


 歩は俺から小銭を受け取ると、そのままいなくなる。歩は察しがいい。


「ほら、かせよ」


「えっ。いいよ」


「いいから。全部自分でやろうとすんな」


 なかば無理やりハードルを奪い取り、俺は瑞希と並んで校舎裏のごみ置き場へ向かった。

 こいつはいつも一人で抱え込む。


「俺、一応部長なんだけど。そんなに頼りないかよ」


「あはは、そうだよね。ありがと」


 瑞希はえへへと笑った。


「そういや、足の具合はどうなの?」


「うん、ここ最近はだいぶ調子戻ってきたよ!」


 彼女は調子に乗ってぴょんぴょんと跳ねてみせる。


「あんま無理すんなよ」


「ここで無理しないでどこで無理すんのよ!」


「そうは言っても、お前大学でも陸上は続けるんだろ?」


「そうだけど、でも……」


 そのあとに続く言葉は想像できた。一年前の試合の記憶が脳裏に浮かぶ。


「後悔はしたくないから」


 瑞希はまっすぐ俺を見つめる。

 その瞳には強い意志が宿っていた。

 だよな。俺はいつもその瞳に逆らえない。

 部活倉庫とごみ置き場の間を何往復かしている間に、後輩たちはグラウンド整備を終えていた。

 最後のハードルを置いてくると俺たちはそのまま教室に戻ることにした。

 俺は瑞希に話があるのを思い出した。昼休みの校舎裏は誰もいなかった。話をするにはちょうどいい。


「来月の三十日ってひま?」


「三十日? 土曜だっけ」


「そう。その日花火大会あるじゃんか。去年部活メンバーで行ったやつ」


「あー! 楽しかったよね! 屋台もいっぱい出てて……」


 俺も覚えている。その日は午前中に部活があり、誰が言い出したのか練習が終わった後また集まることになった。

 神社で再集合したとき、瑞希を含め女子たちはみんな浴衣姿で現れた。

 人混みをかき分けながら出店を巡る。

 最後は花火が打ちあがる夜空を見上げたのだ。


「今年も一緒にいかね?」


 二人で。


 最後の一言は口に出せなかった。

 まだみんなには声かけてないけど、と付け加える。意味は理解してくれると思った。

 俺は瑞希の目を見て返事を待った。


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